東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨハネの福音書 21章15節「主イエスの牧会」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2023/04/14

ヨハネの福音書 21章15節「主イエスの牧会」

 *** 4/12(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨハネ21:15「主イエスの牧会」

私たちの人生には挫折がつきものです。ただ、その挫折で倒れ伏してしまい、そこから立ち直れないままになってしまう事は避けたいものです。私たちは挫折で終わらせないためにも、そこにも「主の良いご計画がある」ということを知りましょう。

その時、その経験が自分にとって必要な「大切な過去」の一部となることでしょう。今の自分があるのは、あの時の経験があるからだと言えるように。

ペテロにとって三度イエス様を否むことは、人生最大の汚点でありました。しかしながら、神様はそれを豊かに用いて益とされ、彼の人生に大きな恵みをもたらしたのです。キリストは立ち直らせてくださるどころか、これまで以上に良い働き手として下さいました。

 


1. イエス様の不思議な問いかけ

 
三度イエス様を知らないと否定し涙したペテロでした。しかし、死から復活したイエス様と出会い、彼は大きく成長していくことになります。イエス様とペテロのやり取りは印象的です。ペテロに対する「主の牧会」を見ることができます。15節をご覧ください。

15節 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」 

まず、注目したいことはペテロへの主のことばです。

「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」

このイエス様の問いかけについて、皆さんはどう思いますか。この人たちとは、そこにいた他の弟子たちでしょう。私は「この人たちが愛する以上に」とのことばは必要だったのだろうかと少し疑問に思わないでしょうか。

「彼ら以上に愛するか」なんて、なぜ問う必要があったのでしょうか。

しかし、実は、ここにこそイエス様のペテロに対する深い愛が現れていると思うのです。これは、ペテロに深い関心を寄せるイエス様が、彼の課題を特に意識してなさった問いではないでしょうか

以前の彼はどのような人だったでしょう。
それこそ、いつも他の弟子との比較に心を奪われていたのです。彼は、自分こそが他のどの弟子よりもイエス様を愛している一番弟子だ!という自負がありました。

弟子の中で誰が一番偉いかという議論の中心にいた人物でしょう。マタイ2633にペテロのことばがあります。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」と。私だけは何があってもつまずかない!そういう思いでていたのです。

このペテロのことばと思い・・・イエス様は心にかけておられたのでしょう。

 イエス様を三度否定してしまう弱さよりも、むしろ「俺は他の弟子より優れ、誰よりイエス様を愛している!俺だけはイエス様を裏切らない!」という傲慢こそ、彼の最大の欠点だったのではないかと思うのです。

否定してしまった弱さは、主を求める機会になります。弱い者だから助けてください!と求めることができます。しかし、私だけは大丈夫という思い上がりは、神の力を求めなくなってしまうので、最ももろく危険なのです

得てして、このような人物は、その情熱のあまり他の人への尊敬や配慮を失いがちです。「自分こそが!」という情熱のゆえに、他の人も同じように一生懸命であることを見失い、弱い人を置き去りにしてしまいます。

おそらく、劣等感から来る強い承認欲求のゆえでしょう。必死に頑張りますが、思うようにいかず認められていないと非常に落ち込みます。挫折や失敗に弱く、浮き沈みが激しくなりがちだと言えます。

ともすると私も、無意識のうちに「自分は大丈夫、自分はあの人たちとは違う」という優越感に身を置こうとする自分に気づきます。優劣を比較し合うことが、主の愛の前にむなしいものであると分かっているのに・・・です。

 しかし、主イエス様の牧会的配慮から本当に教えられ、慰められるのです。

 このような欠点を持つペテロが、これから用いられて行くと主は確信しておられるのです。そして、そのために必要な「取り扱い」を、この場面でされたのです。


2.変えられたペテロ 

 
ヨハネ2115節に戻ります。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」

 この問いかけへの応答によって、ペテロの成長が見られます。

 以前の彼とは違っている面が見られるのです。15節後半で、ペテロはどう答えているのでしょうか。

「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と彼は答えます。

 以前のペテロであれば「当然です!私のあなたへの愛と信頼を疑うのですか?」と憤慨して答えたかも知れません。あるいは「私こそは、他の誰よりもあなたを愛しています!」と答えたかも知れません。

 しかし、まるで違っていましたね。

「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」

とても謙虚に応答しています。

自信がなさそうに見えるかも知れません。

けれど、自分をやたら信じるよりは、自らの弱さや愚かさを知って、神に助けをより頼む者の方がよほど賢く、また人として信頼できるのではないでしょうか。

ペテロは確かに大きな失敗をしました。しかし、その失敗がむしろ、彼にとって大きな成長の機会となりました。

未熟ながらも・・・私があなたを愛していますことは、主よ、あなたが知っておられますと。イエス様がすべてをご存知である神の御子であることに心から敬意を払っています。高慢な物言いをせず、ただ主の前にへりくだっているのです。


3.新たな使命 

 イエス様はこう答えたペテロに対して、「わたしの子羊(たち)を飼いなさい」と命じられました。

 これはわたしの弟子たちをわたしと同じように、しっかり養い育てなさいとの使命です。

 まさにペテロは主の牧会を、今この瞬間にも受け、回復させていただきました。

 それどころか豊かに育てられ、これから派遣されようとしているのです。主は、こうしてペテロに牧会の召しを与えられました。


 ただ、皆さんの牧会者、牧師に対するイメージはどうでしょう。

「牧師が、イエス様を三度も知らないと強く否定してしまうなんてあり得ない」

 というイメージではないでしょうか。あるいは・・・

他の信徒が倒れても、牧師だけはそうならない!それこそ牧師!」というイメージを、多くの方が持っているのではないでしょうか?

でも、そうではありません。「このような過ちを犯してしまった、仕えるべき相手のイエス様を三度も否定してしまったアナタだから、牧会せよ!牧師になれ!」と主は言われているのです。


イエス様は、立派な強い人を招き用いるのではありません。

このように弱い者、小さな者、ごく普通の取るに足りない者を主は召して、その大いなる働きを任せてくださるのです。弱さのうちにこそ、主の力が働くのです。次のみことばを味わいましょう。

ヘブル5:2 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。 

 ここでも、自分自身弱さを身にまとう大祭司だからこそ、迷える子羊たちに優しく接し、彼らの弱さを理解してとりなし、彼らを助けることができるというのです。そう考えると、むしろ、以前のままのペテロが牧師になる方が、ずっと恐ろしい気がしますよね。「自分こそ誰よりも!」なんて言い切る人は、きっと信徒にも強さを求め、その弱さに寄りそうことが出来ないでしょう。

 私も、自分の力と頑張りで伝道しよう、牧会しようと思っていた時、本当にうまくいかないと感じてきました。こんなに頑張っているのに・・・と。けれど、何度も失敗し、挫折をする中で、主によって私が変えられていきました。

「教会をなんとか良くしたい」と思って取り組んできたものの、むしろ取り扱われるべきは自分自身でした。

 自分が主によって良き者へと変えられて行くことが、主の道でありました。そうして、自分自身が取り扱われることを通して、不思議と教会も少しずつ豊かにされてきたように感じます。

 牧師に限らず、すべてのキリスト者に、それぞれにふさわしい配慮を持って養い育ててくださるイエス様です。様々な失敗、挫折を通して取り扱ってくださる主に目を注ぎましょう。この方の牧会の中でともに育てられていきましょう。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *