申命記6章4-9節「みことばに生きる一年」
けれども、私たちには主の守りがあります。主の恵みと平安があります。どのような嵐の中にあっても、主の御手の中に生かされているのです。その御手の中で、ふさわしい時に主がすべてを益とし、私たちの嘆きを賛美へと変えてくださるのです。嘆きや恐れを主への賛美とし、ほめ歌を歌いつつ歩んで参りましょう。どんな時でも主を見上げる時、そこに希望が満ちています。
そのために私たちがすべきことは「主を仰ぎ見ること」です。主である神様のみをあがめ、このお方の御声に親しく聞いて生きることです。そこに救いがあるのです。この新しい一年、今まで歩んで来た以上に、みことばに生きる一年としていきましょう。
モーセを通して最も大切な主のみこころがここに語られました。
4節 聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。5節 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
イエス様ご自身の口から、この教えが第一のものであると語られました。唯一まことの生ける神でいらっしゃる主を信じて、この方を全身全霊で愛すること。それが聖書で最も大切な教えであり、私たちがいつでも心を注ぐべき事です。
昨年、クリスマス頃に辻岡健象先生が天に召されました。日本で「小さないのちを守る会」を立ち上げ、導いて来られた方です。献身する前はビジネスマンで、順調そのものと言える日々だったそうです。ただ、クリスチャンではあったものの、野球の練習があれば日曜の礼拝をサボることもあったそうです。また、クリスチャンとして教会で奉仕をしたり、誰かのために何かをしたりという思いもなくはなかったけれど・・・それらは退職してからすればいいかと考えていたそうです。
ところが、ある日、夢を見たそうです。その夢の中で、天国の門の前に立たされ神様から問われました。「辻岡、お前は自分のためだけにしか生きて来なかったのではないか?」と。しかも、それと同じ夢を3度見たと言うのです。そして、そのたびごとに神様から問われ、やり直しのきかない過去を悔やみ、号泣している自分がいたそうです。そして悔い改め、神と人とに仕える歩みをしようと決心なさったとのことでした。余談ですが、奥様は働きが始まってだいぶ後になってからこの話を知ったとぼやいておられましたが(笑)。
それにしても私たちも考えさせられますね。キリストのいのちによって贖われたクリスチャンなのに、「自分のことばかり」となってしまっている。そして、今日という日はもう戻らない。時は常に経過しています。ですから、私たちは主の御声を聞いた時こそ、その時なのだと覚え心を頑なにしないようにしたいのです。今日、主が「聞きなさい、イスラエルよ」と語られています。主のことばを聞き、私たちの神、主を愛する道を歩みましょう。
私たちの信仰は聞くことから始まります。主を愛することは、主の声に聞くことから始まるのです。対人関係でも同様です。その人を愛するとは、自分の言い分をひたすら語る前に、その相手の声に耳を傾けることです。その人を理解しようとすることです。その人の望みを知ることです。
神様の願われることを私たちの願いとする。主が喜ばれることを主とともに喜ぶ。主が悲しまれることは、私たちも悲しむ。主の声に聞いていく時、そのように私たちは変えられていきます。主のことばの奥にある御心に、しっかり耳を傾ける者となりたいのです。
ですから、続く6-9節では、この大切な主のことばをいつも心に留めて歩むようにと語られています。
すぐ忘れてしまう聞き手にならず、心にとどめるよう教えられています。クリスマスで、イエス様の母マリアは、周囲で起こった出来事をすぐ忘れたりせず、心に納めていました。ルカ2章19節に「マリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」と語られていました。この「心に納めて」とは、英訳聖書では「treasure」と訳されているものが多いのです。名詞なら「宝物」ということばです。それが動詞で使われていますので、「宝物のように大切に心にしまいこむ」という意味になります。
その時には分からなかったことも、大事にしまっておくと、後になって「こういうことか!」とわかるものでもあります。年末に、ある姉妹がこんなことを分かち合ってくださいました。教会に集うようになり、なかなか語られていたことが分からない時期が続いた。
けれども、5年ぐらい経ってようやく分かるようになってきて嬉しい、楽しいとおっしゃっていました。個人差はあるでしょうけれど、すぐに理解できないものでも、大切に心にとどめることによって、それをいつも握りしめて生きる時に、徐々にそれが生活の中で分かるようにされていきます。これは本当に楽しい!!「信仰の冒険」のようなものかも知れません。味わうほどに味が出て来るのです。