東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書2章8-14節「救い主イエス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/12/26

ルカの福音書2章8-14節「救い主イエス」

*** 12/25(日)クリスマス礼拝 説教概略 ***

ルカの福音書28-14節「救い主イエス」

 本日はクリスマス礼拝でありながら、同時に今年最後の礼拝ともなりました。
ですから、クリスマスを味わいながら、同時に神様に一年の感謝をもって締めくくる時とできたら幸いですね。不満や苦しみや、嘆きはたくさん出て来てしまいますが、感謝をもって一年を終われるなら、次の年に向かっても最善の備えになると思いませんか。


 ただし、簡単ではありませんよね。依然としてコロナウイルスの問題も続いています。
健康面で課題を抱えている方も増えていますよね。
お仕事・学校の悩み、子育て・経済的な不安もつきまといます。

 クリスマスも必ずしも「嬉しい」と思う人ばかりではないでしょう。忙しくて辛いとか、かえってさみしいと感じる方もいらっしゃるでしょう。それらの多くの現実がある中で、一体どうしたら私たちは感謝などできるのでしょうか。クリスマスを迎えようと、年が明けようと、私たちの環境はたいして変わらないのです。一つの試練をクリアすると、次はもっと大きな試練がやって来るのが人生です。

以下の例話は、何度か話したことがありますが、お付き合いください。

ある王様が二人の画家に「静けさ」というテーマで絵を描かせました。一人は波ひとつ立たない湖に月がきれいに映っているいかにも「静けさ」という絵です。私たちはきっと、こういう静けさを望むのでしょう。

しかし、もう一人の画家は激しい滝の絵を描きました。当然王様は「これのどこが静けさなのか?」と尋ねます。

画家は言いました。「王様、あちらの絵は現実的ではありません。むしろ、私たちの日々はこの滝のように、心が少しも静まらない喧騒、過酷さの中にあるのでないでしょうか。ただ、よく見てください。」 

画家が示したところをよく見ると鳥の親子がいました。激しく流れる滝のすぐ横の木陰です。ヒナたちは親鳥の翼の下にしっかりと収まり、激しい滝などお構いなしに、安らかに眠っているのです。親鳥の翼の下にいるヒナはどんなに困難が周囲に起こっていても、親鳥を信頼し切って穏やかなのです。

私たちがもし最初の画家の絵のような静けさを求めるならば、おそらく一生それを得ることはありませんそれは幻想のような静けさだからです。悪魔はそのような偽りや幻想を私たちに求めさせ、神様のもとにある真の平安から私たちを遠ざけるのです。

ですから、教会では、キリストを信じさえすれば問題がすべて解決するという安易な幻想は、決して申し上げません。それは真実ではないからです。

神様は真実な愛のお方ですから、この世界に人の罪が満ちている以上、苦しみも悲しみも必ずあるのだと言われます。

ただ、神様はこうも言われます。

確かにこの世界には様々な困難や試練があるけれども、そこには「わたしもいる」と教えて下さるのです

イザヤ書4113節にこうります。

わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。 

 神様が先ほどの親鳥のように、全力でその翼の下に私たちヒナを守ってくださるのです。固く私たちの手を握り締め、「大丈夫。恐れなくてよい。わたしがあなたを助ける」と言われるのです。


その証しに、神様は、その試練・困難のただ中に「わたしの御子キリストを遣わす」と約束されました。私たちを救うために神の御子キリストが来られたのです。

それがクリスマスです。

ルカ2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 

 この大きな喜びの知らせが、救い主イエス様がお生まれになったことです。「この民全体に」とあるように、一部の権力者、裕福な者、力のある者などに限定されるものではありません。このことばは当時の社会で、最も身分の低かった羊飼いたちに語られたことばでした。羊飼いには、裁判で証言する権利さえありませんでした。

 彼らの証言を信頼して認めることができないというほど、彼らは教養なき「いやしき者」とされていました。しかし、そのような者たちに「この民全体に与えられる救いである」と伝えられたのです。そこには貧富の差も能力の差もなく、国籍や世代の差もないことが明らかです。さらに、どの時代の人であろうと、神様に救いを求め祈るならば、救い主イエスを受け入れるならば、救われるのです。

11-12節にこうあります。

2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

11節に「ダビデの町で」とあります。そこは「ベツレヘム」という小さな目立たない町でした。華やかな都ではありません。お金持ちだけが住めるような地域では決してありません。むしろ庶民の町、村と言った方がいいかも知れません。

しかも、12節をご覧ください。「布にくるまって飼い葉桶に寝ているみどりご(赤ちゃん)」であると語ります。飼い葉おけとは、草を入れる家畜の餌箱です。神の子、まことの王であるイエス様が、なんとふかふかのベッドでないどころか、ぺったんこの布団でさえなく、汚らしい家畜のフンや匂いまみれの家畜小屋の餌箱に寝かされていたのです。宿屋に居場所がなかったからだと聖書は教えています。

そのような貧しい、不衛生な所にお生まれになったのです。私たちの貧しさの現実に、私たちの暗い心の汚れの中に来てくださったことを象徴していると言えます。イエス様は貧しさのただ中に、罪の汚れのただ中に生まれました。私たちの苦しみを担うためです。

 時々、「私はあまりにも汚れているから、教会には行けません。」「私など教会に行って良いのでしょうか。」とおっしゃる方がいます。でも、イエス様は、都や王宮ではなく、さらに「人の家」ですらなく、不衛生な「家畜小屋」にお生まれになったのです。ですから、どんな汚れた者、罪深い者をも退けず、ご自身のもとに招いておられるお姿なのです。

それは、居場所のない者が、イエス様に招かれイエス様を居場所とすることができるということです。この救い主のもとには、どんな姿であっても飛び込んでいいのです。人が何を言おうと、イエス様が「わたしがあなたを守るから、助けるから、大丈夫だ」と約束してくださいます。

 何よりもイエス様は、私たちすべての人間の救い主であると語られています。すべての人を照らす「まことの光」であるとも聖書は語ります。この罪に満ちた暗闇の世界を照らすため、私たちの暗く沈んだ罪の心に、愛の光で照らすために来られました。

 私たちの犯し続けている罪を背負い、私たちに代わって罪の罰を受けるためでした。 

Ⅰペテロ 2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。 

 ある女の子のお母さんは顔にやけどの跡がありました。それでその子は、お母さんを友だちに紹介することを恥ずかしい、紹介したくないと思っていました。ただ、その理由を知らないままでした。お母さんも理由を話したがらなかったのです。しかし、女の子がもう少し成長し、大きくなってから、女の子はどうしてもお母さんのやけどの理由が知りたいということで、しつこく尋ねました。それでようやくお母さんは理由を話してくれたのです。

 実は、この子がまだ幼かった頃に、この子が沸騰したお湯をひっくり返しそうになった際に、お母さんがかばって、この子の代わりに熱湯を浴びてしまったのでした。それでやけどを負ったのです。ただ、それを話せば娘が苦しむと考え、その苦しみも全部含めて、お母さんが代わりに背負って生きて来たのでした。娘さんはそれを知ってから、お母さんの顔を愛おしく、誇りに思うようになったそうです。

 イエス様の十字架もこれと似ています。私たちの身代わりに、イエス様が全部引き受けてくださったのです。その罪とその結果である滅びをもイエス様が全部受け、苦しみを通られたのです。ここに愛があります。

 このイエス様の愛を受け取り、イエス様を心に迎えるなら、誰でも過去、現在、未来にわたるすべての罪に赦しを受け、神の子とされます。神の御翼の下に守られ、その手を固く握られ、もはやその手が離れることはないのです。

この愛のプレゼントがクリスマス・プレゼントです。

 

「両手いっぱいの愛」という子ども讃美があります。シンプルな歌詞ですが紹介します。

1.ある日イエス様に聞いてみたんだ。どれくらいぼくを愛してるの?

これくらいかな。これくらいかな。イエス様は黙って微笑んでる。 

2.もいちど イエス様に聞いてみたんだ どれくらいぼくを愛しているの?

これくらいかな? これくらいかな? イエス様は優しく微笑んでる

3.ある日イエス様は答えてくれた 静かに両手を広げて

その手のひらに くぎを打たれて 十字架にかかってくださった

それはぼくの罪のため ごめんね ありがとう イエス様

 イエス様の私たちへの愛は、私たちが思う以上に深いのです。愛する友のために、そのいのちを捨てる。これにまさる愛はないと聖書は言います。イエス様はあなたのために、十字架でさばかれ死ぬためにこのクリスマスにお生まれになったのです。私たちの心の闇を愛の光で照らし、罪とその支配から私たちを救うためです。イエス様を心にお迎えして、本当の静けさ、平安を神様のもとでいただきませんか。神様はただただ、アナタを愛し、アナタとともにいたいのです。




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