東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ネヘミヤ記1-2章「共感し、共感された人ネヘミヤ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2022/11/02

ネヘミヤ記1-2章「共感し、共感された人ネヘミヤ」

*** 11/2(水)祈祷会 説教概略 ***

ネヘミヤ記1-2章「共感し、共感された人ネヘミヤ」

聖書人物シリーズ。本日はネヘミヤです。時代としては捕囚期の終わり、エルサレムのユダヤ人たちが帰還し、焼け野原となったエルサレムを復興していく時になります。

この当時、ユダヤ人たちは既にペルシャ王国の支配下にありました。元々はバビロンに囚われていたわけですが、そのバビロンが今度はペルシャに滅ぼされたのです。それで、そのままユダヤ人たちをペルシャ王国が治めるようになりました。ただし、ペルシャはバビロンよりも寛大な政策を取り、ユダヤ人たちは徐々にエルサレムに帰還することを許されたのでした。

ネヘミヤが献酌官としてペルシャ王のそばで仕えていた時のことです。その兄弟の一人であるハナニから、エルサレムの悲惨な現状について話を聴いたところからこの書は始まっています。3節です。

3 彼らは私に答えた。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」 

敵対する諸外国からの圧力が強くある中、エルサレムは城壁も門もボロボロで、ほとんど無防備な状態であったと言えます。聞くも無残なありさまでした。これを聞いたネヘミヤはわが事のように祈りました。4節。

4 このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。 

先ほど触れましたように、彼は当時ペルシャ王の「献酌官」でした。ペルシャ王の近くにて、お酒をつぐ仕事です。それは高い地位として厚遇されていたことを意味します。ですから安定した平和な暮らしがありました。まして、彼はおそらく捕囚時代に生まれた人です。エルサレムに住んでいたことがないのでしょう。そんな彼がエルサレムで苦しむ同胞(仲間)のために自分の事のように涙し、断食をもって祈っているのは不思議なほどです。

このような共感する力は、主からいただいた賜物であったのかも知れません。

 彼の祈りの内容については、5節からそのことばが記されています。

5 「ああ、天の神、主よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。 
6 どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。 

ネヘミヤの祈りは他人事ではありませんでした。

ネヘミヤは「私の先祖たちは、罪を犯しました」とは祈りませんでした。

「私も私の父の家も罪を犯しました」と祈りました。

自分を含めて「私たちがあなたに対して犯したのだと告白しています。他人事でも傍観者でもなく、自らも同じ罪人であり、仲間、同胞皆の罪をお赦しくださいと祈るのです。

7節の冒頭でも、「私たちはあなたに対して非常に悪いことをして」と告白していますよね。

 イスラエルが捕虜になってしまった原因は、何よりも神様への背信でした。神を神としてあがめず、偶像礼拝を続けた結果がバビロン捕囚でした。しかし、その時代、ネヘミヤはまだ生まれていませんでした。彼は捕囚時代に生まれ育った人なのです。

それにも関わらず、まるで自分自身の罪のように告白しているのです。

 本当の意味での「とりなしの祈り」だなと思わされます。

「私は全く関係ないのですが、先祖たちがなんかすいません。」という祈りではなかったのです。私自身も同じ罪の中にいる一人であると謙虚に受け止めています。

 私たちの教会では、礼拝中にお子さんが騒いでいるようなことがある時、「親は何をしているんだ!」と他人事として責めるようなことをしないと学んできました。むしろ、その子やその親御さんの弱さは、私たちの弱さであると理解し、どう助けられるかを考え協力するのです。「子どもが騒がしく申し訳ない、自分も説教が聞けずに疲れてしまう。」そういう理由で教会を去ってしまうことがないようにと「神の家族」として歩むのです。

 ですから、何よりその親子、家族のために、自身の事のようにとりなしの祈りをする必要がありますよね。助ける必要があります。


 さて、ネヘミヤの断食の祈りが始まって4か月ほどがたった時のことが2章になります。

21-3節をご覧ください。 

1 アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月に、王の前にぶどう酒が出されたとき、私はぶどう酒を取り、王に差し上げた。それまで、私は王の前で気持ちが沈んでいたことはなかった。
2 すると、王は私に言った。「病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように沈んだ顔をしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない。」私は非常に恐れて、
3 王に言った。「王よ、永遠に生きられますように。私の先祖の墓がある都が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょうか。」 

 王にお酒を注ぐ人が暗い顔でいることなどあってはならないことでした。お酒がまずくなるからです。ですから1節にあるように、ネヘミヤ自身、それまで王様の前で沈んだ姿を見せたことはありませんでした。いつも元気な姿を見せていたに違いありません。王様が楽しくお酒を飲めるよう尽くしていたことでしょう。ところが、限界でした。ついに王様はネヘミヤの異変に気づいてしまいます。悲しい顔を隠せなくなったのです。

 下手をすればお役御免。「お前のような陰気なヤツは酒を注がんでいい!こっちまで気が滅入る」と言われるかも知れません。

しかし、そうなりませんでした。王様はかえって、なぜそのような悲しい顔をしているのかと尋ねてきたのです。外国人の王であっても、普段から忠実に仕えてきたゆえに、王様から信頼され、心配され、さらに共感してもらうに至ったほどでした。

ここには神様の助けがありました。立場的に自分からは言えません。でも、主はネヘミヤの誠実さを用いて、王の側から問いかける機会を与えられたのです。そして、ついにこぼれ出た弱さを主がお用いになったと言えるでしょう。主にあって自分にゆだねられていることに誠実に歩む時、その弱さに助けが必ず与えられていくのです。

ネヘミヤも「一体どうしたのか?」と王様に聞かれた時「何でもありません、大丈夫です」と答えることも可能だったでしょう。いや、多くの人はそう答えることでしょう。しかし3節にあるように正直に答えました。王に言った。「王よ、永遠に生きられますように。私の先祖の墓がある都が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして沈んだ顔をしないでいられるでしょうか。」 

そして王様が何を望むかと問うので、ネヘミヤはユダに遣わし再建させて欲しいと率直にお願いしたのでした。王と王妃がそろっている時であったことが6節で分かります。そして、二人は「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来るのか。」とネヘミヤへの愛着がわかります。さらにネヘミヤは、王様に援助をも頼みました。8節の最後にあるように「わが神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくださった」と語られています。

 ネヘミヤは主に祈り求め、さらに王様にお願いし、ふさわしく助けを得ました。

私たちも「大丈夫です!足りています!」虚勢を張らずそこに主を招き、人を招きたいのです。祈ってくださいと要請することによって、一緒に働きができるようになるのは、主の恵みの力なのです。

ネヘミヤはエルサレムの惨状、そこにいる人々を覚えて共感し、わが事のように主に懇願しました。同時に、王夫妻から共感され、助けをいただくこともできました。彼は自分のありのままの姿を主にゆだね、主からも人からも助けを受けて、わずか52日間で城壁を建て直すのです。

 強がって一人ですることをしませんでした。王夫妻にさえ正直に助けを懇願しました。エルサレムにおいても、身分を超えて、性別を超えて、みんなで城壁再建をしました。

賛美の歌もみんなの声が加われば厚みが出て豊かになります。隣人のためにとりなしの祈りをささげ、私たち自身も「大丈夫」と言わず、祈っていただきましょう。そこに共感と協力が生まれ、主の恵みをともに喜べる幸いな交わりが生まれるからです。

最後に1243節を読んで終わります。これは城壁が完成し、みなで賛美と感謝をささげた場面です。子どもたちも女性たちも一緒になって喜び感謝し、主をたたえていたので、その声ははるか遠くまで聞こえたとのことです。 







教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *