ルカ2章25-38節「シメオンとアンナ」
1. 主に仕える謙遜なしもべであった
さて、女預言者アンナは、どうでしょうか。ルカ2章36-37節。
36節 また、アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、
37節 やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。
彼女の場合もまた「神に仕えていた」と語られています。決して目立つ人ではなかったでしょう。ご主人との幸せな生活は7年で終わり、やもめとなりました。そこには別離の悲しみや孤独もあったことでしょう。しかし(いや、だからこそ)、彼女はいつも神の宮を離れず、主を恐れ、熱心に祈っていた人でした。
来る日も来る日も、夜も昼も断食の祈りをもって、主に仕えていたのです。断食して祈るとは、どういうことでしょうか。人間にとって食事は、必要不可欠な基本的欲求です。そして、大きな楽しみでもあります。その基本的欲求や楽しみをも横において、神様への祈りに専念するという意味があります。食べる時間さえも神様におささげし、食べる楽しみより祈りを選ぶという信仰の姿勢です。しかも、断食をする時は、あまり人に気づかれないようにする必要があります。私の1週間断食は止む無くですし、しんどいので祈って下さいと公言していますので、あまりほめられたものではありません。でも彼女は断食を誇ることもなく、非常に謙遜に祈りに専心していたことでしょう。
2. キリストの降誕を心より待ち望んでいた
さて、第二の共通点。それは、救い主イエス様を待ち望む姿勢です。25節ではシメオンが「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」とあります。私たちは、信仰において待ち望むことがとても苦手ではないでしょうか。祈ったらすぐにでも答えを求めてしまいます。せっかちな私たちです。
けれども、主がどのように祈りに応えてくださるのか。どのようにみわざをなしてくださるのか。じっくりと待ち望みジワジワと味わっていくこと。待っている最中もワクワクできることは、実に幸せなことです。私は子どもの頃に一番好きな季節がクリスマスでした。雰囲気やケーキ、プレゼントがとても楽しみでした。だから早く終わって欲しくない。クリスマスに至るまでの日々が楽しみで、ワクワクしていたのを思い出します。
「もういくつ寝るとお正月」という歌の替え歌を作り、お正月の部分をクリスマスに変えて歌っていました。
私たちは、待つこと自体が恵みであるということを覚えたいのです。みことばは、この「待ち望む」ということを私たちに積極的に呼びかけています。
詩 27:14 待ち望め 主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め 主を。
詩 62:5 私のたましいよ 黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。
神様が授けて下さる「待ち望みの時」を無視するなら、神様からの恵みを退けているようなものです。たいていの場合、あまりに早く得てしまうと、私たちの興味はすぐに薄れ、感動や感謝も生まれにくいのではないでしょうか。本当に価値あるものは何なのか。また、自分は今、それを受けるに相応しい者なのか。待たされるからこそ、そうしたことを主との交わりのうちに教えられることは、かけがえのない大切な時ではないでしょうか。
アンナはどうでしょうか。38節の記述からすると、「ちょうどそのとき、彼女も近寄ってきて」とあります。みことばから示され、まだかまだかと救い主の降誕を待ち続けていたからこそ、幼子のイエス様が両親に抱かれて来た時にすぐにわかって、近寄って来たのです。たまたま居合わせたのではありません。
彼女は、いつも宮を離れずに神様に仕えていたからです。この救いの場に、恵みの場に自分自身をいつも置いて、主を待ち望んでいたのです。
シメオンもアンナも、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。来る日も、来る日も、宮に通い、今日も救い主は来ていないか?どの子が約束の救い主だろうか?と。主に期待しながら、待ち続けたのです。この待ち続ける日々は、確かに忍耐を要したはずです。でも、ヘブル書には約束のものを受けるのに必要なものは忍耐であるとあります。その日々は必要なプロセスであり、ある意味ではその時こそ有意義で尊い時間です。
素晴らしい主のみわざがもう起こっているのに、見えない人がいます。気づかない人がます。しかし、みわざはもう始まっているのです。あなたがたはそれを知らないのかと問われます。心から主を待ち望んでいた者はそれを逃しません。