東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ2章25-38節「シメオンとアンナ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/12/21

ルカ2章25-38節「シメオンとアンナ」

*** 12/21(水)祈祷会 説教概略 ***

ルカ2章25-38節「シメオンとアンナ」

 教会では子どもたちが「降誕劇」をよくやりますね。そこに登場する中心人物と言えば誰でしょう。もちろん赤ちゃんのイエス様、ヨセフさん、マリヤさん。あるいは天使や博士、羊飼いたち。あとはいじわるな宿屋の主人やヘロデ王などでしょうか。演じる人の人数が余ってしまうような場合は、羊の役を増やすでしょうか。しかし、そこにはあまり登場しないけれど、クリスマスを心から待ち望んでいたすばらしい信仰者がいるのです。

 二人は決して目立たない人物かも知れませんが、神様の前に確かに覚えられている人たちです。シメオンとアンナという年配の信仰者たちでありました。

 今日は、シメオンとアンナという人物の姿から、二つの共通している大切な真理から、神様のみこころを学んで参りましょう。


1. 主に仕える謙遜なしもべであった  

この二人の信仰者に共通する第一の点は、二人とも神様に謙遜に仕える「しもべ」として自分をささげていたということでした。29節にあるシメオンことばに注目しましょう。29節「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。 

 このシメオンという人は、26節で語られているように、主キリストを見るまでは、決して死を見ることがないと、聖霊によって告げられていた人でした。ですから、こうした表現が適切かは分かりませんが、死にたいと思っても、主の許しなしには死なない者とされていたということです。

 そして、彼は自分自身を指して「しもべ」と呼びました。「主のしもべ」なので、生きるにしても、死ぬにしても、すべては主人のみこころによると受け止め、信じていたということです。しばしば私たち人間は、自分に与えられているいのちが、まるで自分のモノであるかのように扱ってしまいます

 自分がそのいのちの主人で、自分にこのいのちの主権があると考えます。しかし、主権者であるなら、責任も背負うことになってしまいます。すると、自分でどうにかいのちを保たないといけない!という責任を背負い込むので、それだけで疲れ果ててしまうのです。

 いのちこそが一番大切で、そのいのちをどう守るかばかりに必死だと、かえって生きることが苦痛になっていきさえするのではないでしょうか。けれども、私たちのこのいのちは主のものです。生かすも、終わらせるも神の権限です。主がいのちの息を吹き込んで初めて、人は生きる存在となったと創世記に語られているからです。

 すると、このいのちが主によって与えられているのには目的があると言えるでしょう。ある兄弟は、二度死にかけた。しかし、主によって二度とも奇跡的に守られ生かされた。それならば、主が生かしてくださっている目的がある。そのために出来ることをしようと考えたと言われていました。

 筆を口に加えて絵を描かれる星野富弘さんは、大けがをして首から下がマヒしてしまった当初。「いのちが一番大切だ」と考えていたそうです。その時は「生きることが苦しかった」と言っています。しかし、いのちより大切なものがあるのだと知った時に、生きていることが嬉しかったと告白しています。

さて、女預言者アンナは、どうでしょうか。ルカ236-37節。

36節 また、アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、

37やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。 

 彼女の場合もまた「神に仕えていた」と語られています。決して目立つ人ではなかったでしょう。ご主人との幸せな生活は7年で終わり、やもめとなりました。そこには別離の悲しみや孤独もあったことでしょう。しかし(いや、だからこそ)、彼女はいつも神の宮を離れず、主を恐れ、熱心に祈っていた人でした

 来る日も来る日も、夜も昼も断食の祈りをもって、主に仕えていたのです。断食して祈るとは、どういうことでしょうか。人間にとって食事は、必要不可欠な基本的欲求です。そして、大きな楽しみでもあります。その基本的欲求や楽しみをも横において、神様への祈りに専念するという意味があります。食べる時間さえも神様におささげし、食べる楽しみより祈りを選ぶという信仰の姿勢です。しかも、断食をする時は、あまり人に気づかれないようにする必要があります。私の1週間断食は止む無くですし、しんどいので祈って下さいと公言していますので、あまりほめられたものではありません。でも彼女は断食を誇ることもなく、非常に謙遜に祈りに専心していたことでしょう。

 

2. キリストの降誕を心より待ち望んでいた 

 さて、第二の共通点。それは、救い主イエス様を待ち望む姿勢です。25節ではシメオンがイスラエルの慰められるのを待ち望んでいたとあります。私たちは、信仰において待ち望むことがとても苦手ではないでしょうか。祈ったらすぐにでも答えを求めてしまいます。せっかちな私たちです。

 けれども、主がどのように祈りに応えてくださるのか。どのようにみわざをなしてくださるのか。じっくりと待ち望みジワジワと味わっていくこと。待っている最中もワクワクできることは、実に幸せなことです。私は子どもの頃に一番好きな季節がクリスマスでした。雰囲気やケーキ、プレゼントがとても楽しみでした。だから早く終わって欲しくない。クリスマスに至るまでの日々が楽しみで、ワクワクしていたのを思い出します。

「もういくつ寝るとお正月」という歌の替え歌を作り、お正月の部分をクリスマスに変えて歌っていました。

私たちは、待つこと自体が恵みであるということを覚えたいのです。みことばは、この「待ち望む」ということを私たちに積極的に呼びかけています。

詩 27:14 待ち望め 主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め 主を。

詩 62:5 私のたましいよ 黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ。

 神様が授けて下さる「待ち望みの時」を無視するなら、神様からの恵みを退けているようなものです。たいていの場合、あまりに早く得てしまうと、私たちの興味はすぐに薄れ、感動や感謝も生まれにくいのではないでしょうか。本当に価値あるものは何なのか。また、自分は今、それを受けるに相応しい者なのか。待たされるからこそ、そうしたことを主との交わりのうちに教えられることは、かけがえのない大切な時ではないでしょうか。

アンナはどうでしょうか。38節の記述からすると、「ちょうどそのとき、彼女も近寄ってきて」とあります。みことばから示され、まだかまだかと救い主の降誕を待ち続けていたからこそ、幼子のイエス様が両親に抱かれて来た時にすぐにわかって、近寄って来たのです。たまたま居合わせたのではありません。

彼女は、いつも宮を離れずに神様に仕えていたからです。この救いの場に、恵みの場に自分自身をいつも置いて、主を待ち望んでいたのです。

シメオンもアンナも、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。来る日も、来る日も、宮に通い、今日も救い主は来ていないか?どの子が約束の救い主だろうか?と。主に期待しながら、待ち続けたのです。この待ち続ける日々は、確かに忍耐を要したはずです。でも、ヘブル書には約束のものを受けるのに必要なものは忍耐であるとあります。その日々は必要なプロセスであり、ある意味ではその時こそ有意義で尊い時間です。

素晴らしい主のみわざがもう起こっているのに、見えない人がいます。気づかない人がます。しかし、みわざはもう始まっているのです。あなたがたはそれを知らないのかと問われます。心から主を待ち望んでいた者はそれを逃しません。

私たちはどうでしょうか。

いつも期待する心でいますか?
ただ待つのではなく、待ち望んでいますか? 

 主を待ち望む者は必ず力を得、鷲のように高く舞うのです。

 シメオンとアンナ。二人の主のしもべの姿に励ましを受けます。私たちも主の前に謙虚に仕えるしもべとなりましょう。このいのち、この人生は主から来ました。幸いも祝福もすべて主から来ます。そして、このお方とその救いのみわざを待ち望む者となりましょう。普通の日々であっても、また苦しい日々であっても・・・です。

 主を待ち望む者はなんと幸いなことでしょうか。主の助けは相応しい時に与えられます。それが遅れることはありません。 




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