コロサイ4章7-18節「つながる恵み」
皆さんは、生活の中で鳥のさえずりを聞けていますか。道端の花に感動していますか。私はそれらがなくなってしまった時は黄色信号だと思っています。神様が造られた被造物が、自身の存在をもって神様を賛美しているのです。その賛美が聞こえなくなると、自分の心にゆとりがなく、いっぱいいっぱいで「危ない」と思うようにしています。
皆さんは、ご自身の状態を「セルフチェック」する何かをお持ちでしょうか。時々自分の姿を客観的に振り返る時、案外大切かも知れませんね。
特に「心の引きこもり」は私たちを弱らせてしまいます。心を分かち合えるつながりを失うと、バランスを欠いてしまいがちです。実は私自身も、妻に色々話すことによって、心のバランスを取っている部分がかなりあります。妻からしたらいい迷惑かも知れませんが(笑)。だいぶ助けられています。
そう思っていたら二女も不安な時ほど、人にたくさん話すそうで・・・。そうやってバランスを取っていると自覚していました。
特に、このコロナ下では、孤立する機会が圧倒的に増えましたね。感染から守られるようにと外出自粛、食事の交わりもせず。それによって霊的に枯渇し、精神的に落ち込む人も増えているように感じています。けれども、人とのつながりをしっかり保ち、話し相手がいる人は元気だなと感じますね。
このような時代にあって「つながる恵み」について神のみことばから教えられることは本当に感謝なことです。それがなければ、もういいやと閉じこもってしまう誘惑も感じるのです。人が互いにつながって生きること。支え合って生きること。それは神様のみこころです。キリストの十字架は、神と人とを結び合わせるとともに、人と人をも結び合わせる和解の十字架です。ご一緒に教えられましょう。
この手紙の著者パウロは、最後の挨拶のところでは、人と人とを結び合わせようとしています。
例えば、パウロはこれらの個所で同労者たちの名前を実際に挙げながら、それぞれへの良い評価、信頼のことばを語っていることが分かります。また、誰々が「よろしくと言っています」とコロサイの人々に繰り返し伝えていますよね。
このように訳されていることばは「アスパゾマイ」という動詞でありまして、色々な意味を含むことばです。例えば使徒25章13節では「敬意を表する」と訳されていますし、ヘブル11章13節では、天の故郷を「喜び迎える」という意味でも使われてもいます。
しかも、原語ではこの動詞が登場する箇所で、いずれも文の最初に置かれ、大文字で始まっています。原語で読むととてもインパクトがあります。
パウロはそこに強調点を置き、表面的・儀礼的「よろしく」ではなく、「本当にあなたがたの存在を喜び、敬意を抱いているので、よろしくお伝えください」とみんな言ってるんですよ!と熱意をもって伝えているように思うのです。
私たちの交わりにも、パウロのような人が必要です。いや、誰かにパウロのようになってくれと願うのではなく、私たち自身がパウロの姿勢から学んでいきたいのです。「自分とこの人がつながった。それでいいや!」ではなく・・・。この人とあの人を結び合わせるために自分は何ができるだろうか?と祈って欲しいのです。
本当に今は交わりと励ましが必要な時代です。世界的な不景気の中で、何もかもが値上がりし、日本の税の徴収額は過去最高とも言われます。多くのお店・会社が倒産しています。交わりも希薄になり、生活が苦しくなっています。こういう時こそ、助け合うべきです。大変であることを率直に分かち合い、祈り合いたいのです。
良い情報、助けになる情報を分かち合うのです。多くある物、余分にある物があれば、少ないところに分かち合うと無駄にもならないですよね。教会では、色々な物を分かち合う良い文化があります。普段からそれをしていれば、災害などの有事にも対応できる素地ができると思うのです。お野菜を分け合ったり、お米を分けていただいたり、余った物を持ち帰っていただいたり。先日もキャンプで残ったおにぎりを持ち帰ってもらったりしました(我が家もいただきました)。助かりました!
これってすごく豊かになりませんか?普段自分では食べないような物をいただいて、新しい発見も生まれます!!そういうことの積み重ねで、お互いが支えられ、そこに愛を感じ強められます。「一人じゃないんだ」という思いが生まれ、心が強くされます。私たちは神の家族ですから、隣人の弱さは自分の弱さであると覚え、互いをつなぎ合わせることで弱さを補いたいのです。
残念ながらこの世の中では、弱いところから切り捨てられます。強者に有利な政治がなされ、弱者は搾取されるような仕組みが山ほどあるものです。
けれども、神様は、お互いがつながるときに、その弱さが強みになることを教えてくださっています。パウロが書いた他の手紙・第一コリント12:22ではこうあります。
「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」と。
また、その少し後にはこう続きます。第一コリント12:26「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
つながり支え合うことで、弱さが強みにさえなります。
昨日、他の教会に集っている兄姉が教会に献品を持ってきてくださいました。ご主人が間違って同じ物を余計にワンセット注文してしまったようなのです。「こういうミスをよくしちゃって、奥さんから怒られるんですよ」と言いながら。それで、私は「その間違いは、こうやって神様に用いられるためにあったんですね」とお伝えすると、ご主人はとても喜んで「そうなんですよ!」と笑顔になりました。
このおかげでご夫妻と久しぶりにお交わりできたことも感謝でした。その後も、別の方が余った物を持って来られ、他で必要としている方にお渡ししている光景がありました。助け合いがあるのはすばらしいなと感じたものでした。
9節をご覧ください。この交わりが身分や立場の大きな違いさえも超越して、本当に豊かに広がっていることを教えられます。
9節 また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。
ティキコに加えて、オネシモという人を一緒にそちらに送ると言うのです。実は、このオネシモについては、かなり大きな問題があったのです。彼は、元々はコロサイの中心人物であったピレモンという人の「奴隷」として生活していたのです。そして、そこで大きな損害を与えて逃亡してきたのです。詳細は「ピレモンへの手紙」にありますが、オネシモは逃げただけでなく、主人ピレモンに何か損害を与えてしまったようなのです。
しかし、パウロと出会い、オネシモはイエス様を信じ、過ちを悔い改めたのです。そして彼はまるで生まれ変わったように成長し今はパウロからも信頼されるほどになったのです。ですから、9節を見てください。パウロは彼のことを「忠実な、愛する兄弟」とまで表現しました。この愛が大切です。
問題児で見下され、「役に立たない」とレッテルを貼られたオネシモでした。でも、パウロはそんな彼を見出し、救いに導き、彼は神様と人の「役に立てる者」へと変えられて行ったのです。
パウロは彼をコロサイに送るに当たっては、彼の主人であるピレモンに手紙を書き、彼が与えた一切の損害については「私が負担するので、請求してください」とまで言いました。そして、彼を奴隷としてではなく、愛する兄弟として迎えて欲しいのだと丁寧にお願いしたのでした。人の持っている豊かさを引き出し、それを他の人と結び合わせて神の国のために働ける者とする。なんと尊い働きをパウロはしているのでしょうか。しかも、自分で喜んで犠牲を払いながらです。
「主人」と「奴隷」という交わることのない立場の違いをも、キリストの愛によって超えることを示してくれたのです。
このキリストの愛が私たちを橋渡しします。様々な立場を超えてつながることのできる「キリストの十字架」が私たちにはあるのです。最強です!
キリストの十字架は、普通であれば一緒に歩めない者たちをも一つに結び合わせます。
赦しの十字架です。和解の十字架です。愛の十字架です。
人がともに歩む以上、衝突は避けては通れません。しかし、主のもとにはそれを超えることのできる「赦し」があります。衝突することや誤解が生まれることが問題ではありません。人と人とが歩めば避けては通れない事です。大切なことは、そこから回復し和解していくことです。話し合うことを通してお互いが全く違うのだということを理解し合い、その間に十字架を置くのです。