東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネ21:16-22「ペテロを導く主イエス」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/04/21

ヨハネ21:16-22「ペテロを導く主イエス」

 *** 4/19(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨハネ21:16-22「ペテロを導く主イエス」

イエス様を3度否定してしまったペテロ。しかし、復活された主イエスは、ペテロの前に現れ、語りかけ、新しい宣教の使命を与えようとされています。弱さを抱え、大きなしくじりをしてしまった者をも・・・いえ、そういう者だからこそ用いてくださる主イエス様です。

イエス様は再びペテロに問いかけました。
ただ、15節とは少しずつ違っています。

21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

 この16節では、直前の15節にあった「この人たちが愛する以上に」ということばが消えています。これはある意味では、イエス様のテストであったのかも知れません。ペテロがそのことばには触れず、他の人のことは関係なく「ただ私があなたを愛していることは、あなたが知っていてくださいます」とだけ、謙虚に答えました。

「他の人より自分の方がずっと愛しています!」などと答えなかったのが良かったのではないでしょうか。

 誰と比較するでもなく、ただ自分が精一杯主を愛すればそれで良いのです。

それでイエス様は、今度はただ「あなたはわたしを愛していますか」とだけ問います。

こちらに関しては2回目の質問です。ペテロはこの時、どう思ったのでしょう。なぜ「わたしを愛していますか」と、繰り返し問いかけるのだろうか?と戸惑ったかも知れません。愛せなかった自分を思い起しながら、それでも主について行こうと思いながら。

 しかし、2回では終わりませんでした。ついにイエス様は3度、尋ねました。17節です。

21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 

 ここでは、ペテロが心を痛めながら答えたことが分かります。その理由は、イエス様が3度も「わたしを愛していますか」と問われたからでした。ペテロが3度、主イエス様を知らないと関係を否定してしまったゆえに、主イエス様は「わたしを愛するか」と3度も繰り返したずねたのでしょう。

これは決して意地悪ではないのです。

主イエス様がペテロを深く愛するゆえでした。

彼が立ち直り、新しい使命のために前を向くために必要な彼の告白、決心でした。

「霊的リハビリ」と言ったら良いでしょうか。彼の口から「主を愛している」ことをハッキリと告白させたあげることが、彼のために、これからの働きのために必要でした。

私たちも教えられます。つまずいた時、主を裏切ってしまうようなことをしてしまった時、それと同じか、それ以上に、主を愛していけばいいのだということです。しくじったことをずっと引きずることを主が願っているはずがありません。そうではなく、そこから立ち上がって、今まで以上に主を愛し、主に仕えていくことこそ、主が喜ばれることです。

 

尚、イエス様の「愛しているか」とのことばは、原語では「アガパオー」ということばです(名詞はアガペー)。神様のご愛を表現することばですが、ペテロは同じことばで応じることはできず、一般的には人間同士の友情などを表す「フィレオー」ということばで応じました。様々な解釈、意見のある個所です。

その違いにたいした意味はないとする学者もいます。そもそも会話はアラム語でなされ、その翻訳でギリシャ語にしているのだからと。

しかし、ヨハネはとても詩的な表現をする人。ことばに敏感な人に思えます。イエス様とペテロの会話を現場で見たはずのヨハネです。その時のニュアンスをよく分かっていたことでしょう。ですから、ここにはやはり使い分けの意図があると思います。

私はこのように考えます。

ペテロは決してイエス様と「同じ愛」で愛する気持ちがなかったのではなく、愛そうと思ってもできない自分を知ったということです。

アガパオーで表現されるような、神様と同じ愛「無償の愛」「いのちをささげるほどの愛」で愛していきたい。でも、イエス様を3度も否んでしまった自分を知っています。ですから「フィレオー」に表現されるような人間の愛をもって、自分の精一杯を表現したのでしょう(実際はアラム語の会話だとしても、著者がそれを訳し出しているのでしょう)。

この「アガパオーという愛」を、私たちも自分の内から絞り出すことはできないのではないでしょうか。「愛するか」と問われても、その愛はどこから来るのでしょうか? 

実は、その愛さえも主からいただき、いただいた愛で私たちは愛していくしかないのです。でも、それこそが私たちに主が求めておられる仕え方なのではないでしょうか。

主の愛を感謝して受け取り続け、主の愛を生涯学び続けていく必要があるのです。その愛をもって主と隣人を愛していく者へと、少しずつ変えられて行くのが信仰の旅路です。そして、それこそが、主の羊を養うのに最も大切なことではないでしょうか。


そして、イエス様はもう一つ、ペテロにとって大きなことをおっしゃいました。18節です。

18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」  

これは19節にあるように、ペテロがどのように最後を迎えるのかを示したことでした。若い頃は自由に動き回れたけれども、晩年、彼は捕らえられ、望まないところに連れて行かれて、殉教していくということでした。

19節では、ペテロの死に様が神の栄光を現すと語られています。ですから、イエス様を知らないと否定したペテロでしたが、彼は変えられて行き、最後はまさにイエス様のために死を迎えるのだということです。
 それでもペテロにとって、これはショックだったかも知れません。それゆえでしょうか。ペテロはある人物のことが気になりました。人の本質はそうそう急には変わらないのだとも気づかされます。ペテロにはまだ、他の人と比べる弱さが残っているのです。20節にこうあります。

20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。 

 ここにある「イエスが愛された弟子」というのがこの福音書記者のヨハネだと考えられます。ペテロと同じようにイエス様と最も親しかった弟子のひとりのです。ペテロと競い合って、お互いに意識し合っていた弟子と言えば、このヨハネです。

ヨハネもペテロを意識していたと思えるような描写がこの福音書にはいくつか見られます。ペテロは、自分が迫害され殉教の死を遂げることを告げられ、ヨハネのことが気になりました。21-22節 

21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」 

 イエス様は、誰かだけを特別に愛しているということはありません。神様にえこひいきはありません。イエス様がヨハネの長寿を願うのは当然であって、それはペテロや他の弟子でも同じはずです。ただ、それぞれに、異なる主の召しがあります。

イエス様はペテロに新しい使命を与えました。ですから、「後ろを振り返って、あの人はどうですか」と言っているペテロに、しっかりとご自分の方に向くようにおっしゃったのです。ここではわざわざ「あなたは」という人称代名詞を入れて、そこを強調しています。

余所見をしていないで、他の人ばかりを見ていないで、あなたの主であるわたしを見なさい、そしてわたしに従いなさいとイエス様は言われるのです。 

私たちはあまりにも他の人々を見過ぎている気もします。他の人の事が気になっています。ねたましく思えたり、他の人のことを心配しすぎたり。特に近い世代や境遇が似ている者同士は比べてしまいがちです。気になります。劣等感がある人ほどそうでしょう。

 けれども主は、周囲ばかり見ている私たちに向かって、他の人の事はいい。「あなたはわたしに従いなさい。」と、ご自身を見つめ続けるよう招いておられるのです。主の愛を受け、主の愛に生きるようにと召しておられるのです。



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