ヘブル7章20-28節「永遠の大祭司イエス」
そもそも祭司とはどういう立場なのでしょう。簡単に言うと「神と人との仲介者、仲保者、とりなし手」です。民の代表として神に奉仕し、神様からのみこころを民に示しました。
創世記14章18-20節を開きましょう。
18節 また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。19節 彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。20節 いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
ここで注目すべきことは、まだ律法が与えられていない時代に「いと高き神の祭司」と呼ばれていたということです。通常の祭司は、律法の定めを根拠として立てられたのです。
しかし、律法さえまだない時代です。その意味では、彼は神様から直接に召されたと考えるべきでしょう。もう一つ注目すべきことは、族長のアブラハムよりも位が高いということです。
19-20節でメルキゼデクは、パンとぶどう酒をもってアブラハムを祝福しています。イエス様が弟子たちを聖餐式に招かれた姿を連想するのは私だけでしょうか。何よりも、20節の最後では、「アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」と語られています。
このことを踏まえた上で、ヘブル書7章に戻りましょう。1-4節にこのような説き明かしがあります。
サレムの王メルキゼデク。その名は際立ち、イエス様の姿を暗示します。サレムとはエルサレムの「サレム」。それはシャロームということばで平和を意味します。メルキとは王という意味、ゼデクは義という意味で「義の王」。平和の王、義の王!
まさにイエス様を想起させられます。さらに、彼は4節にあるように族長アブラハム以上に偉大な人物であったと解き明かされています。それでいて、彼は何の系図も詳しい話が一切出て来ません。3節では、父も母もなく系図も、生涯の初めも終わりもなくと。
ただし、この意味は、聖書中にその記述がないという意味でしょう。神様が彼の背景をあえて隠し、キリストのひな形とされたと考えるのが自然でしょうか。それによって、他の祭司と区別が明確にされ、ただただ神の召しによって立てられた偉大な王、偉大な祭司であると。
そして、彼のこの姿こそ、将来やがて来られる「永遠の大祭司イエス様」についての預言的ひな型であったのです。では、この永遠の大祭司イエス様は、何をなしてくださるのでしょうか。どういう大祭司でしょうか。
第一に、私たちの弱さに同情できる大祭司です。もちろん、他の大祭司もそうでしたが、イエス様は真の神でありながら、同時に完全な人としての弱さを担われたことに大きな意味があります。私たちの弱さに寄り添いながら父なる神にとりなして下さるのです。
第二に、死のない方なので、永遠に大祭司でいらっしゃいます。23-24節にこうあります。
23 また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、24 イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。
人間の大祭司はどんなに尊敬される立派な人であっても、ただの人間です。死を持つ存在です。その証拠に、祭司たちは大勢いました。歴史の中で死んでは次の祭司が立ちと繰り返したわけです。時に堕落した悪い祭司もいたでしょう。しかし、イエス様は最高に良い祭司でありながら、同時に永遠に導き、とりなしてくださいます。
なんと嬉しいことでしょうか。それで25節にこうありますよね。
7:25 したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
不完全な人間の祭司とは違う永遠のお方です。いつも生きておられ、私たちのために途切れることなく、仲介し、とりなしていてくれます。それは、私たちを父なる神様の恵みの御座へと大胆に近づかせてくれるということです。
普通、偉い人のところには、私たちは直接会いに行けませんよね?紹介をしていただいて、お膳立てをしてもらって初めてお会いできる。それを「とりなし」と言いますよね。ですから、イエス様を通してこそ、信じる者たちが父なる神様に大胆に近づき、抱きしめていただけるほどの距離にさせてもらえたのです。このイエス様の祭司職が優れているゆえに、「万人祭司」という考え方ができるのです。誰でもキリストを通して、父なる神様に直接語りかけ、親しく歩めるからです。このイエス様だからこそ、完全に私たちを罪と死、滅びから救うことができるのです。
第三に、イエス様の場合には罪が一つもありませんので、自分のために犠牲をささげる必要がなかったのです。何度も繰り返し犠牲をささげる必要はなく、ただ一度、ご自身というささげ物をもって、永遠の赦しを成し遂げました。
7:27 イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。
イエス様は何度も十字架で死ぬ必要がありませんでした。完全なささげ物ゆえに動物のように何度も繰り返す必要がありません。そして、私たちも何度もイエス様を信じ直す必要はありません。何度もイエス様を信じます!と告白を繰り返す必要がありません。
一度、決心して受け入れるのなら、イエス様のささげ物は完璧で、永遠なので、もはやこの方から引き離されることはないのです。真の神であり、真の人であるイエス様だからこそ、神と人との間に立って完全な意味での仲保者、仲介者、とりなし手となることが出来るのです。
私はごくたまに、自分が突然召されたら、家族や教会はどうなるだろうと考えることがあります。自身の背負う重荷でもあり、自分が支えなければと時に重いプレッシャーを感じることもあります。しかし、その時に主を見上げるよう導かれます。見上げると、そこに永遠の大祭司イエス様がおられるのです。いや、すぐ前に、すぐ横で、すぐ後ろで主がお支え下さっている。私が出来なくなっても、このお方がいつでも、いつまでも、重荷を担い励まし慰め、恵みの座へと絶えず導いてくれると思えるのです。必要のすべてを与え、恵みで満ちたらせてくださいます。