東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マタイ9章35-38節「働き手のために祈る」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/10/19

マタイ9章35-38節「働き手のために祈る」

*** 10/19(水)祈祷会 説教概略 ***
マタイ9章35-38節「働き手のために祈る」

 最近つくづく思わされていることがあります。この新会堂、子どもからお年寄りまでが主の前に安心して集えるようにとのビジョンの中で建てられました。ただ、人に安らぎを与えるのは建物ではないということです。

 子どもたちも最初こそボルダリング、バスケット等、遊べるからとのきっかけで来ます。でも、続けて来ている子たちの発言や様子を見ていると、実はそこではないと気づきます。

 結局は、彼らを迎え入れ愛する人の存在なのです。

 もちろん、ビジョンの中で祈られて建てられた会堂ですから、会堂そのものに人への愛があるので、建物としても大いに用いられています。それでも、人々が続けて集う理由は、建物ではなくそこにある愛と真実な交わりだと感じています。

平日に設けている開放日があるのに、なぜ、幾人かの子たちは日曜日に来るのか(それは何より嬉しいことです)。それは一緒に遊んでくれる、話し相手になってくれる、愛で包んでくれる皆さんがいらっしゃるからです。

人に居場所を与え、人を主に導き、人を養い育てるのは、神様とその同じチームメンバーである私たちの存在なのです。建物だけ成長しても、このチームが育たないなら、主の働きは進んで行かないでしょう。

だからこそ、このチームを育てていく使命が私たちにはあります。


「良いリーダーは、最初からその後継者を育て始める」とのことばを聞いたことがあります(出展わからず、すいません)。自分がバリバリ活躍できる時から、自分ひとりではやらずに他の人にゆだねていくというのです。

自分でした方が早かったとしてもです。ここにおられる皆さんにも、良いリーダーになって欲しいと願います。Leaderとは、偉い人という意味ではなく、導き手です。

ご自分より後に救われていく人にとっての導き手です。神様の平安のもとに導きます。最初から次世代を育てる始めるひとりひとりとなれたらと願います。


今日のみことば。主イエス様は、導き手のいない群衆を見て、非常にかわいそうに思い、働き手が必要なのだと弟子たちに伝えました。それが今日のみことばです。36節。

9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 

イエス様はまさに群衆の姿を見て深くあわれまれ、羊飼いのいない羊の群れのようだと見られたのです。弱り果てて倒れていたという現実を見たのです。弱り果てるということばは、生々しく訳すならば「生皮が剥がれて」とも訳せます。

羊が狼たちの鋭い牙に襲われ、皮が剥がれ血を流し、傷だらけの姿です。私たちの周囲の人々に目を向ける時に、そのような状態になっている人々がたくさんいるように感じます。少なくともイエス様の目には、当時の人々の姿がそのように見えました。

ゆえに、深くあわれまれたのです。この「あわれむ」ということば「スプランクニゾマイ」は、内臓を意味することばです。はらわたがよじれるという表現や、五臓六腑に染みるといった表現がありますが、まさに表面的な感情ではなく、体の深いところが震えるような、傷むような意味です。

イエス様は苦しんでいる者たちに対して身をよじるようにして強く同情され、かわいそうに思われ、共感するようにして民を見つめました。だからこそ、働き手がぜんぜん足りないと感じたのです。必要がこんなにある。助けを求めている人々がたくさんいる。ですから、主イエス様は弟子たちに言われたのです。37-38

9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

 少し先のことを見通す時、果たしてどうなるだろうか?と考えさせられます。真剣に働き手を祈らないと、せっかく来ている方たちをふさわしく導くことができないのです。

 先ほど紹介した「良いリーダーは、最初からその後継者を育て始める」とのことば。実に、これからすると私は良いリーダーとは言えないなと思わされます。自分なりにいつでも人を育てる意識は持っているものの、やはり自分でやり過ぎてしまう。負わせるのが申し訳ないと思ってしまう。あるいは、自分でやってしまう方が早いとの思いもそこにはあります。

けれど、みことばはなんと教えているでしょうか。「働き手が少ない。だから、働き手を送ってくださるよう祈りなさい」と。私たちは常に、主にある新しい働き手を育てながら歩んで行く必要があります。そうでなければ、持続可能な教会の歩みはできません。ですから、主は「働き手を送ってくださるよう祈りなさい」と言われました。

「祈りなさい」との命令は、文字通り祈るだけに留まらず、私たちもそうなるように参与していくことを当然含むものと考える必要があります。

祈りの最後のアーメンということば、元々は「アーマーン」という「真実」を意味することばです。そして、ことばと行いが一致していることを「真実」と言います。私たちの心が祈りのことばと一致し、その祈りが実現するよう「私たちも誠実に参与していきます」という告白でもあります。

ですから、神様に送ってくださいと祈ってそれで終わりではなく、祈りながら私たちもその意識をもって人々を導くために献身していくのです。祈るということは、何もしないで祈っているということではなく、祈りつつそのために歩んでいることです。

確かに、モーセは後継者のヨシュアを若い頃からすぐ傍において、彼とともに働きをしていました。彼はモーセの従者としてすぐ横で仕え、一緒に働きに加わりながら歩んでいたのです。そして、彼が任職する時に、まさに祈りました。「主よ、この民を羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください」と(民数2717節)。

イエス様もまた、弟子たちを常に近くに置かれ、生活の中で教え育てられました。何をするにも彼らが豊かに成長することを願いながら、語り教え導きました。

特に、人に依頼したり、ゆだねたりすることが得意ではない人も多いのではないかと思うのです。あるいは人が育っていない面もあるのだと思います。

ちょうどある姉ともそんな話をしていたところです。人を育てる働きも、一人で事務的なこと、諸連絡・調整をしつつ、実際の指導や実演もしていく。集中できないですよね。

私もある研修会の幹事をしながら、同時に講師をするということがありました。皆さんにお話をするのに、その直前までバタバタ走り回っているのです。会計でお金のやり取りをし、施設とやり取りをし・・・。汗をぬぐいながら講壇に立ちました。

さすがに「こりゃいかん」という感じでした。集中できていないのです。

最近は少し学習をし、できるだけ奉仕を振り分け、他の方にどんどん振り分けるようになってはきました。とても良いことと思っています。

私たちが覚えたいのは、他の人にお願いしたり、ゆだねたりするという事には、自分の重荷を下ろすというだけでなく、人々に機会を提供させていただくという意味があるのです。働き手が日本の宣教に本当に必要です。世界のキリスト教会に必要です。

 祈りましょう。祈りながら、私たちのことば、態度、関りが人を育てるものであるように。主にその思いと意識を与えていただきましょう。



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