東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マルコ6章30-33節「主と弟子たちの時間」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2022/10/12

マルコ6章30-33節「主と弟子たちの時間」

 *** 10/12(水)祈祷会説教 概略 ***

マルコ6章30-33節「主と弟子たちの時間」

 主の良い働きゆえに、働き続けて疲れ果ててしまうことがあるのは残念です。それは、主のもとに帰り、その働きの報告をもって重荷を降ろし、主と弟子たちだけで時を過ごすことによって、回避できるものです。

1. イエスのもとに帰る(30節)

30節にあるように、働きを終えた使徒たちはイエス様のもとに帰ってきました。使徒たちはイエス様から遣わされては、また主イエス様のもとに帰って来るというサイクルを繰り返していたのです。

実に、このシンプルなルーチーンを私たちも絶えず繰り返す必要があります。私たちは主の働きをさせていただいているのだからです。また、主と共に働きをしているからです。

主の名のもとで遣わされ、主の御名を宣教しており、主のもとに再び帰って来る者たちです。奉仕・働きをしていると心燃やされますし、それ自体に恵みがあって教えられてもいます。しかしながら、それらのことを主の前に静まって振り返る時がとても大切なのです。

日曜日の説教では民数記の人口調査の話をさせていただきました。例えば、そこの部分もざっと聖書を読んで、ある程度理解できるでしょう。けれども、もっと腰を落ち着けてみことばの説き明かしに耳を傾け、人口調査の意図やそれらの数字の意味を静かに味わう時も大切です。最低週に一度(できれば二度、三度でも)、主のもとに集まり、じっくりとみことばに聞き入り、振り返る時はとても大切なものです。

 私たちは主から派遣され、その働きをしつつ味わえる恵みもありますが、誰にも妨げられずに静かに主と過ごす時間も必要不可欠なのです。静まって振り返り、感謝したり、整理したりする時です。

 

2. 残らず報告する(30節)

 ビジネスの世界ではよく「ホウレンソウ」が基本だと教えられます。報告・連絡・相談のことです。チームとして働きをする上で必要不可欠なことです。イエス様はご自分の弟子たちと同じチームとして働きをされています。弟子たちも主イエス様から遣わされていることを意識していました。

 ですから、30節にあるように、弟子たちはイエス様に自分たちのしたこと、教えたことを「残らず報告」したのです。一部分だけというよりも、できるだけ詳しく丁寧にイエス様にご報告したということです。そこには様々な相談も含まれていたでしょう。

 これに応じるイエス様もかなり大変だと思いますが、でもこれが主と弟子たちとの良い交わりの時であり、弟子たちにとっても働きの重荷を降ろす大切な癒しの時間になったはずです。案外私たちは、自分の中だけに留め過ぎてしまうことがあります。色々な出来事、そこにある重い話。自身の痛みや苦しみ。それらを溜めこんでしまい疲れてしまうのです。

 主はわたしのもとに来て重荷を降ろしなさいと招いておられます。この主に報告する時間は、自分たちの働きを振り返る時間でもあり、その出来事を新たに捉えなおす尊い時間でもあるのです。思うようにいなかった事、失敗した事、傷ついた事。反対にうまくいったと思える事、成功したと思う事。それらを主の見るような見方で見つめ返す時間でしょう。また、そこには仲間との恵みの共有、課題の共有もあります。コイノニアです。私も神学生の時代に、毎週牧師に報告書を出していました。状況を把握知っていただくためでもあり、私の整理のためでもありました。何よりも、それを通して自身の振り返りがなされ、主の恵みに目を留める機会ともなり、良い訓練となりました。

 

3. 弟子たちだけで休む時間

 弟子たちのあらゆる報告を聞いたイエス様は、その後にこうおっしゃいました。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」ここで語られている「あなたがただけで」という意味は、もちろん神様抜きでという意味ではありません。主の御前に休まなくては、本当の安らぎはありません。

 みことばは、その事情を「出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。」と説明しています。ひっきりなしに来る群集から離れて休みなさいということでした。

 それは、主から離れてではなく、むしろ主なる神様との親密な交わりの時間、他のことに妨げられずに心から静まって主と過ごす時間なのです。 

 私たちは神様と静まって過ごせる時を持たないと、いつの間にか飢え渇き疲弊していきます。多く働く人ほど、その分、主の前にじっくり静まる時がより大切なのです。ルターは自分の働きの大きさ、重さを覚えて、毎朝2-3時間祈ることなしにはやっていけないと言いました。

 現代を生きる私たちにそれに倣うことは難しいように思えます。でも、意識的に主の前に静まって過ごす事を大切にしたいのです。

特に普段、未信者の皆さんに囲まれて歩んでいると、何の気兼ねもなく信仰の話をすることは難しいですよね。「こんなに素晴らしい主の恵みがありました!」と言っても、わかっていただけないでしょう。ゆえに、イエス様は群衆から弟子たちを引き離しさびしいところへ行かせようとされたのです。32節でも「自分たちだけで」と強調されています。そのような主との静かな交わりの時間が必要なのです。忙しいからこそです。

そして、クリスチャン同士だからこそできる、主にある交わりがそこにはあります。互いの労を労い合い、慰めのことばを語り合う。そして感謝なことを一緒に喜ぶことが力になります。小さなことでも、その恵みを共有することで、恵みが広がるのです。

しばしばユースの子たちやその親御さんから聞こえる声の中に、教会の交わりで支えられている。居場所がここにある。教会につながっていることが感謝だとの声があります。罪に満ちた殺伐とした世界の中で、若い子たちも苦闘しながらなんとか今日を生きています。

一時的にでも離れて主の前に休み、愛の交わりの中で養われることで、また世に遣わされていく力が与えられているのです。

私たちにとっては、この祈祷会がそのような恵みを報告し合い、ともに感謝し合い、あるいは励まし合う大切な場でもあります。日々の生活の中での課題、自分が関わってきた人とのこと。そこにある主の恵みの共有。救いのために心を合わせて祈る時間。

このような振り返り、整理の時間。共有の場を持つことで私たちの心はまた力を与えられ、リフレッシュされて参ります。また、それゆえに一人で重荷を負わずに済むのです。

 

みことばは現実がどのようなものであるかも指摘しています。33節です。群衆が気づいて、先回りしてしまったほどでした。これが私たちの生きる現実であって、静かな場所での短い安らぎの時さえ、しばしば奪われる世界なのです。悪魔は私たちがじっくりと主と過ごして強められることを少しも喜ばないのです。

 彼らが舟で移動したのは幸いです。主のご指示だったかも知れません。さすがに湖の上までは、群衆も簡単には来られませんでした。その間は少なくとも使徒たちだけで、静かに過ごせたことでしょう。賢く、祈り求めて、主と弟子たちだけの静かな時を持つ必要があります。この祈祷会はそのような意義があることでしょう。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *