東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ1-2章「マリアはどのように信じたのか」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/12/14

ルカ1-2章「マリアはどのように信じたのか」

 *** 12/14(水)祈祷会 説教概略 ***

ルカ1-2章「マリアはどのように信じたのか」

 キリスト降誕の出来事は奇跡の連続であって、圧倒的な驚きに満ちていました。人間の常識ではありえないと思えることばかりです。そのただ中にいた人物は、イエス様の母となったマリアでした。母となった当時はまだおそらく10代。現代の高校生ぐらいかと思われます。そのような彼女がどのように主とそのおことばを信じて、神様の栄光を現すことができたのか。彼女の信仰の姿から、神様のお心を教えられて参りましょう。

 

1.彼女は思い巡らす人でした。

天使ガブリエルがその身に救い主が宿ることを告げるためにマリアのところに来ました。そして、まずガブリエルは彼女にこう言いました。 

28節 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 
いきなり「おめでとう!恵まれた方!」と言われても心当たりがありません。軽くパニックになりそうです。「一体何なのですか?」と反論したり、あるいは恐れて悲鳴をあげたりする人もいるかも知れません。しかし、マリアはどうだったのでしょうか。

29節 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。 

マリアもひどく戸惑いつつも、パニックになるのではなく、落ち着いてよく考えてみました。このことばは「推論する」、「論理的に考える」という意味を持つことばです。

マリアは驚きながらも、何の挨拶なのだろうと冷静に考えているのです。

また、少し先になりますが、マリアがイエス様を産んだ後にも不思議な出来事がありました。羊飼いたちに天使が現れ、彼らは馬小屋(家畜小屋)に生まれたイエス様を捜し当てるのです。一連の出来事を聞いた多くの人はただ驚くばかりでした。しかし、マリアは違いました。

219節 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた

このようにあります。「心に納めて」とあります。これは英語の聖書では「treasure」と訳されているものが多いのですが、名詞ならば「宝物」という意味ですね。ただ、これは動詞で使われていますので、それは宝物のように「大事にしまっておく」という意味を持ちます。

マリアは、すべては分からないにしても、一つ一つの神様のみわざについて、まるで宝物を納めておくかのように心にしまったのです。

私たちにとって、神様のなさるみわざこそは、色あせることのない宝物ですよね。私は新会堂が完成した最初の礼拝で、会堂建設のプロセスで主がなさった様々なみわざに比べたら、この建物は「おまけ」と思えるほどだとお話ししました。それは、建物自体が宝物なのではなく、これを建ててくださった主のみわざの一つ一つこそが、色あせない大切な宝物だということなのです。

こうしてマリアは心に大事に納めつつ、思いを巡らしました。深くじっくりと考え、思いを巡らしたのです。

なお、同じ2章の51節も開いていただけますでしょうか。これはイエス様が12歳となった時の一連の出来事について、やはり彼女はこれらを心に留めています。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と語られています。50節を見ると分かりますが、理解できないことも多くあったのです。

それでも、今は分からなくても、そこに神様のご計画があるのでは?と、みな心に留めておいたのです。本当に賢いマリアの姿です。心に留め大事に心にしまい、そしてじっくりと考え思い巡らす。この姿勢がマリアの信仰の豊かさを表しているのです。

 私たちにもこの姿勢が必要ですよね。神様のみわざを大事に心におさめ、これはどのような神のご計画なのか、どんな導きなのかとじっくりと思い巡らし、主を知りましょう。

 

2.素直に信じる姿勢

JIパッカーという神学者がある神学校の式典において、こんな風に祈ったそうです。「ああ主よ、私たちを神学的な概念(考え方の枠組み)から解放してください」

概念とは物事を理解するための「枠組み」のことです。例えば、「鳥の概念」と言えば、「鳥とはこういうものだ」という枠組みを持っていますよね。

私たちは神様についても、「神はこういうお方なのだ」という枠を持っています。パッカーが祈ったのはこの枠から解放して下さいという事です。

この先生は、神様を正しく知りたいからこそ、神学的な先入観のような枠から私たちを解放して下さいと祈ったのです。聖書からゼロから学べるようにと。

マリヤとヨセフの身に起こったことは、まさに「常識という枠」

神様の世界を理論や理屈だけではかることは到底できません。人間の小さな限りある脳みそでいくら理屈をこねてみても、人知をはるかに超えた神様のご計画の深淵を測ることなどできません。そうした神学とか人の常識というものにあまりにも束縛されることによって、私たちはかえって神の摂理を暗くしてしまうことがあるのかも知れません。

私たちの側で神様を小さな枠に閉じ込めて理解してしまってはいないでしょうか。神様はこうに違いないと決めつけることで、私たちは神様の恵みを見逃してしまうならなんともったいないことかと思います。ですから、私たちがすべきことは、神様の側からお語り下さることばを素直に信じ、受け入れていくことなのです。

クリスマスに起こった出来事は、人の理解を超える不思議な出来事です。神学や生物学や遺伝子学などで説明できることではありません。ではマリヤはどうしたのか?偉い学者さんにこの事を研究してもらったのか?あれこれ調べて理由や根拠を知ったから受け入れたのか?いいえ。彼女がしたことは神様のおことばを信じたということです。37節に御使いのことばがあります。137節 神にとって不可能なことは何もありません。」 このことばを聴いたマリヤは信じました。この彼女の行動について、親類のエリサベツは言いました。145節 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」

 

3.積極的(能動的)受容

マリヤの祈りは素直に信じるだけの祈りではありませんでした。38節にこうありますね。

38節 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と祈ったのです。これは「積極的(能動的)受容」といったら良いかでしょうか。彼女は仕方なく受け入れたのではなく、どうぞこの身をお心のままになさって下さいと自分から受け入れたのですよね。

神様のみわざが始まるのはどこなのでしょう??みことばを語られたあなた自身から始まります。この身になさってくださいと祈ることから、主のみわざを体験していけるのです。他の誰かにそのようになるように!ではなく。このみことばはあの人にピッタリ!よりも、まず自分がしっかりとマリアのようにみことばを心に納め、じっくり思い巡らし、自分自身に主のみこころがなるようにと祈ります。

預言者イザヤは、神様が「誰がわたしのために行ってくれるだろうか」と言われた時、「私がここにおります。私をお遣わしください」と言いました。

私たちも主のみこころがこの身になりますようにと祈る者となりましょう。その時に、そこから真実な主のみわざが始まった参ります。




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