東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: イザヤ書53章6-7節「神の子羊イエス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/12/12

イザヤ書53章6-7節「神の子羊イエス」

*** 12/11(日)主日礼拝 説教概略 ***

イザヤ書536-7節「神の子羊イエス」 

 アドベント3週目を迎えています。クリスマスに降誕されたイエス様がどのようなお方であるのか。それを旧新約聖書からじっくりと教えられています。

今日のテーマは神の子羊としてのイエス様です。それにしても、なぜ、イエス様を「神の子羊」と呼ぶのでしょうか。それはイエス様こそ、人のすべての罪に赦しを与える「完全な犠牲」だからです。


かつて、旧約聖書の時代、人々は罪からのきよめのために、飼われている家畜の中から傷のない動物の犠牲をささげていました。特に、年に一度の「贖罪の日」には、大祭司が民全体の罪を覚え、罪の告白をしつつ、丁寧な儀式をもって動物の犠牲をささげたのでした。

現代でも、私たちが誰かに罪を犯し、傷つけてしまった場合、あるいは損害を与えてしまった場合、謝罪はもちろん、その弁償やお詫びの品を持参するということがありますよね。私も子どもの頃に、遊びの中で友達にケガをさせてしまった時に、親と一緒にお詫びに伺ったことを覚えています。

当時の人にとって家畜は大切な財産の一部であり、また自分たちの身代わりとしての意味を持っていたのです。しかも、そこらにいた野良動物ではなく、大切に飼われてきた傷のない最良の羊です。その家畜の頭の上に手を置き、罪の告白をするのですから、自分たちの罪の重さをどれほど自覚したことでしょう。

しかし、これらの可哀そうな動物の犠牲がささげられながらも、動物も大祭司も不完全で一時的なものゆえに、完全な永遠の赦しとはなりませんでした。

それゆえヘブル書10:3では、「ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。」とさえ説き明かされています。

 また、イエス様が神の子羊と呼ばれる背景に、出エジプト記にある「過ぎ越し」というものがあります。神様のご命令によって、羊の血をそれぞれの家の門柱と鴨居に塗ることで、神の死の裁きを免れる、過ぎ越すことができたのでした。この出来事を通して、イスラエルはエジプトの支配から解放されたのです。そしてそれ以降、これを記念して毎年「過越の祭り」を行うことになりました。

 ただ、贖罪の日の動物の犠牲も、過ぎ越しの祭りの子羊にしても、不完全なものでしたから、イエス様の十字架の犠牲がささげられるまで繰り返されて来たのです。

 けれど、主はクリスマスを用意し、ご自身の御子を「神の小羊」として備えられました。ただの一度の神の御子イエス様の十字架の犠牲で、全人類のすべての罪の赦しが永遠に渡ってもたらされたのです。みことばに聞いて参りましょう。

 

今日のみことばですが、「羊」ということばが3回登場しています。ただし原語ではどれも別の単語で表現されているのです。 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 

まず6節の「羊」は、特に「群れ」としての羊を表すことば(ツォン)です。羊飼いを失って彷徨っている「羊の群れ」のイメージです。導き手がおらず、どこに行けば幸せになれるか分からない集団です。その集団は行くべき道も統一されていませんから、ここにあるように「それぞれ自分勝手な道に向かって」歩んでしまいます。

羊って羊飼いがいないと結構、めいめいが勝手にフラフラと動いてまとまらないようですね。羊なだけにメェメェ勝手にです。

それゆに、しばしば迷子になり、行き止まりで立ち往生します。危険なガケからすべり落ちたりもします。豊かな牧草地へと思うようにたどり着けないのです。私たち人間はまさに「これが良い、これが正しい」めいめいが勝手に思い込んで歩み「人生の迷子」になってメェメェ泣いてしまうのですよね。しかし、神様はこのような迷える羊たちに心を留め、この不幸な歩みから救い出してくださるのです。

6節後半に「しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」とあります。

自分勝手に散々歩んで、お互いに傷つけ合い、多くの過ちを犯してきた人間。その人間の罪、咎を、彼に負わせたと言います。その彼こそは、クリスマスに降誕してくださったイエス・キリストです。

7節に、その姿があります。 53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 

彼は痛めつけられ、苦しんだ。それは私たちの罪を代わりに背負ってくださったからです。けれども、「だが、口を開かない。」とあるように何の弁明も言い訳もされませんでした。そして、「屠り場に引かれて行く羊のように」との例えがあります。ここに登場する「羊」とは、6節のことばとはまた別のことばです(シェー)。

こちらは羊の群れではなく、1匹の羊、単体の羊を指す場合に使われます。イエス様がただお一人ですべての羊たちの罪・咎を背負われたということを示すのかも知れません。また、英語では「lamb」と訳すこともでき、「子羊」を指す場合にも使います。羊の群れのために、ただ一匹の子羊が自ら犠牲になる姿がイメージできます。イエス様は私たち人間の隣人・友となり、その群れ全体の身代わりとして、ただ一人で十字架への道を歩まれたのです。

そして、7節後半では「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」とも語られています。今度は雌羊と訳されています。このことばは、女性の名前「ラケル」と同じことばです(英語:レイチェル)。イエス様は男性ですが、まるで「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように」静かに大人しく、十字架の苦しみを引き受けられたのです。本来であれば獅子のように強いイエス様が、か弱い雌羊や子羊のように、抵抗せず、静かに皆の身代わりの死を引き受けられた姿です。

こうしてみると、6節と7節で非常に対照的な羊の姿がありますよね。6節は罪人たちの勝手気ままにわめく姿。お互いにぶつかり合って、傷つけ合って悲鳴が聞こえてきそうです。一方で7節には静けさがあります。黙々と他の羊たちの身代わりになる姿です。何もつぶやかず苦しみに耐えて行く孤独なイエス様の姿がイメージできます。


私たちは今日「神の子羊」をしっかりと見つめたいと思います。愛する我が子をわがままな罪人のために「犠牲」としてささげられた父なる神様の痛み。ただ一人、誰からも理解もされずに十字架に向かわれた、主イエス様の痛み。私たちは知ろうとしているでしょうか。

つい自分のことばかりでいっぱいになる私たちではないでしょうか。イエス様が黙々と、私たちの身代わりとして歩まれているのに、そこに心を向けません。

アドベントは「待ち望みの時」との意味。でも、本当に人々はイエス様を待ち望んだでしょうか多くの人が無関心。宿屋の主人はお前たちに居場所はないと、イエス様を宿したマリアとヨセフを宿に泊めませんでした。ひっそりと馬小屋で生まれたイエス様を訪れた人々もごくわずかです。私たちはどうなのでしょう。イエス様を知ってさえも、6節の羊のように歩んではいないでしょうか。十字架にひかれて行く神の子羊に「ありがとう」とのことばもなく、自分のことばかりに終始してしまってはいないでしょうか?私たちは神の小羊を見つめているだろうかと問われます。

私事ですが、ここのところ胃痛に悩まされていました。その中で、自分が苦しいと自分勝手になる弱さを感じました。自己憐憫に陥り、こんなに大変なのだからもっと助けて欲しいと願うい、視野が狭くなって自分ばかり見ているのです。その時、私はイエス様の孤独や苦しみにもあまりにも関心が薄い自分であることに気づかされました。「苦しみのあまり死ぬほどです」と言われたイエス様に、あんなにも惨い十字架に架かられたイエス様に「ありがとう」との気持ちがあまりにも足りない。罪深い私たちがイエス様を十字架につけた張本人なのに。自分のわずかな痛みのゆえに、他の人への愛が失われる自分。主を見つめなければならないと示されるのです。

ヨハネの福音書1:29をお開きください。29節 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。

バプテスマのヨハネはイエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言ったのです。まさに、私たちがいつでも見つめるべきお方は、神の子羊なるイエス様です。イエス様は「過ぎ越しの祭りの季節」に十字架につけられ、多くの血を流して罪人の身代わりに死なれました。イエス様ご自身が「過ぎ越しの子羊」となって、ご自分をささげられたのです。世の罪を取り除くためにです。

 ある人は、ただ信じれば救われるなんてキリスト教は都合が良すぎると言います。でも、少しも都合良くないのです。神様に罪を犯した私たちが、本来は多くの犠牲を払って償いをしなければならないのです。けれども、あまりにも毎日多くの罪を繰り返しており、私たちがどんなに良い行いをしようと、何を神様にささげようと、この罪を帳消しにできないのです。ずっと動物の犠牲は繰り返されたのです。私たちにはできない。だから、神様の方で絶対な犠牲を用意されました。神の御子のいのちです。人にとって都合が良く見えるだけであって、神様からしたらこれ以上ない、最大の犠牲を払って神の子羊イエス様を用意してくださったのです。





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