東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ゼカリヤ書9章9-10節「王なるイエス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2022/11/28

ゼカリヤ書9章9-10節「王なるイエス」

*** 11/27(日)主日礼拝 説教概略 ***

ゼカリヤ書99-10節「王なるイエス」

 皆さんは最近「大喜び」したことがあるでしょうか。歓喜し喜び叫ぶようなことが何かああったでしょうか? 私個人としては、水曜日の夜に大喜びし、家族とハイタッチいたしました。皆さん想像がついてしまうかも知れませんが、サッカーW杯で日本が歴史的な勝利をしました。優勝4回を誇るドイツに、初めて真剣勝負で勝利したのです。
 
 
 実はその前日、サウジアラビアもまた、強豪アルゼンチンに勝利するという快挙を成し遂げ、なんとその翌日は祝日になったと聞き驚きました。さすがに日本は祝日にはなりませんでしたね。しかし、私たちにはそれよりもはるかに大喜びできる知らせがあります。それこそ祝日にしてお祝いしたい日があります。クリスマスです。神である方がすべての人を救うために、人となって来られたお祝いです。

今日開いているみことばには、あなたの王が来られるから「大いに喜べ、喜び叫べ」と語られています。私たちの時代にあっては、もう既に来てくださった「まことの王」です。王なるイエス様がどのようなお方であるのか。

本日からアドベント、待降節ですが、みことばから語られ、私たちも大きな喜びをもってこのクリスマスを迎えていきましょう。ここには王なるイエス様についての預言、そこにあるすばらしい救いの希望が示されているのです。

 

9節に目を留めましょう。  娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。

小気味よい二行詩で始まります。イスラエル人たちに向かって、娘シオン、娘エルサレムと呼びかけています。シオンはエルサレムの別の呼び方で、イスラエルの都を指します。ここではこれらの地名を擬人化・人格化と言いますが、人に例えて親しく語りかけています。契約の民に向かって、人格的な交わりのうちに親しみを込めて呼んでいます。例えば「東村山」と呼ぶよりも、「私の娘東村山よ!」と呼ぶ方が、親しさが増しますよね。なお「息子」ではなく「娘」と呼ぶのは、シオンもエルサレムも女性名詞だからでしょう。愛する「わが娘」として大切に思い、また心配していることが伝わる表現です。また「わたしの国民よ」と全体として呼ばれるよりも、一人の人格として尊ばれているようにも感じますよね。

そして、この愛する娘イスラエルに向かって、大いに喜べ!喜び叫びなさい!と促しています。長らく苦しんできた娘に、その苦しみの夜明けが来ると伝えているのです。ついに長く暗いトンネルを抜ける時が来る!「見よ、あなたの王が、あなたのところに来られるのだ!」と。ここでも「あなたがたの王」と複数形では表現せず、「あなたの王」と単数形で伝え、個人的・人格的な対話を意識しています。私たちも救い主イエス様を「私たちのイエス様」と共同体として呼ぶとともに、「私のイエス様」として個人的にも親しく呼ぶことが出来るのですよね。全人類の救い主であるけれども、他の誰かではなくあなた自身のために来られた王イエス様であることを知って欲しいのです。これは大切なことで、ノートルダム清心学園理事長を務めておられた渡辺和子さんがこんなことを言っておられました。「いのちは大切だ。 と、言われるより、あなたが大切だ。 と、 言われた方が生きてゆける。」わかりますか?いのちは大切だという一般論ではない。あなたが大切なのだと言うことばが、私たち自身への愛として感じられますよね。神様は確かに神の民全体を尊んでくださいましたが、同時にあなたという個人に対して深い愛と関心をもっておられる。あなたのために救い主を遣わしてくださったのです。ですから、この地上にあなた一人しかいなかったとしても、イエス様は喜んで十字架に死んでくださったでしょう。

 

 その後に続くことばは、この王がどのような方なのかという事です。

「義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って」 ここでは前半と後半で一見相容れない内容にも見えます。「義なる勝利者」と「柔和でろばに乗る方」では、「正義の勝利者」と「争わない方」というイメージで、正反対にも見えるのです。けれども、これらが両立しているのがイエス・キリストです。この王イエス様は、神の完璧な基準において正しい義なる方です。そして、すべての悪と死の力に勝利される方です。けれども、一方で柔和でろばに乗られる方。争いを好まず、正義を振りかざして打ちのめすこともせず、むしろ喜んで負けを引き受けるような謙遜さ。

さらに、「ろばに乗る」という表現。アッシリアやエジプトの王様は、戦いを好む者が多かったので、軍馬を好んで使ったと言われます。しかし、ろばは人や荷物を運ぶなどの平和の用向きの動物です。イエス様は十字架にはりつけにされる直前に、エルサレムにろばで入場しました。武力ではなく自らをささげ、敵対する者にさえ救いをもたらすために来られたからです。

 ただし、イエス様は決して抵抗する力がなかったために、十字架につけられたのではないのです。弱かったのではありません。人々を愛するゆえに、父なる神のみこころに従うゆえに自らの力をあえて発揮せず、抑止されたのです。「柔和」とはそういう性質です。実のところ、イエス様は物凄く強い軍隊をお持ちでした。聖書によれば、12軍団(単純計算で72千人の軍隊)よりも多くの天使を指揮する権限がイエス様にはありました。人間より圧倒的に強い天使たちを大軍勢で動員できたはずなのです。ですから、十字架から降りることは簡単でした!嵐を瞬時に鎮める奇跡の力をお持ちで、合図一つで天使の大軍勢を召喚できるのです!イエス様は、できたのにしない。できるのに、しない・・・これが私にはなかなかできません。持っている力は見せたくなってしまう。ないのに誇りさえしてしまう傲慢な者だと、主のこの姿を見て考えさせられるのです。私は負けず嫌いな性格です。持っている力を愛の故に収めることがなかなかできません。ですから、お恥ずかしながら、意見の衝突などの中で、自分の意見の正しさを証明しようと意地になってしまうことがあります。しかし、主の姿を見る時に、自分の愛のなさに気づかされます。なぜ、むしろ甘んじてあなたは負けることを引き受けないのか?と主から問われるようです。議論で打ち負かすことは、相手の心を開くことにはなりません。イエス様はそれを喜ばれないでしょう。大切なのは、自分の言い分の正しさを証明することではないのですよね。イエス様は、ご自身の柔和さによって、私たちの救いのために、喜んで十字架にかかってくださったのです。人の目には、十字架で血を流す姿は敗北者に見えたはずです。けれど、それがなければ、私たちの罪への赦しはなされなかった。身代わりの死は成立しなかった。甘んじて十字架の苦しみ引き受ける。ここに神のみこころの勝利があったのです。私がこれまで尊敬を覚えたクリスチャンたちを思い返すと、私の生意気な言い分に対しても、猛反論して力でねじ伏せるのではなく、愛をもって受け止めてくださったと思い出します。内心では少なからず傷つきながらも、その傷を引き受けつつ、主を見上げるようにと導いてくださった。私たちはどうでしょう。

 

イエス様は武力や権力によってではなく、謙遜と柔和の限りを尽くして十字架に従い、そこで血を流されることによって、神の義を世界に現わし、罪と滅びへの勝利をもたらされたのです。

そこに真の平安がもたされました。続く10節にこうあります。 

わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。

 ここにあるように、神の民から「戦車」「軍馬」「戦いの弓」など一切の兵器を絶やしてしまうと言います。救い主、王なるイエス様は、こうして「諸国の民に平和を告げ」、海から海、大河から地の果てまで、その平和をもって治められるのです。

 私たちは、この王を大いなる喜びをもってお迎えしたいのです。誰でもイエス様の声を聞いて、その心の扉を開くなら、この方は喜んでその人のうちに入り、真の平和をもたらしてくださいます。あなたの心に平和はあるでしょうか?身近な人、大切な人に対しても、傷つけることばや態度、怒りや憎しみ、無関心や冷たい態度があるのではないでしょうか。

 アドベントの季節に、まず、私たちが考えたいことは、このイエス様を、私の王として心にお迎えすることです。キリストに私の心の領土を治めていただくことです。この方をお迎えし、治めていただくなら、この方の義と勝利、柔和と愛を持つ者とならせていただけるのです。

イエス様こそ、この世界を誰よりも愛しておられるまことの王です。王は民を本気で愛する人です。真の王は、民を愛し、民のために自らを喜んでささげるのです。このような王イエス様に私たちも従い、ついて参りましょう。

 





教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *