コロサイ4章2-6節「塩味の効いた親切なことば」
1. みことばがふさわしく語られるように
では、ここでパウロが祈って欲しいとお願いしている内容はどのようなものでしょうか。
3節にこうありますね。「神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。」と。
なんとパウロの願いは、牢屋から出られるようにではありませんでした。この苦しみから解放されたいというものではありませんでした。神のみことばのために門が開かれるように祈ってくださいと言います。
3節の最後にもありますように、彼はこの時牢屋にいましたが、それよりも優先して、神のみことばが伝えられるように祈って欲しいとお願いしているのです。驚かされます。私ならば自分が牢から早く出られるようにとの祈りを優先してしまうかも知れません。パウロは牢に入れられていることも「神のご計画」であると信じていたのです。
さらに続く4節では、みことばの語り方について祈って欲しいとお願いしています。
4:4 また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。
「語るべき語り方」によって、人々に明らかに示すことができるように祈って欲しいとお願いしています。上から目線で高圧的に語ることもできます。反対に頼りなく確信があるのかも分からない話し方もできるでしょう。
謙虚であり、かつ大胆に愛と真理をまっすぐに語る。それは容易ではありませんね。
以前、ある先生から米国の伝道者ビリー・グラハム師のこんなエピソードを聞きました。ビリー・グラハムは大変有名な方で、米国大統領付きの牧師としても活躍され、日本での大会の時は日本武道館や東京ドームで開催され、全国から多くの人が集まったほどでした。この方がまだ若い頃かと思いますが・・・車のボンネットの上でブツブツ独り言を話している光景をある人が見たそうです。何をしているのかと思ったら、一心不乱に説教の練習をしていたと言うのです。このエピソードを紹介くださった先生は、「ビリー・グラハムも一日してならず」と言っておりました。
生まれながらに質の高い説教ができる人などいません。パウロは大宣教者として知られますが、しかし、誰よりも自分の足らなさを自覚し、日々みことばに向き合い、そして祈ってくださいと懇願しなければならなかったのです。語りさえすれば良いとは考えなかったのです。人々の心と魂にしっかり届く、良い語り方で伝えられるように、ぜひ祈って欲しいのだと頭を下げているのです。
ことばって、どんなに繕っても、その人の人柄や品位が出るのですよね。わかる人にはわかってしまう。ふさわしく語るためには、ふさわしく人格をも整えられていく必要があるのです。
だからこそ、祈りが必要不可欠なのですよね。この姿はコロサイの人々にとって「良きお手本」となったはずです。パウロでさえ、ふさわしい語り方ができるよう明らかに示せるようにと祈りのお願いしたのです。
どこまでも主によって強められる必要を知って、祈って欲しいと願う謙虚さに、私たちも教えられますね。私たちの語ることばは、人の心に届いているでしょうか。ことばだけを直すことは不可能でしょう。主によって、内側から変えられることを切に祈り求めましょう。また、私のためにもお祈りくだされば幸いです。
2. 親切なことば
ここで第一に、あなたがたのことばが、いつも親切なものであるようにしなさいと語られています。「親切」ということばは「カリス」という恵みを意味することばですが、ここでは親切さ、優しさ、慈悲深さといった訳が良いと思われます。
それに加え「いつも」と語られていますよね。いつでも親切で優しいことばを語る人になりたいと思いませんか? 箴言16章24節には、こうあります。親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。
改めてすごいことだなと感じます。親切なことばは、心やたましいと肉体・骨さえも健やかにする。親切なことばの語り手は、霊的、精神的、そして肉体的な癒しの担い手なのだということです。あたたかく親切なことばをいただくと、自然と笑顔になる私たちです。ある健康調査のまとめでは、「笑いが健康に良いことは、がん、うつ病、心臓病、糖尿病、骨粗鬆症などで報告されています。」とありました。
昨日も子どもたちが大いに笑っていました。もっと笑って欲しいと思います。そして、それを見る私たちも笑顔になれると思うのです。でも、その根底に、主にあるやさしさがあるから安心して笑えるのだということを覚えたいのです。
私たちの口が語ることばが人を笑顔にもするし、その笑顔を奪いもするのだと思わされます。今の時代、インターネットでのことばの暴力が見るに堪えないほどです。そのことばを語ることが、どれほど相手の心をえぐるのか、傷つけるのか、想像し思いやることが圧倒的に欠けているように感じます。
例え、厳しいことばを伝えなければならない時でさえ、私たちは愛のうちに語る必要があります。そこに親切心や慈悲深さを失ってはならないですよね。
3.塩味の効いたことば
高校時代、人を貶める話が仲間内であった時、それに乗ってこない友人がいました。彼はクリスチャンでした。「何いい人ぶっているんだ」と攻撃されました。彼はさぞ居心地が悪かっただろうと思います。決して熱心ではなかったようですが、それでも流されなかったその存在が心に残ったものでした。私たちが一緒に同化し過ぎることは、人々が滅んでいくことをみすみす見過ごすことにならないでしょうか?
必ずしも多くのことばを語る必要はありません。一言であっても、腐敗を止め、光に導く塩味の効いたことばを語る者でありたいと思いませんか。
しかしながら先に触れましたが、ことばは私たちの内側のものが出ます。人柄が出てしまいます。上辺だけ繕うことは決してできません。
ですから、主からもっともっといのちのみことばをいただきましょう。いのちのみことばに聞き、いつでも私たちの口から出せるように、しっかりと心に蓄えたいのです。
深いところに蓄えられるほどに、それがにじみ出て深みをもって語れるようになるからです。あなたの深いところにあるものが、人の深いところに届くものです。ペラペラと上辺で語るのではなく(私もそうなのですが・・・)、主からのやさしいことばを深いところで味わい、その救いの恵みを魂で味わい、それをことばにして語れるといいですよね。