*** 4/16(日)主日礼拝 説教概略 ***
レビ記19章32節「子どもからお年寄りまで(2)」
「子どもからお年寄りまで(2)」という説教タイトルですが・・・
先月は同じテーマで、その前編ということでお話しました。
その時には、おもに子どもたちを礼拝に招くということで語らせていただきました。
親自身も子どもたちが礼拝に出られるように、日曜日に向かって備えていきます。騒いでしまう場合には一時的に礼拝堂の外に出ることも必要ですが、礼拝に一緒に出られることを目指し、大切にしていきましょうということ。しかし、決して親御さんだけの責任にしない。教会の子どもたち、私たちの子どもたちなのだという理解を持つのです。子育てや信仰継承に皆で協力してやっていくということ。責めるのではなく、助け合い、担い合う交わり。そして、礼拝の場にいさせてあげることによって、私たち大人が心から礼拝する姿を示していこうということです。そして、泣いているあの声が、やがて主への賛美の声に変わるのだと信じて、楽しみにしていきたいのです。
今日はその続編です。神様は幼子たちだけではなく、年配の方々や様々な弱さを持つ方々とも一緒に、神の家族として礼拝するよう招いておられるということを教えられます。子どもからお年寄りまで、一緒に集まり神様を仰ぎ見る。それがキリストの教会です。そのために、神のみことば「聖書」から教えられていきましょう。
レビ記19:32あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
白髪の老人の前では、起立し、敬いなさいとあります。また、箴言16:31では「白髪は栄の冠。それは正義の道に見い出される。」同じく箴言20:29でも「若い男の栄誉は彼らの力。老人の輝きはその白髪」とあります。しばしば私たちは白髪というものを必ずしも歓迎しないかも知れません。私も以前より白髪が目立つようになった時、あまり快くは思えないことがありました。ところが、神様は決してそのようにはおっしゃっていないのです。
むしろ、「白髪は、よく頑張って来た勲章ですよ!」と言わんばかりに、白髪は栄光の冠、敬意を払うべきものなのだと教えておられます。
第一テモテ5章1-2節にこうあります。まだ若い牧師テモテに対して、先輩のパウロが教えている手紙です。
年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。
若い人への接し方だけでなく、年配の男女への接し方についても勧めています。最初に「年配の男の人を叱ってはいけません」とあります。「何をしてるんだ!」と叱るのではなく、「こうしてはどうでしょうか」とお勧めやご提案をするのです。
もちろん、「年配の男の人」と語られているからと言って、女性には厳しく叱って良いという意味はありません。「母親に接するように」とありますから、感謝をしながら優しくお勧めし、あるいは助けて差し上げるということでしょう。
同じ文脈の後半には「あなたの神を恐れなければならない」と語られています。老人に敬意を払うことと、神様を恐れること。それを併記しているのですよね。
つまり、年配者を敬う事と、神様を敬う事は無関係ではないということではないでしょう。そもそも、私たちがお年寄りを敬うのはなぜなのでしょうか。基本的なこととして、自分よりも長く生きておられるということですよね。より多く労苦され、より多くの経験を通っておられます。彼らが開(拓)いてくださった道を私たちは歩ませていただいているのです。それゆえに年配者に敬意を感謝と敬意を払うことは、ある意味当然です。
そして、そうであるならば!誰よりも長く生きて、誰よりも良いわざをもって労しておられる神様に、心からの尊敬をもって恐れ敬うことは、当然のことではないでしょうか。神様ほど時間をかけて私たちの生きる道を備え、整えてくださった方はいません。ですから、「神様を愛しています」と言いながら、ご年配の方に冷たいということは筋の通らない話になります。神様を心から愛するならば、ご年配の方々に敬意を払うのです。
もちろん、心身ともに大事にしていただきたいのです。けれども、使命感や目標を持つ老人は、確かに認知症になりにくいと言えるでしょう。年配者がいつまでも神様からの使命を持って、信仰に燃えている姿は、若者たちを引き上げてくれます。 時々家族で話します。教会の年配の皆さんは、本当に元気だよねと。あのように年を取れたら!と尊敬の心です。もちろん、実際は色々弱さがあるはずです。けれど、やはり輝いている!魅力がある!10代、20代の若い者たちが見て、そう感じているのですからすごいことです。
確かに体は動かなくなっていきます。記憶力も衰え、思うように言葉が出ないこともあるでしょう。教会に来るのがやっと、いや、教会に来られないことも増えるかも知れません。それでも、決して欠けて良い人などいないのです。主は最後まで、あなたに期待しています。来られない方、奉仕の力がない方も、教会のために祈っていてください。何かができなくても、主の教会、そこにいる者たちを、愛し祈っていてください。それで本当に支えられているのです。
私は祈りの支えをいつも感じています。正直、弱い自分がここに立ち続けられるのは奇跡です。でも、その奇跡が成立しているのは、弱さを抱えながらも祈り続けてくださる皆さんのゆえです。 こうして、色々な立場の人が、自分のできることをささげ助け合う交わり。神の家族は、何よりも尊い宝物です。これを大事にし、ますます磨いていきましょう!