東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: マタイ1章22-23節「インマヌエルなるイエス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/12/04

マタイ1章22-23節「インマヌエルなるイエス」

*** 12/4(日)主日礼拝 説教概略 ***

マタイ122-23節「インマヌエルなるイエス」

 ある人のいじめの体験談を読む中で、幾人かの友人たちがいじめからの避難所になってくれたとありました。人生の中でドン底と思える経験がありますが、味方でいてくれる人の存在は本当にありがたいものです。

 ただ、私たちは有限の存在ですから、味方でいたいと心から願ったとしても、必ずしもそうできない状況も起こり得ます。ですから、「インマヌエル」と呼ばれるイエス・キリストがおられることは、なんと心強いことでしょうか。「インマヌエル」とは、今日のみことばにありますように、「神が私たちとともにおられる」という意味です。


 この名を持つイエス様が、どんな状況でも、どんなに孤立しても、決して離れず見捨てずにいてくださるのです。この方だけは何があっても私を見捨てないで、愛し続け、私たちの盾となってくださる。こんなにも身近で、親しく、まさに友として歩んでくださる救い主が来られたのです。なんと幸いなことでしょうか。

 難しい知的な議論も必要なことではありますが、私たちの心と魂でともにいてくださる主を知ることはそれ以上に尊いことではないでしょうか。インマヌエルなるイエス様について、みことばから教えられて参りましょう。


1.預言の成就者イエス 

22節にこうあります。

22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。 

 聖書が神のことばであるかどうか。それを証明する大切な手掛かりの一つは、預言がその通りに成就しているかどうかです。先週のゼカリヤ書は、多くのキリスト預言が語られている書でした。そして、本日、アドベントクランツ点灯時に読んでいただいたイザヤ書は、そのゼカリヤ書以上にキリスト預言に満ちている書です。

 しかも、20世紀半ばに死海近くの洞くつで古い時代のイザヤ書が発見され、明らかにキリスト降誕よりもずっと前の物でと分かりました。そのイザヤ書には、多くのキリストに関する預言があるのですから、聖書の信頼性は、考古学研究によって、時代とともにますます高まっていると言えます。

 ですから、福音書記者のマタイは、みことばが成就しているかどうかを非常に大事なことと考え、この22節のように語っているのです。23節のみことばもまた、預言が成就したことを示すことばとして書かれたものでした。これはイザヤ書714の預言の成就を、マタイが確信をもって伝えているものです。預言として語られた引用元イザヤ714節を開いてみましょう。

イザヤ書7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 

 「それゆえ」が何故かと言いますと、当時の王アハブという人物が、神様をなかなか信じられないでいたのです。アハブのように信じられない者たちがいつの時代もいます。このように信じられない者たちがいるゆえに、一つのしるしを与えようと神様が歩み寄ってくださったのです。

 人間がなかなか神様を信じられないという弱さを抱えているゆえです。あえて、目に見えないはずの神様が、目に見える人間となってくださったのです。それはまさに、隣を一緒に歩んでくださる隣人、友の姿です。

 ですから、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのです」と弟子に語りました。父なる神様のこの優しさを人々に教えてくださったのです。そして、この預言のことば通り、男性を知らない処女から生まれるという奇跡をもって、イエス様は誕生されたのです。

 普通に男女の両親の関係で生まれるなら、ただの人です。しかし、神の霊的な働きかけと、人間の肉体に宿るという両面において生まれました。神の子であり、同時に人の子となられた主イエスです。


2. インマヌエルなるイエス

本日のみことばに戻りましょう。

1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。 

 ここでは、もはやイザヤ書にあった「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与える」とのことばは、省略されています。その預言が実現したからです。

 処女マリアも夫のヨセフも大変戸惑いました。自分たちはまだ結婚もしておらず、男女の関係もないのに妊娠したのです。ただ、やはり旧約の預言にこれがあったことは、少なからず彼らにとって励ましになったでしょう。預言の通りじゃないか!と。実際、マタイはそれをこうして記しているのですから。

 そして、今日のタイトルにあるように、処女より降誕したイエス・キリストが、「インマヌエル」と呼ばれる方であると語られます。イエス様はまさに、その生涯を通して「インマヌエル」であることを示された方です。神である方が、遠いところから私たちを見下ろす存在ではなく、人となって歩まれたのです。神である方が人となり、人々の痛みや苦しみを担い、ともに歩んでくださいました。

 讃美歌に「いつくしみ深き」という有名な曲があります。「いつくしみ深き友なるイエスは」と始まります。神である方を、「友」と呼んでしまう大胆な歌詞に感銘を覚えたものです。それは、イエス様ご自身が弟子たちにこうおっしゃったからです。

わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15) 

 私たちがではなく、イエス様の方から弟子たちに友と呼ぶと言って下さいました。主人としもべの関係を超え、友として歩んで欲しいのだと。なぜなら、御父のみこころを、信じるすべての者と共有してくださっているからです。本音を分かち合う・・・まさにそれは「親友」ですよね?



3.永遠の友なるイエス 


 そして、マタイの福音書の最後の最後。2820節の終わりで、イエス様のこのことばで締めくくられています。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」 マタイの1章で「インマヌエル」と呼ばれると語られ、最後の一文がイエス様ご自身のこのことばで締めくくられているのです。これはイエス様が世を去る時のことばです。私たちに向かって「わたしは永遠にあなたの親友ですよ」と宣言しているようなものです。決して見捨てることも、見放すこともない「インマヌエル」であるイエス・キリストの姿に、励まされるのです。 

 皆さんは孤独を感じることがあるでしょうか。あまり感じない人でも、おそらく孤独を持っていることと思います。親しい友人や仲の良い家族がいたとしても、心の内のすべてを話せるわけではありません。また、思っていることが上手に伝えられない、伝わらないこともありますよね。その人自身にしか分からないことがあります。

 そして、人がこの孤独を抱えるようになってしまった背景に、やはり「罪」の問題があると私は考えます。それは、最初の人アダムとエバが造られた時のことです。人が罪を犯す直前の一文において、聖書はこう語っているのです。

そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。(2:25)

 罪が入るまでは、人は裸のままで歩んでいましたが、「恥ずかしい」という感情はなかったのです。何も隠す必要がありませんでした。もしかすると、心もお互いに裸であったのでは?と思うのです。隠すべき汚れも一切ないのですから。もちろん、神様との交わりにおいても、何も妨げられるものがなく親しい関係でした。

 ただ、人が約束を破り、罪を犯してしまった時、最初に人が取った行動は何でしょう?「隠れる」でした。アダムとエバは神様が来られた時に木の陰に隠れたのです。これが孤独への第一歩かなと思うのです。人は失われ「孤独」を背負う存在となったと言えます。ですから人は、孤独という闇からどうにかして出たいともがき苦しみます。

 「かくれんぼ」という遊びがありますよね。この会堂でも、子どもたちや青年たちが一緒になってやっていました。この遊びは、上手に隠れて見つからないようにする遊びです。けれども私は、実は、見つけてもらう喜びを味わう遊びだとも思っています。実際、小さな子どもたちは、なかなか見つけてもらえないと「ここだよ~」と自分から声を出し、見つかると「見つかっちゃったぁ」と嬉しそうに言ったりしますよね。そして、いつまで経っても見つけてもらえない、あるいは忘れられてしまったら、これほどさみしい事はありませんね。むしろ、難しい場所に隠れても、どうにかして必死に見つけてもらえると、自分を捜し求めてもらえたという不思議な安心感があるのではないでしょうか。

 私たちは罪のゆえに、神様からも人からも隠れてしまった存在です。けれども、イエス様がそこから救うために来られました。主はこう言われました。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。(ルカ19:10)と。神の子が、人の子となって来られたのは、失われた者を捜して救うためです。

罪のゆえに、神様からも人からも隠れてしまう「孤独」。そこから救うために、捜して見つけ出して、二度と失われないようにしてくださる主イエス様なのです。インマヌエルなるイエス様が「永遠の友」として、絶えずあなたとともにおられます。私たちもこの愛に応答し、この方の友として歩ませていただきましょう。




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