東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピレモンへの手紙1-10節「愛の懇願」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/01/10

ピレモンへの手紙1-10節「愛の懇願」

 *** 1/8(日)主日礼拝 説教概略 ***

ピレモンへの手紙1-10節「愛の懇願」


 本日から何回かに分けて「ピレモンへの手紙」を学びます。少し前に学んでいたコロサイ人への手紙と同時代、イエス様の十字架から
30年余り経った頃です。そして内容的にもコロサイ書と密接な関係があります。


ただし、コロサイ人への手紙と異なるのは、極めて個人的な手紙であるという点です。2節を見ていただくと、彼以外の人々の名もありますが家族ではないかとの見解があります。姉妹アッピアは奥さん、戦友アルキポは息子ではないかと。おそらくピレモンは自分の家を教会として主にささげ、そこに幾人かが集っていたのでしょう。

さて、この手紙の主題ですが、それは身分や立場の違いを超える「キリスト者の愛と友情」だと言えるでしょう。キリスト者の交わりはこの世の価値観とは大きく異なります。キリストなしにはともに歩めないはずの者たちが、赦し合う中でともに神の家族として歩むのです。特に「役立たず」とのレッテルを貼られてしまった逃亡奴隷・オネシモを巡っての手紙となっています。パウロは彼を立ち直らせたばかりか、大いに役立つ者としてともに歩みました

日本の内閣府が令和元年に出した『子供・若者白書』の中に、若者の自己肯定感(セルフイメージ)についての分析があります。「日本の若者の自己肯定感の低さには、自分が役に立たないと感じる自己有用感の低さが関わっていると。以前からも言われていましたが、特に日本の若い世代の自己肯定感が低いというのです。そして、その理由として「自分が役に立たない者だ」との思い込みが関係していると指摘します。

誰かから「必要とされている」「誰かの役に立てている」という実感は誰にでも必要なものですよね。その土台になるのが、神様の私たちへの変わることなき愛です。そして、全知全能の主が私たちを必要としているのです。

この土台に立つ時、私たちの自己肯定感(セルフイメージ)は揺るぎなく豊かにされることでしょう。その上で、「誰かのために何かをする」という目的意識を持つことも、聖書から教えられるのです。自分のためだけに生きる人生を後にし、神と人のために役に立てる喜びを教えられ続けたいのです。

パウロは自らの頭を低くして、読者ピレモンに対して、オネシモを迎え入れて欲しいと懇願しています。この愛の懇願についてみことばから教えられましょう。

 

1. オネシモを引き上げたパウロ


9-10節のところをご覧ください。

9節 むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、10節 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。 

パウロが獄中にいる間に、新しくイエス様を信じて歩み始めたオネシモ。彼のことをピレモンに懇願しているのです。では、オネシモとはどういう人物だったのでしょうか。

彼の名前には「役に立つ者」という意味がありました。元々コロサイのクリスチャン:ピレモンの「奴隷」で、役に立つことを期待されていたことでしょう。ピレモンは裕福な人物で、集会を開けるほどの広さの家を持ち、オネシモを奴隷として彼の家に仕えさせ、住まわせていました。ところが、オネシモは大きな損害を与え、逃亡までしてしまったのです

伝承では「盗みを働いた」と言われていますが、真実は主だけがご存知でしょう。役に立つ者との名を持つオネシモですが、損害を与えた者と思われてしまいました。

しかし、パウロと出会い、オネシモは変わりました。まるで生まれ変わり、今はパウロから信頼され、コロサイ人への手紙では「忠実な、愛する兄弟」として紹介されています。

この手紙の10節を見ていただくと「獄中で生んだわが子オネシモ」と呼ばれています。パウロがオネシモのことを分け隔てなく愛し、奴隷であった背景など無視するかのように友として、わが子のように迎えていたことが伺えますね。パウロは問題児だったオネシモを見出し育てました。

そして今、コロサイのピレモンのもとに帰そうとしているのです。


 

2.ピレモンへの愛の懇願 

 
では、パウロは、壊れてしまったであろうピレモンとオネシモの関係を、どのように回復しようとしているのでしょうか。

この手紙によると、パウロはオネシモを、もはや奴隷としてではなく、愛する兄弟として迎えて欲しいと「愛の懇願」をしていることが分かります。信仰の友となって欲しいと期待しています。それは、キリストの福音がこのような人間的な制度や身分、立場を超えて一つとする力があることを信じているからです。

そして、その実現のために、パウロは喜んで自分の身を低くしています。8節には、「ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、」とあります。

立場的にはパウロは命令できる立場でさえあったのでしょう。しかし、パウロはオネシモとピレモンが結び合わされるために、自分を低くして懇願しました。命令した方が楽なのにそうはしませんでした。

なぜでしょうか。パウロは強制(命令)によっては友情は生まれず、愛からこそ、本当の喜びのある友情が得られると学んでいたからです。

パウロはこの愛ゆえに、自らを低くしました。同時にピレモンに優れた者として尊敬を払いました。

例えば、この手紙で、パウロは自分の事を「使徒」とは呼んでいないのです。パウロはほとんどの手紙では、むしろ自分をキリストの「使徒」と最初に名乗っています。しかし、ここでは「キリスト・イエスの囚人」と名乗ります。

1節でも、そして、9節でも繰り返しています。もちろん、彼はキリスト宣教のために捕らえられた囚人ではありました。ただ、捕えられていなかったとしても、彼はそう名乗ったのではないかと思うのです。「キリストのために不自由さでさえ、喜んで受け入れる」という意味で「キリストの囚人」と告白したのでしょう。彼はピレモンとオネシモの関係回復のために、自らを低くして献身したのです。

 その姿はキリストの姿に重なりますよね。主イエス様も自らを低くされ、十字架での死刑囚という立場にまでなられました。神であるお方が、そこまでしてくださり、懇願するようにして私たちの救いを願っておられます。強制ではなく、私たちの心の扉をノックしてそこで待ち続けてくださっているのです。まさに愛の懇願です。

4-57節では、ピレモンの人となりに触れながら、尊敬のことばをも示しています。

4節 私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。5節 あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。 7節 私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。 

パウロは厳しさを持っている人でした。しかし、その厳しさ以上に、主の深い愛を知っていた人です。こうしてパウロはピレモンに対しても尊敬を向け、ピレモンの愛と信頼の姿勢に期待をしています

 パウロはオネシモのことも、ピレモンのことも決して美化してはいないでしょう。また、過剰な期待とあり得ない理想を思い描いているのではないはずです。むしろ、パウロほど、人が誰もが弱く罪人であることを分かっている人はいないでしょう。誰もが罪深く、何度も失敗することを分かった上で、尚、オネシモを信頼して派遣する。ピレモンが素直に聞き入れない可能性もどこかに考えていたかも知れません。それでも、パウロはピレモンへの良い評価と信頼をことばにしながら、あなたなら私が思う以上にやってくれる!と期待を伝えています。
 

3.私たちが教えられること 
 
 確かに命令した方が早いことが多いかも知れません。形の上では、従わせることができるかも知れません。しかし、強制からは真の友情も、自発的なイキイキとしたその人の献身も生まれて来ないでしょう。

それどころか、強い態度は、相手の心を硬くしてしまいます。上から目線の指示は、反発を招きやすいでしょう。

パウロは、オネシモを受け入れて欲しいだけではなく、受け入れる側のピレモンも喜んで受け入れることができるよう、忍耐深く説得しようと試みたのです。教えられます。

「愛は多くの罪をおおうからです」とペテロの手紙第一4:8にあります。

力で従わせる道ではなく、愛によって人の心が動かされ、罪がおおわれていく。そんな交わりを目指したい。私は「人が生かされるキリスト教会」を常に目指したいと願います。用いられない人などいないからです。主の愛によって造られた尊い一人一人。その人々の豊かさ、良さが生かされて欲しいのです。

 オネシモは、ともすると、その傷、その劣等感、その罪悪感のゆえに、一生下を向いて生きるしかなかったかもしれません。でも、主の囚人なるパウロに見出されました。信じてもらえました。期待されました。そして、彼の主人であるピレモンと新しい関係を築いていくのです。私たちもそのように、人が立ち直り、育てられ、用いられていく交わりを築きたいと願います。失敗しても何度でもやり直せる励ましの場でありたいのです。倒れてそれでもう終わり、もう期待するのをやめようではなく、しばらく休んで、そこからまた立ち直って歩めるように支える交わりです。

私たちを通して、倒れていた人が起き上がり、その豊かさが引き出され、主にあって用いられていくことがあるなら、なんと尊い働きでしょうか。私たちは、人々を主の愛と真実のうちに取り戻すお手伝いをさせていただきましょう。



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