東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書1章1-11節「むなしさと向き合う」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/04/24

伝道者の書1章1-11節「むなしさと向き合う」

*** 4/23(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書11-11節「むなしさと向き合う」

 皆さんは、歩みの中でむなしいと感じることがあるでしょうか。中には、むなしさの中で求道され、イエス様を信じるようになった方もいらっしゃると思います。実は、私たちの心は「むなしさ」を感じることことができるように神様によってデザインされています。それはパスカルが言った格言「私たち人間の心には、神のかたちをした空洞がある」とのことばにも通じます。

 ですから、「むなしい」と感じた時、それはある種の「サイン」であると言えます。何かが足りていない。何かが違っている。そこに気づけるチャンスです。

 今日開いている伝道者の書。この書は聖書の中で最もむなしさに満ちています。「え?聖書にそんな書があるのですか?」と驚かれる方もいらっしゃるかも知れません。私も初めて読んだ時、こんなに変わった書、面白い書が聖書にはあるんだ!?と思ったものです。私の感じたむなしさをまるで代弁してくれている!と。ニヤニヤしながら読んだ書です。とても根暗な私ですね(笑)。こんなむなしさの書、誰が書いたのでしょう。

1節で著者の自己紹介があります。エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことばと。私は素直にソロモンが著者と理解して良いと考えていますが、ある人々は実際の著者はソロモン自身ではなく、後の時代の人が著者だと言います。けれども、その場合でも、ソロモンの記録を基にして編纂したと考えられており、いずれにせよソロモン由来の著作だと言えるでしょう。ですから、ほぼソロモンと理解して良いのではないでしょうか。

そして何よりも大切なことは、その背後で導かれた神様こそが真の著者であり、現代の私たちに主が語り掛けておられるということです。そして、ソロモンほどの栄華を極めた王様。ありとあらゆる快楽を楽しみ、あらゆる事業に手を出す日々を送った人物が、「どれほどの物を所有し、できることをすべてやったとしても、神様とともにいつまでも残るもののために生きるのでなければ、何をしてもむなしい」のだと語っているのです。なぜむなしいのか。そして、どうしたら満たされていくのでしょうか。


1.日の下のむなしさ 
 
 冒頭2-3節でこのように語られています。

2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。3 日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。

「空の空、すべては空」。とてつもなくインパクトのある表現ですね。「空」と訳されたことばは、元々は「蒸気、息」を表すことば。そこから「むなしさ、無益」などの意味で使われています。そして、「空の空」という言い方は、ヘブル語の最上級の表現です。これは「King of kings(王たちの中の王)」といった言い回しと同じ。直訳では「むなしさたちの中のむなしさ」ということで、「超むなしい」と言っているわけです。

「この世界では、どんなに頑張っても何の益にもならない!超むなしい!」と言うのです。

 ただし「そんなことはない!」と思う方も多いでしょう。

少なくともキリストを信じている皆さんなら、そんなことはない!と思われるでしょう。しかし、クリスチャンだとしても「むなしい」と感じることがあるんじゃないでしょうか

そう感じた時は、何かがずれている。どこか神様のみこころから離れている。そのことに気づき、立ち返るべき時です。それは3節で「日の下でどんなに労苦しても」とあることに目を留めることで気づきます。

これらは日の下、つまりこの地上の価値観のみで、永遠の神の国を見ることなく生きるならむなしいということです。この世の見える物がすべてという価値観で労苦するなら、やがて消え去るのだから、むなしいと言うわけです。この「日の下で」ということばは、この書で何度も登場します。そのたびに、「神様なしに」という意味を意識するといいでしょう。

実際に、日の下だけで、神様なしに歩むのならば、どのようにむなしいのでしょうか。

4-7節では、この世界の物が昔からひたすら繰り返され、たいした変化もないと言います。

4 一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。5 日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。 

 この世界は、毎日ただの繰り返しではないかと言います。時代も繰り返す。そして、太陽も、風も、水も、ただ同じことを繰り返している。その仕組みが劇的な変化をするわけでもない。

 そのようなところに立つ時、8節にあるようにすべてのことが物憂いのです。つまり退屈でうんざりしてしまうと言うのです。

 さらに、続く9-11節では、新しいものを生み出せない、発見できないむなしさが語られています。マンネリです。実に、新しいと思えることさえ、所詮過去の焼き直し、過去に既にあったことがほとんど。それは今から数千年前、この書が書かれた時点でもそう思えたのです。現代なら尚更ですね。

 これは研究者の方々は痛感していることでしょう。「これこそ世紀の大発見だ!」と思ったのに、既に誰かが発見しているのです。神学生の頃に卒論を書く機会がありました。自分で調べて新しい発見をした気がして嬉しくなります。ところが、先生から「ああ、誰々が言っていたね」と聞いてガッカリするのです。

 また、仮にすばらしい発見をし、良い成果を残したところで、いつまで人の記憶に残るでしょうか。11節にあるように、人の記憶などいい加減ですぐに失われます。ですから、これは新しい!と思えても、それは単に記憶されていなかっただけということも多いのです。

 妻は、昔観た映画やドラマを記憶から自動消去する能力を豊かに備えています。以前に観た作品でも、まるで初めて観るかのように新鮮な気持ちで楽しめるという、優れた賜物があるのです。私はよほど好きでないと中々繰り返し観れませんので、少しうらやましい。

 もしかしたらメッセージも?
 試しに10年前の説教原稿をまるまる語ったらどうでしょう(笑)。

 新鮮に聞けたら、それはそれで語った者としては、なんとむなしいことか!と。かく言う私も自分が語った過去の説教を案外覚えていないのですよね。

 結局、私たちは、忘れながらひたすら同じことを繰り返しているのではないでしょうか。

 冷静にそう考えると、ただの繰り返し。頑張っても忘れられるし、残らないし、世界も変わらないしと・・・むなしくなるというわけです。


2.キリストにあって新しく生まれた者 
 
 けれども、キリストにあって新しく生まれる時、これらはまるで変っていきますキリストを信じた者は新しく生まれると聖書は教えます。すべてが新しくなると。内側から造り変えられ、人間的な基準ではなく、神の視点で世界を見られるのです。信じないで読む聖書と、信じて新しく生まれてから読む聖書では、見える景色が変わります。同じ説教を味わうにしても、自分が置かれている状況、タイミング、成長度合いによっても変化します。聖書は、実は、世界が変わる必要があるのではなく、あなたが変えられる必要があることに気づかせてくれるのです。 

私たちが変えられて行くと、むなしいどころか、豊かな主のみわざが毎日のように新鮮にそこにあると知るのです。

ヨハネ3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 

新しくということばは、「上から」という意味もあります。日の下で生まれた私たちですが、神の上からの力によって生まれる者は、新しくされ神の国を見る者へと変えられていきます。この世界に始まっている神の国を発見できるのです!神の新しいみわざを見る者となります。朝ごとに新しい主の恵みを見いだす者へと変えられていくのです。

私はキリストを知って、これを体験してきました。見える景色がどんどん変化していくことに気づきました。嬉しいことです。ある日の出来事は象徴的です。夜眠れませんでした。思い返してみると、コーヒーを飲み過ぎたのですが・・・けれども、教会の将来のこと、会堂建設のことも真剣に考えすぎたのも事実でした。私なりに悩み葛藤し、それこそ頑張っていても心満たされないむなしさのようなものを感じていたのです。眠れないので、夜中にずっと聖書を読んでいました。あるみことばに目が留まりました。

ミカ書6:8でした。当時読んだままの以前の訳でお読みします。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。 

特に、神が求めている良いことの中心は、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないかと。 私は働きのことを一生懸命考え、教会のことをいつも考えて歩んでいました。ところが、神様のことを考えていなかった。主イエス様がとなりにいるのに、その存在を喜べていなかった。主が牧師としての良い成果や良い報告を求めておられたのではなく、私自身が神様とともに歩むことを求めておられたのです。

最初から私自身を求めてくださっていたのだということを知りました。何かを成し遂げなければと、もがいていた私でした。しかし、神様のご愛を新しく知らされた時、涙がとめどなく流れました。そのまま朝を迎えました。朝焼けが見える頃カーテンを開け、ベランダに出ました。カーテンを開ける前の私の想像では、こんな素晴らしい体験をした日の朝焼けは最高だろう!きっと空も快晴だろう!というもの。

しかし、我が家のベランダは南西を向いているので、東から上る太陽の朝焼けはほぼ見えませんでした。では、空を見よう!と見上げました。すると、あまりにもどんよりとしたとてつもなく黒い雲です。今にも降りそうです。

ところが・・・不思議です。

さわやかな朝日も見えず、どんより黒~い雲しか見えない。なのに、そこに驚くほどの神様の偉大さ、創造の素晴らしさが感じられました。なんてすばらしい天気なのだ!と。雨が降りそうなのにハレルヤ!と思わず言いたくなりました。深い感動がありました。世界の見える景色は変わっていないのです。いつも以上に憂鬱になりそうな朝です。でも、私の心の曇りが晴れた時、何を見てもそこに神様の素晴らしさが見えました。

 世界が同じことの単調な繰り返しで、むなしく退屈だと思うのは、世界のせいではないのです。私たちの心が鈍くなっているゆえです。

 信仰の戦いの現場にある方が、「奇跡は毎日起きている」と言いました。本当は毎日、神様のみわざが数えきれないほど起こっている日々なのです。けれども、世界を単なる物理現象の繰り返しとしてしか見られない、私たちの心の貧しさ。神の恵みのみわざに鈍感になって、漫然と過ごす日々のゆえに見えない。見逃し続けているのです。

だから主イエス様は、「わたしについてきなさい」と言われました。この世のものを後にして、イエス様に従う者こそ、イエス様の大いなる恵みのわざを日々見させていただけるのです。聖書を読むときに、どこでみわざが起こっているのでしょうか?? 

イエス様がおられるところ、イエス様を信じて従った人々のところです。

ただ、口を開けて恵みを放り込んでくださいとボーっとしているだけでは何も起こりません。律法主義的に奉仕をしなければならないとは申し上げません。

でも、神の国のためにあなたが出来ること。そこに、身も心もささげてみて下さい。

そこには戦いも必ず起こります。しかし、それ以上の主のみわざを必ず味わい、恵まれるはずです!

 いつの間にか、自分に仕えていませんか。それなら満たされないはずです。むなしいはずです。主の恵みの場に身を置きましょう!日の下ではなく、神のもと、イエス様のとなりで仕えさせていただきましょう! 



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