*** 11/9(水)祈祷会 説教概略 ***
エステル記「モルデカイとエステル」
捕囚期、ペルシャ王国がかなり強い勢力を保っていた時代。
1節によればインドからクシュ(つまりエチオピア)までの地域を治めてのですから、相当広い領土になります。中東の覇者として、大勢力を誇っていた時代です。
なお、時代としては先週のネヘミヤ記の少し前の時代になります。ペルシャはバビロンに比べると捕囚の民に対して寛大でしたが、それでもユダヤ人たちが苦しめられている時代がありました。
エステル記はユダヤ人たちが危機的な状況に置かれた時に、エステルと育ての親モルデカイの決死の覚悟と献身によって守られ、やがてエルサレム復興に向かって行くというものです。それはイエス様がご自身をささげ、その民を救われた姿を想起させます。
ペルシャのクセルクセス王は、現王妃ワシュティの態度が気に入らず、新しく王妃を探すことになりました。そこで王妃候補になった一人がユダヤ人の娘エステルでした。
2章15節では、彼女が召し出された先で、宮に仕える多くの人々から好意を持たれていたことが分かります。わがままでなく、無欲で謙虚な姿勢に感心したのです。そうした人となりが、王からの寵愛にもつながりました(2:17)。
また、モルデカイはエステルを案じて城門付近にいた時、王を暗殺しようとする企みに気づき、エステルを通して王に進言するなど、王のいのちを守ることにも貢献しました(2:21-23)。
モルデカイはまことの主を恐れ尊ぶゆえに、ハマンという権力者を偶像のように伏し拝むことをしなかったのです。また、ハマンは自分の出世ばかりを考える悪い人物でしたので、彼に従わないという決意でもあったかも知れません。
モルデカイの信仰と勇気に教えられます。
この罪の世において正しいことを貫くことは簡単ではありません。時に命がけです。
ユダヤ人たちにとっての救いはこのモルデカイのようなまっすぐな信仰者がいたことです。事実、最終的に彼とエステルによって、ユダヤ人たちは救われ守られるのですから。
さて、ハマンはモルデカイに怒りを燃やし、手にかけようと考えます。それどころか、モルデカイがユダヤ人であることを知って、ユダヤ人ごと根絶やしにしようとさえ考えたのです。それでハマンは、ペルシャ王をそそのかしました。「ユダヤ人は王の命令に従わない!このままだと王のためになりません!」と。
それで王の名前で「ユダヤ人虐殺令」が出ることになったのです。
3章13節 書簡は急使によって王のすべての州へ送られた。それには、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに、若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪えとあった。
3章13節 書簡は急使によって王のすべての州へ送られた。それには、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに、若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪えとあった。
ユダヤ人にとって恐ろしいほどの危機ですよね。4章1節によれば、モルデカイはこれを知り、非常に嘆き悲しみ、激しくわめき叫んだとあります。そして、エステルも多くのユダヤ人たちもそれを知り、深く心を痛め、悲しみに暮れたのです。しかし、モルデカイはエステルに指針を与えつつ、主のみこころに立てるように励ましていくのでした。
3章13節 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
14節 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
マタイ10章38-39節をお開きください。
他人事にして、当事者であることから逃げたところでそこに救いはありません。かえって、自分を苦しめ追い込んでしまうことでしょう。恐れず主のもとに飛び込み、主のみこころに生きる者でありたいのです。
そしてこう言います。「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためかもしれない」と。これがこのエステル記のキーワードでしょう。
すべてのことには主のご計画があります。私たちが自分でここにいたいと望んだのではないとしても、そこに置かれていることには主のご計画があります。そして、このために私がここに遣わされたのではないか?このために、私はここに置かれているのではないか?この信仰に教えられるのです。
私たちは有限の存在で、未来のことも全く分かりません。なぜ、ここにいるのか、なぜ自分にこのような試練が、あるいは役目が来るのか?それも分からないことが多いでしょう。しかし、主は一切をご存知なのです。一切をご存知の神様が私たちをふさわしい場に置き、ふさわしい役目を与えておられるのです。
もしかしたら、私はこれに向いていない。この件について賜物はないと思っているかも知れません。しかし、私たちの賜物を誰よりもご存じの主が私たちを召して今の立場、今の奉仕、今の生活の場に置かれているのです。自分で否定的に決めつけず、主のご計画に目を向け「もしかして、この時のためでは?」と祈り求めていきましょう。
エステルも望んで王妃になったのではないでしょう。しかし、主のご計画のうちにその容姿や態度すべてが用いられ、ユダヤ民族全体の救いに用いられたのです。
エステルはモルデカイのことばを読んで返事を送りました。
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
エステルは武力による戦いではなく、信仰による戦いに臨みました。決死の戦いでした。その時に必要な武器は「祈り」です。エステルが剣を握ったとしても何も変わらないでしょう。いや、事態はかえって悪化したでしょう。そうではなくエステルは主に拠り頼み祈りをもって戦おうとしたのです。しかも一人ではありません。
断食の祈りをユダヤ人たちみんなにお願いしました。三日三晩、断食をもって祈り続けて欲しいと頼みます。そして、エステル本人も侍女たちもそうしました。
この祈りの武装をもって、エステルは王の法令さえ恐れずに、それに背くことを知った上で、王のもとにお願いに上がるのです。これは非常に危険で勇気のいることでした。「私は、死ななければならないのでしたら死にます」という断固たる決意があります。
それでも、この祈りの援軍を受け、主に信頼して踏み出したゆえに、ペルシャ王クセルクセスはエステルのことばを信じて受け入れ、ユダヤ人を救うのです。
それどころか、反対にハマンの企みが明らかにされ彼は死刑にされます。ハマンは、モルデカイを木に吊るして殺そうと柱を用意していました。しかし、結果として自分がその柱にかけられて死ぬことになるのです。
それどころか、反対にハマンの企みが明らかにされ彼は死刑にされます。ハマンは、モルデカイを木に吊るして殺そうと柱を用意していました。しかし、結果として自分がその柱にかけられて死ぬことになるのです。
汚い方法でやろうとしたことが、結果として自分に返ってきたのです。神に敵対し、汚い罪深い方法で人を貶めようとする時、それは自分の頭上に返って来るものであることも教えられます。人をさばくはかりで自分もはかられると山上の説教にある通りです。
「わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」(マタイ10:39)
先ほど味わいましたように、主イエス様が言われたこのことばは、真実です。エステルとモルデカイはまさにこのみことばの通りに歩み、いのちを得たのです。それどころか多くの仲間、家族を救いました。自分を守ろうとしてかえって失う空しい歩みではなく、いのちの主のふところに飛び込み、主のいのちの中を歩みましょう。