*** 12/14(水)祈祷会 説教概略 ***
ルカ1-2章「マリアはどのように信じたのか」
天使ガブリエルがその身に救い主が宿ることを告げるためにマリアのところに来ました。そして、まずガブリエルは彼女にこう言いました。
28節 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
いきなり「おめでとう!恵まれた方!」と言われても心当たりがありません。軽くパニックになりそうです。「一体何なのですか?」と反論したり、あるいは恐れて悲鳴をあげたりする人もいるかも知れません。しかし、マリアはどうだったのでしょうか。
29節 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
マリアもひどく戸惑いつつも、パニックになるのではなく、落ち着いてよく考えてみました。このことばは「推論する」、「論理的に考える」という意味を持つことばです。
マリアは驚きながらも、何の挨拶なのだろうと冷静に考えているのです。
また、少し先になりますが、マリアがイエス様を産んだ後にも不思議な出来事がありました。羊飼いたちに天使が現れ、彼らは馬小屋(家畜小屋)に生まれたイエス様を捜し当てるのです。一連の出来事を聞いた多くの人はただ驚くばかりでした。しかし、マリアは違いました。
2章19節 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
このようにあります。「心に納めて」とあります。これは英語の聖書では「treasure」と訳されているものが多いのですが、名詞ならば「宝物」という意味ですね。ただ、これは動詞で使われていますので、それは宝物のように「大事にしまっておく」という意味を持ちます。
マリアは、すべては分からないにしても、一つ一つの神様のみわざについて、まるで宝物を納めておくかのように心にしまったのです。
私たちにとって、神様のなさるみわざこそは、色あせることのない宝物ですよね。私は新会堂が完成した最初の礼拝で、会堂建設のプロセスで主がなさった様々なみわざに比べたら、この建物は「おまけ」と思えるほどだとお話ししました。それは、建物自体が宝物なのではなく、これを建ててくださった主のみわざの一つ一つこそが、色あせない大切な宝物だということなのです。
こうしてマリアは心に大事に納めつつ、思いを巡らしました。深くじっくりと考え、思いを巡らしたのです。
なお、同じ2章の51節も開いていただけますでしょうか。これはイエス様が12歳となった時の一連の出来事について、やはり彼女はこれらを心に留めています。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と語られています。50節を見ると分かりますが、理解できないことも多くあったのです。
それでも、今は分からなくても、そこに神様のご計画があるのでは?と、みな心に留めておいたのです。本当に賢いマリアの姿です。心に留め大事に心にしまい、そしてじっくりと考え思い巡らす。この姿勢がマリアの信仰の豊かさを表しているのです。
マリヤの祈りは素直に信じるだけの祈りではありませんでした。38節にこうありますね。
38節 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と祈ったのです。これは「積極的(能動的)受容」といったら良いかでしょうか。彼女は仕方なく受け入れたのではなく、どうぞこの身をお心のままになさって下さいと自分から受け入れたのですよね。
神様のみわざが始まるのはどこなのでしょう??みことばを語られたあなた自身から始まります。この身になさってくださいと祈ることから、主のみわざを体験していけるのです。他の誰かにそのようになるように!ではなく。このみことばはあの人にピッタリ!よりも、まず自分がしっかりとマリアのようにみことばを心に納め、じっくり思い巡らし、自分自身に主のみこころがなるようにと祈ります。
預言者イザヤは、神様が「誰がわたしのために行ってくれるだろうか」と言われた時、「私がここにおります。私をお遣わしください」と言いました。
私たちも主のみこころがこの身になりますようにと祈る者となりましょう。その時に、そこから真実な主のみわざが始まった参ります。