*** 4/19(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨハネ21:16-22「ペテロを導く主イエス」
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
それでイエス様は、今度はただ「あなたはわたしを愛していますか」とだけ問います。
こちらに関しては2回目の質問です。ペテロはこの時、どう思ったのでしょう。なぜ「わたしを愛していますか」と、繰り返し問いかけるのだろうか?と戸惑ったかも知れません。愛せなかった自分を思い起しながら、それでも主について行こうと思いながら。
しかし、2回では終わりませんでした。ついにイエス様は3度、尋ねました。17節です。
これは決して意地悪ではないのです。
主イエス様がペテロを深く愛するゆえでした。
彼が立ち直り、新しい使命のために前を向くために必要な彼の告白、決心でした。
「霊的リハビリ」と言ったら良いでしょうか。彼の口から「主を愛している」ことをハッキリと告白させたあげることが、彼のために、これからの働きのために必要でした。
私たちも教えられます。つまずいた時、主を裏切ってしまうようなことをしてしまった時、それと同じか、それ以上に、主を愛していけばいいのだということです。しくじったことをずっと引きずることを主が願っているはずがありません。そうではなく、そこから立ち上がって、今まで以上に主を愛し、主に仕えていくことこそ、主が喜ばれることです。
尚、イエス様の「愛しているか」とのことばは、原語では「アガパオー」ということばです(名詞はアガペー)。神様のご愛を表現することばですが、ペテロは同じことばで応じることはできず、一般的には人間同士の友情などを表す「フィレオー」ということばで応じました。様々な解釈、意見のある個所です。
その違いにたいした意味はないとする学者もいます。そもそも会話はアラム語でなされ、その翻訳でギリシャ語にしているのだからと。
しかし、ヨハネはとても詩的な表現をする人。ことばに敏感な人に思えます。イエス様とペテロの会話を現場で見たはずのヨハネです。その時のニュアンスをよく分かっていたことでしょう。ですから、ここにはやはり使い分けの意図があると思います。
私はこのように考えます。
ペテロは決してイエス様と「同じ愛」で愛する気持ちがなかったのではなく、愛そうと思ってもできない自分を知ったということです。
アガパオーで表現されるような、神様と同じ愛「無償の愛」「いのちをささげるほどの愛」で愛していきたい。でも、イエス様を3度も否んでしまった自分を知っています。ですから「フィレオー」に表現されるような人間の愛をもって、自分の精一杯を表現したのでしょう(実際はアラム語の会話だとしても、著者がそれを訳し出しているのでしょう)。
この「アガパオーという愛」を、私たちも自分の内から絞り出すことはできないのではないでしょうか。「愛するか」と問われても、その愛はどこから来るのでしょうか?
実は、その愛さえも主からいただき、いただいた愛で私たちは愛していくしかないのです。でも、それこそが私たちに主が求めておられる仕え方なのではないでしょうか。
主の愛を感謝して受け取り続け、主の愛を生涯学び続けていく必要があるのです。その愛をもって主と隣人を愛していく者へと、少しずつ変えられて行くのが信仰の旅路です。そして、それこそが、主の羊を養うのに最も大切なことではないでしょうか。
そして、イエス様はもう一つ、ペテロにとって大きなことをおっしゃいました。18節です。
イエス様はペテロに新しい使命を与えました。ですから、「後ろを振り返って、あの人はどうですか」と言っているペテロに、しっかりとご自分の方に向くようにおっしゃったのです。ここではわざわざ「あなたは」という人称代名詞を入れて、そこを強調しています。
余所見をしていないで、他の人ばかりを見ていないで、あなたの主であるわたしを見なさい、そしてわたしに従いなさいとイエス様は言われるのです。
私たちはあまりにも他の人々を見過ぎている気もします。他の人の事が気になっています。ねたましく思えたり、他の人のことを心配しすぎたり。特に近い世代や境遇が似ている者同士は比べてしまいがちです。気になります。劣等感がある人ほどそうでしょう。