東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記30章1-8節「真実な歩み」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/11/22

民数記30章1-8節「真実な歩み」

*** 11/20(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記301-8節「真実な歩み」

 昨日、チャペルコンサートを終えて、家に帰ってからのことです。コンサートが守られて感謝だったと家族で話していました。すると突然、会話の最中にも関わらず、二女が急に目を閉じて、しばらく沈黙しました。唐突だったので「え?何?」と思いました。すると、いや、ちょっと今、神様に祈ったのだと言い出しました。

 実は、ちょうどコンサートの最中に、二女は大学入試のオンライン面接があったのです。彼女は面接前に神様に必死に祈ったとのこと。ただ、終わった後に感謝のお祈りを全くしていなかったと言うのです・・・。 昨日のコンサートのメッセージが「感謝」というテーマだったの話題で思い出し、急に神様に感謝のお祈りをしたということだったようです。

「ある、ある」と思わず笑ってしまいましたが、「私自身はどうかな?」と考えさせられました。お願いする時は必死ですが、祈りに応えられた時に神様に感謝を表しているだろうかと。案外忘れてしまう私たちかも知れませんね。

 祈りに応えられた時に、守られたことや与えられたことを心から感謝する者でありたいと思います。それが神様の前に「真実な(誠実な)歩み」だと言えますよね。本日のみことばは、神様に対する「誓願」と「物断ち」について語られています。

 お祈りに応えられた時には「こうします!」または「これを断ちます!」といったものです。例えば「神様が私を助けてくださるならば、教会に通い続けます!」とか、「神様が私にこれをくださるのなら、1週間甘いものを断ちます」といったものです。

 ただし、これらは神様が「しなければならない」と命じたものではありません。むしろ権利であって、人間の側がしたいという場合に、そんなにしたいのなら「正しい方法でしましょうね」という規定でした。

 ですから、今日も皆さんに誓願や物断ちをしましょうというお話ではないのです。ただ、そこで教えられていた大切なことをご一緒に学びたいのです。それは、神様の前に真実な歩み(誠実な歩み)をすることです。

 

1節 モーセはイスラエルの諸部族のかしらたちに告げた。「これは主が命じられたことである。

1節で「主が命じられた」といきなり出てきますので、私の説明と違うのでは?と早とちりする方もあるかも知れません。しかし、2節を読むと分かりますね。

2節 男が主に誓願をするか、あるいは、物断ちをしようと誓う場合には、自分のことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。 

 「誓願をするか、物断ちをしようと誓う場合には」とありますよね。あなたがたが、したいのなら!するというのなら・・・ですので、誓願や物断ちを命じているわけではないのです。じゃあ、いったい何を神様がはっきり命じているのでしょう?

 それは、誓ったのなら、誓いのことばを破ってはならない。その通りに実行しなさいという点です。伝道者の書54-5節にもこうあります。4節 神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。5節 誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。  

誓願は軽々しく破ってはらない。これを果たさないということは、非常に罪深い不真実なことでした。案外私たちは、誓う時は勢いで誓うものの・・・それを果たすということが出来ない弱さがあるのではないでしょうか。ですから、自分の弱さを率直に受け止めて、安易に誓ったりしないという方が、神様の前に誠実かも知れません

主イエス様も山上の説教の中で、決して安易に誓ってはならないと教えられました(特に自分の都合のためにするのは問題)。それよりも真実に生きることの方が大切だと教えられました。

ここでは、3節以降、ほぼ全部、女性の誓願ついて語られています。なぜこのタイミングで女性の誓願の話なのでしょうか?おそらく、これから約束の地カナンに入って行くと、男性たちがその地を得るための戦いに出て行くことになるからでしょう。

父や夫の、あるいは息子の帰りを待つ女性たちが、様々な願掛けをするケースが増えると考えられました。「無事に戦地から帰還しますように」と願い、無事に帰ったのなら「私はこれをします」、あるいは「私はこれを断ちます」という事です。その結果、女性たちがむやみに誓願、物断ちをし、かえって神様の前に不真実な歩みになる恐れがありました。ここではそれを予防する意図もあったと思われます。

例えば、結婚していない若い女性については、父親の理解を得ることが必要でしたし、結婚していれば夫の許可が必要でした。3-5節にこのようにあります。

3節 女が若くてまだ父の家にいるときに、主に誓願をするか、あるいは物断ちをする場合には、
4節 その父が彼女の誓願、あるいは物断ちを聞いて、彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。
5節 しかし、もし父がそれを聞いた日に彼女に反対するなら、彼女の誓願、あるいは物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に反対するのであるから、主は彼女を赦される。 

ここにあるように少なくとも父親がその誓願に反対しないことが有効となる条件でした。これは本当に守られることでした。これはまずいな、果たせないのでは?と思う時には父親が止めることができたということです。

私も若かった時は後先考えに勢いで行動し「大丈夫ではなかった」ことが山ほどあったなと思うのです。そこで「本当に大丈夫か」と問いかけてくれる存在は大きいのです。若い人は特に、目上の方からのそうした声に謙虚に耳を傾けて欲しいと思います特に社会人として歩む場合、この謙虚さはとても大切です

 5節では「それを聞いた日に彼女に反対するなら」とあり、その日のうちなら無効にできました。ただ、自分のことで頭がいっぱいで、せっかく娘が話しても忙しくて上の空・・・それで後日反対しても無効だということです。

 つまり、きちんと親として向き合う機会でもあったと言えますよね。結婚した場合、父母を離れて夫婦は一体となると聖書は教えていますから、今度は父のもとではなく、夫との関係において、この誓願について夫婦で確認していくものでした。8節にこうあります。

8節 もし夫がそれを聞いた日に彼女に反対すれば、夫は、彼女がかけている誓願や、物断ちをしようと軽率に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。 

これから戦場に行く夫に、奥さんが「あなたの帰りを願う誓願をするわ!」と言った場合。ご主人が「いいや、そんな誓願などしなくていい。ただ神様の守りを信じて待て」などと言って反対すれば、女性がその重荷や責めを負わなくて済むわけです。

「聞いたその日のうちに」反対するならば、止めることができました。これもまた、夫婦が互いに関心を持ち、同時に神様に信頼していれば、ふさわしくない誓願、物断ちを破棄できたということです。

一方で、14-15節では、夫がその誓願の話を聞きながら、奥さんに何も言わずに何日も過ぎてしまって、後から「そんなのはダメだ!」なんて反対するなら夫の責任になると言うのです。結構男性はありがちです。「うんうん」と聞いていながら、他のことに夢中で上の空。後になってから「ええ!そんなの聞いてないぞ!」と。「言ったわよ!何を言ってるの!」と奥さんが怒るのも当然です。

 

 さて、最初に申し上げましたように、私たちは、これらの誓願や物断ちというものをすべきだと命じられていません。命じられた事は何でしたか?

誓うなら果たすこと。果たせないなら安易に誓わないことです。

それはことばと行いが一致する歩みを大切にすることです。

それは真実な歩みをすることです。
この点にについて次の二つのことを教えられましょう。


1. 神様に対して真実に歩もう

イエス・キリストの歩みこそ、父なる神に対して真実でした。聖書のみことばとわざとの間に一致がありました。私たちは主の真実を知る意味でも、また主に対して真実に生きるためにも、「祈りっぱなしで終わらない」ということを心に留めていきたいと思うのです。

それは、神様に祈ったことについて、どのように神様が応えてくださったのかをしっかり思いめぐらし、恵みを覚えて感謝して生きることです。誓願などせずとも、神様の祈りに対する答えに対して、自由に積極的に感謝を現したらいいのではないでしょうか。

ある人は祈りのノートを上手に活用されています。左ページに祈り課題、右ページに神様の答えを書き込んで感謝しています。あるいは、祈りがどのように応えられたのかを兄弟姉妹に分かち合うことで、一緒に恵みを覚えて感謝していくという方法もいいですよね。

昨日のコンサート一つ取っても、その背後には多くの祈りがありました。

その祈りに主はどのように答えてくださったのでしょうか。

祈って終わりではなく、どのように神様が応えてくださったのか。振り返り、応えられた祈りについて感謝していくと、神様が真実な方であると知る機会になります。神様への信頼も増し加わりますよね。もっと言うならば、願う通りの答えでなかった時にも分かち合い、みこころを求めて祈りたいですね。


2.人に対しても真実に歩もう 

 イエス様はことばと行いが一つでした。ですから、わたしを信じられないのなら、「わたしのわざを見て信じるように」とおっしゃったのです。ヨハネの1037-38節 
37節 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。
38 しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

イエス様はこれだから信頼できるのですよね。主は、おことばどおりに、十字架にいのちを注がれました。おことばどおり、3日目に死からよみがえられ、天に昇られました。すべてをおことば通りに実現なさいました。

 残念ながら私たちは、ことばは立派でも中身が伴わないことが少なからずあります。
 私も本当にそのような者であることを謙虚に受け止めなければと問われています。

 ただ、その謙虚さを抱きつつも、主にあって真実な歩みをしていきたいですよね。信頼されないよりも、信頼される歩みをしたいですよね。「誓ったなら実行しなさい」とありましたが、誓わないとしても、言うだけで終わらず、誠実に実行する者でありたいと思います。

 結果としてできないこともあります。でも、少なくとも誠実に向き合うことが主に喜ばれる歩みです。信頼にもつながりますよね。そして、できない時はプライドに固執せず「すいません。ちょっと難しいです。助けていただけませんか?」正直に言ったらどうでしょうか。その方が真実ですよね。

 一方で、「絶対に無理です」などとも安易に言わない方がいいですよね。神様に祈りながら、本当に無理なのか、誠実に応じたいものです。

 真実な主イエス様の後についていきましょう。







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