本日のみことばにおいて、人間関係における秘訣が教えられています。人との関係で悩み、つまずく弱い私たちです。主はその弱さをご存知なので、みことばによって語ってくださっています。その秘訣を先に申し上げましょう。すべての人間関係における土台となる考え方です。
23節 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
私たちはキリストに仕える者であるので、すべてのことを主にあってするのです。主がそこにおられることを覚えて、主が喜ばれるようにするのです。誰に対しても、何をするにしても、主が今そこにおられることを覚えつつ、愛を込めてさせていただきましょう。
1. 主に喜ばれること
これらは当時の社会においてはかなり画期的で、新しい教えでした。特に夫たちに、妻を愛し、辛く当たってはいけないとまで教えているのは、当時の男性優位社会においては大胆な教えでした。
このコロサイの町はローマ帝国の属領でありました。当時のローマ社会は乱れに乱れ、家庭において男性に無制限の権限を与えていました。こうした乱れた社会で傷つくのは誰でしょうか?弱い立場の人たちです。女性や子どもが傷ついていました。
そんな状況ですから、女性も男性への尊敬を失い、子どもも筋の通らない大人への言い分に苛立ちました。20-21節にこうあります。
20節 子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。21節 父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。
子どもたち親たち、双方に教えられています。親に尊敬を込めて従うことが親への愛です。
親をお持ちの皆さん、親を愛しましょう。
それは、主に喜ばれる尊いことです。それが神を愛することです。
親も子を愛しましょう。それが主に喜ばれることです。
当時のローマ社会は家族も社会も乱れていたと言いましたが、今の日本社会も決して他人事ではないですよね。夫婦の愛は冷め、離婚率は上がる一方です。どうせ別れるのだからと、結婚すらまともにせず「事実婚」。「夫婦のあり方はそれぞれだ」と言い訳します。「価値観の多様化」と言えば聞こえはいいでしょう。
けれど、はっきり言えば、責任を負いたくない。自由にしたいというわがままに思えます。結果・・・子どもたちがボロボロです。
学校での学級崩壊では、先生たちの指導力が問題にされることがあります。しかし、最も問題にされなければいけないのは家庭ですよね。どんなに学校でケアしても、家庭で子どもたちが安心できていないなら、荒れるのは当然です。
逆に家庭に居場所があれば、そこで子どもが安らげるなら、学校が合わなくても、荒れてても、行けなくても、なんとかなります。
特に「夫婦」は社会を構成する最小単位です。そこでさえ、愛と平和が築かれないのなら、どうして社会全体に愛と平和が築かれるでしょうか。
2.家族を愛すること
なぜ、私たちはこんなに小さな人間関係ですら、良い状態を維持できないのでしょうか。聖書はその原因は「人の罪」にあると言います。神様の愛を離れ、自分勝手に歩むゆえに、身近な交わりにおいてさえ、良い関係が維持できずにいます。
ある年頃の女の子の誕生日に、毎年のごとくお母さんは一緒にいませんでした。いつものように遊び歩き、旅行の最中です。それでも、珍しく母親であることを思い出したので、出先から高価なプレゼントを贈りました。しかし、その女の子はプレゼントを投げ捨てていいました。「私が欲しいのは花瓶じゃない。ママなのよ」と。
物ではありません。愛が人を生かします。
妻を愛し、夫を愛し、子を愛し、親を愛することです。
クリスチャンであるとは、聖書の知識をたくさん身につけている人ではありません。
その尊い教えに生きている人です。
イエス様の弟子なのですから、イエス様の愛に生きる人です。
手紙の著者パウロは愛しました。彼は不当にも牢屋に入れられ、そこからこの手紙を書いています。でも、自分を助けて欲しいとは一切言わず、ただ読者の幸せを願いました。
実は読者はパウロが会ったこともない人々でした。それでも、このコロサイの兄姉たちの幸せを願って、夫婦愛、親子愛、主従関係の愛について心を込めて書いたのです。
テモテへの手紙第一3章8節以下では、執事の資格について列記されている箇所があります。教会の執事、当教会では「役員」と呼んでいますが同じものです。実にこれが興味深いのです。キリスト教会での人事はかなり特殊です。
この世とはだいぶ違います。企業で昇進し、責任ある地位に就く人に求められるものは何でしょうか?? 学歴、能力、業績、経験などでしょう。あるいはコネもあるでしょうか。
しかし、教会ではそれらを基準にして選びません。3章8節以下のみことばによれば、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、きよい良心、信仰の奥義を保つ人。自制心や忠実さも問われます。それとともに、家庭のことが常にあります。12節で「子どもと家庭をよく治める人でなければならない」と語られています。
この少し前の監督の職、いわゆる牧師職ではもっとはっきりあります。
5節「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。」と。
「私もふさわしくないな」と思わされます。それでも、皆さんによく理解していただきたいのは、ここに能力の話がほとんどないということです。能力ではなく、いかに主に忠実であるか、愛に生きているかが問われているのです。
なぜ、家庭において主に喜ばれることが大事にされるのでしょうか??
主は、人の上辺ではなく、心を見る方だからです。
外では良い人を演じることができても、家族関係ほど、その人の本心が出る場所はないですよね。
3.主に仕えるようにして
22節 奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。
奴隷ということばはとても強いですが、奴隷制度があるおかげで、働きの場があり、生活できた人々もいました。当時の社会では、家庭の中で一般的にあった主従関係です。私たちがイメージする奴隷制度よりも、もう少し人道的ではないかと思います。
ただ、そうは言っても、はっきりとした上下関係がありました。
そのような中で、主人に対して誠実に仕えるようにと教えられています。
時々、私たちは神様に従っているのであって、この地上における主人、上司には従いませんという極端な発想もあります。確かに、私たちは「主のしもべ」ですから、罪を犯すような命令には従いません。
けれども、主に仕えているからこそ、ご機嫌取りのようなうわべの仕え方ではない真実な仕え方ができるのではないでしょうか。
これは本当に尊い働き方だと思います。
キリストのしもべは、誰よりも真心をもって従う者となるのですから。
人を恐れる人は、ご機嫌取りの姿勢、上辺の働きになるでしょう。
しかし、神の奴隷・主のしもべは、人を恐れるのではなく主を恐れます。
主を恐れるからこそ、人には見えない部分=「心」をまっすぐにして、誠実に仕えるのです。主が見ておられるからです。
そして、私たちが心からできないと思える時にも、23節のみことばを思い出したいのです。
23節 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。