東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記27章12-23節「モーセからヨシュアへ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/11/07

民数記27章12-23節「モーセからヨシュアへ」

*** 11/6(日)主日礼拝 動画配信 ***

民数記27章12-23節「モーセからヨシュアへ」

今、世界では強権的な指導者が増えてきました。民主主義への失望と苛立ちが背景にあるのかも知れません。多くの人が忙しさで無関心となり、楽な道を求めると独裁を生みやすくなるのですよね。そして、強い独裁的指導者が強い組織を生み出すと思われがちです。しかし真に強い組織とは、その指導者がいなくなっても、大きく変わることなく続いていく群れでしょう。

今日のみことばにおいてもリーダーの交代が示されています。ただ、変わらずに歩んでいけるのは真のリーダーが神様であり続けることです。つまり、人間の指導者が代わっても、真の指導者が神様であるとの姿勢を皆で関心をもって保つなら、そこに祝福が追って来るのです。私たちは主の道をともに歩み、一部の強いリーダーによらず、助け合いながら歩むのですから。

 

 12節で主なる神様はモーセに命じられました。
12節 主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエルの子らに与えた地を見よ。 

 アバリム山から約束の地カナンを見渡すように命じられたのです。モーセは山上から遠めに見渡しました。どんな心情だったのでしょうか。彼は残念ながら、目の前に広がる地に入ることはできないのです。モーセはこの時120歳です。神様はこの地をモーセに見せるとともに、「あなたはこの地に入ることはできない」と死を宣告していたのです。

 少し「残酷」であると思うでしょうか?
 約束の地を前にして、過去の罪のことがあるからと、そこに入ることができないと言うのですから。しかし、私は神様の「優しさ」でもあると感じています。

 それは、モーセに対する「労い」であったのではないかと思うのです。「よくここまで民を導いてくれた、ご苦労様」との主の労いの目的で、この地を見せたのだと思うのです。「見てごらん!ここがあなたがたの子孫の国として私が与える地だよ。」と。モーセはこの雄大な地を見渡した時に、これまでの痛み、苦しみを思い出し「報われた」という思いを持ったのではないかと私は想像します。それはイエス様が十字架の上で「成就した」と言って、満足のうちに死を受け入れて行かれたのに似ているように思うのです。

モーセは、この時に次の世代の祝福を心から願い、自分が最後にすべきことに目を向けることが出来ました。次のリーダーに引き継ぐことです。16-17節です。

16節「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、
17節 彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」 

私がこの世を去った後にも、ぜひ一人の人を導き手として立ててくださいと主に申し出ました。ヨシュアがその人物であるとの確信があったことでしょう。

そして、モーセはこうも言いました。「主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください」と。彼の切なる祈りです。羊は視力が悪く、か弱い動物です。迷子になりやすく、様々な外敵に対しても弱い動物です。羊飼いなしには傷だらけになり、弱り果ててしまう動物なのです。そうならないようにとモーセは心から願っていたのです。

新約聖書でも、イエス様が羊飼いを持たない羊の群れは本当にあわれで可哀そうだと胸を痛めました。教会はまさに、キリストこそが救い主、私たちの主であるという信仰を失ったら、滅んで行きます。最終的には、イエス様こそ、真の羊飼い、最も良い羊飼いであることを示しているのです。

その証拠に、ここでモーセはこのイスラエルの民を「主の会衆」と呼んでいますよね。この民はあくまで主のもの、主の会衆なのです。リーダーが自分の所有物のようにしてはならないということです。どんなに罪深い歩みをしてきたとしても、彼らは「主の会衆」なのだとモーセは意識していたのでしょう。だから、何度反逆されようとも、大切にすることができたのです。

私たちが人を指導する時にも「自分のものだ」という発想にならないよう注意したいですね。支配的になると危険です。そうではなくて、まずその人は、「主のものである」ということを覚え尊ぶ必要があるのです。どんな人も、あなたのものではありません。人が思い描く計画はその通りにならないことがほとんどです。そして、どんなにすぐれた指導者も必ず死を迎えます。

「道半ば」ということがほとんどでしょう。それゆえ、私たちはどこに立てば良いのでしょうか?自分の道の上ではなく、主の道の上に立つのです。 握りしめなくて良いのです。自分の代ですべてを成し遂げる必要はないのです。そう思うと気が楽になりませんか?ダビデも神殿建設の準備はしましたが、その完成には立ち会えませんでしたね。けれど、信仰をもってその神殿の完成を期待し、自分ができることをしました。 

箴言16:3 あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。 

私たちのすることを主にゆだねるよう教えられています。私たちは永遠へのあこがれを抱きますが、最後まで見届けることはできないのです。しかし、主に「ゆだねる」ことで、それは神様と私たちの共同の働きとなります。

主が介入されることで、私たちが道半ばに思えても、主が成し遂げて下さるのです。結果として、あなたの計画は堅く立つようになるのです。「主と私の計画」になるからです。そうなれば、それは永遠です。道半ばで終わりませんね。自分だけの計画は自分が動けなくなればそこで終わります。しかし、神との共同計画なら、私たちに何が起きようと主が責任を取ってくださいますよね。ですから、これは私のものだと握りしめず、神様の御手にゆだね、主と私の共同の働きにさせていただきましょう!

 

 モーセのこの祈りは主のみこころにかなっていました。18節にこうあります。

18節 主はモーセに言われた。「あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。 

 神さまはヨシュアを後継者にするようおっしゃいました。彼はモーセのそばでずっと仕え学んでた人です。そして「あなたの手を彼の上に置け」と主は言われました。モーセの権限、権威を彼に分け与えるという意味があります。19-20節にこうありますね。

19節 彼を祭司エルアザルの前に、また全会衆の前に立たせ、彼らの目の前で彼を任命せよ。
20節 あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ。 

 リーダーシップが代わることは大変なことです。大きな変化です。けれど、いつかは必ず起こります。その時、しっかりと権限、権威を委譲することが必要です。そして、渡しゆだねるだけでは不十分です。それを皆に理解してもらうことも必要なのですよね。

 ですから、この19-20節にあるように、人々の前、全会衆の前でこれをせよと命じられているのです。

 こうした「儀式」というものは一見面倒で要らないのではと思うかも知れません。しかし、儀式は何のためにあるのでしょうか。人々によく見える節目とすることで、人々の記憶と記録に残るのためです。後から文句が出ないように。実に、リーダーシップの交代は、本人同士がバトンタッチをすれば済むものではありません。それを人々が受け入れることによって完成すると言えるでしょう

 そして、20節で権威を彼に分け与えることに加え、なんと語られていますか?「イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ」とあります。モーセの最後の責任として、「民がヨシュアに聞き従うようにせよ」と命じられていることに驚きます。

 実際にここまでできて始めて、良いリーダーであると言えます。聞き従い行動するのは誰なのでしょうか?神の民全員です。つまり、全員の協力の中で神の民は前進するのです。しかも、強制でも洗脳でもなく自分で考え、ふさわしく従っていくのです。

 野球好きな方は「全員野球」という表現をご存知かと思います。高校野球などでよく使われることばです。レギュラーだけでなく、サブもコーチもみんなで協力して、一致団結して戦う姿勢です。自分が目立とうというのではなく、バントなどの犠打やつなぐプレーをチームのために喜んでするのです。教会こそ全員でする「全員教会」であるべきです。
 
 主はそれぞれが必要であると召して、このところに私たちがいるのですから。

 感謝なことに、私たちの群れは信徒の皆さんが非常に積極的に奉仕し、活躍してくださっていると感じます。私がここ数年、教会を超えての様々な責任を担っていることもあって、皆さんが配慮してくださっていることで本当に支えられています。

 リーダーシップは、このようにチーム全体で、みんなで建て上げられ支えられていくものなのですよね。

 そして、誰でも自分が退いて行く時は、喪失感やさみしさを感じるものと思います。しかしながら、実は次の人に引き継いで行けるということは、とてもすばらしい「恵み」であることを覚えたいのです。どんなに素晴らしい技術もスピリットも、継いでいく人がいなければ終わってしまうからです。

 キリスト教会はそのようにして数千年という単位で信仰を引き継いできました。素晴らしいことです。それはキリストを主として、人間の指導者が私物化しないゆえに出来ることなのです。絶えず主の道に立ちたいのです。私たちは何をするにしても、神と私たちの共同の働きにすることを覚えたいのです。主の道に立つなら永遠。そして、主の道は一人の強い人だけで歩む道ではありません。みんなで支え合う道なのです。 






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