東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱコリント4:16-18 「見えないものを大切にしていく豊かさ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/04/25

Ⅱコリント4:16-18 「見えないものを大切にしていく豊かさ」

*** 4/18(火)ほっとカフェ講演 *** 豊かな人生シリーズ

「見えないものを大切にしていく豊かさ」

 これまでしばらくの間「心のケアと人間関係」というテーマでお話して参りました。年度も改まり、少し変化があってもいいということで、今年度は「豊かな人生シリーズ」というテーマでお話します。私たちの心が豊かにされていく、そのために必要な神様のおことばを、できるだけ分かりやすくお伝えしていきたいと考えています。

今日は、その第一回目ということで、「見えないものを大切にしていく豊かさ」について、一緒に教えられ考えていきましょう。

最近こんな話を読みました(デイリーブレッドより)。

ある海外の教会で新会堂を建設した時、まだ内装工事をする前のコンクリートむき出しの時に、みんなで神様への感謝や賛美のことばを書いたそうです。なので、壁板をはがすと、その中には「あなたは良いお方」といった神様への感謝や賛美、みことばがあると言います。

ただ、普段は見えないのです。見えないけれども、いつもそこに神様への感謝と賛美がある。それを意識して歩めるということです。その話を聞いて、とても素敵だなぁと思いました。それらは誰かに見せるためにあるのではないわけです。

「いつも神様に感謝していてすばらしいですね」と褒められるためにあるのではない。賛美に満ちていて立派な教会(信徒)ですねと評価されるためでもない。見えない、より深いところに神様への感謝と賛美を抱いて歩んでいるということで、とても豊かだなと思いました。

そして、また少し違う視点ですが・・・。私たちの人生において、実は見える部分より見えない部分の方が多くあるように思います。自分の中で考えていること、思っていることの多くは、心の中に納められたままです。聖書の中に、信仰者は「見えるものが、見えないものからできていることを悟っている者である」と語られています(ヘブ11:3)。よーく考えてみると、見えるものの背後には、実は見えない大切なものが必ず存在しているのです。

例えば、牧師の働きも、見えない部分の方が圧倒的に多いように思います。礼拝での説教で日の目を見るのは30分。その背後に最低でも1015時間の準備時間。多い場合には20時間を超えることもあるでしょう。それだけ備えても、皆さんの前で語られるのは30分程度。見えるのは「わずか」ですね。

でも、この見えない準備の時間をどう過ごすか。これ次第で、皆さんに語られる30分が大きく変わるわけです。まとまらなくても、あるいは語るのが上手でなくても、時間かけて丁寧に祈り備え、奮闘して生まれた説教は、不思議と人の心の深いところに根を下ろします。そういうのって、豊かだと思いませんか。

そして、皆さんの様々な苦労の8~9割も、おそらく人には知られずになされているのですよね。ご家族にも見えない部分が多いのではないでしょうか。皆さんが今朝、ここに集うにも、その背後に色々な見えないものがあります。心の葛藤もあるでしょう。準備があるでしょう。

実に、私たちの豊かさとは、目に見えるところではかるものではない(はかれない)と言えます。特に、目には見えない神様を信じて歩む者にとってはそうでしょう。いや、おそらく誰にとっても「真の豊かさ」というものは、見えないところにあるのかも知れません。

Ⅱコリ 4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

 私たちは何かを見たときにも、その背後にある見えない何かがあるから、感動を覚えますし、その背後にあるものを感じ取ることで、豊かにされているのではないでしょうか。

 絵画にしても、音楽にしても、作文にしても、建築にしても、料理にしても、その背後にある多くの失敗、挫折、祈りや愛、訓練、準備。悩み、葛藤、叫び。それらが凝縮されて、目に見える形として生まれているのですよね。 

フランス人サン・テグジュペリ著の「星の王子様」という小説の有名なことばがあります。「心で見なければ、ものごとはよく見えないってこと。大切なことは、目に見えないんだよ。」 大切なものほど、肉眼で見えないところにあると言います。

愛や友情、信仰も希望も、感動。こうした大切な良いものほど、実は目に見えない部分なのですよね。神様は、私たちが豊かになるために、「ぜひ、見えるものだけでなく、見えないものに目を留めなさい」とおっしゃっているのです。

 

 そして、見えない部分に目を大切なものを見出すようになると、生き方や価値観が少しずつ変わっていきます。外見を気にして、積極的になれない人もいますが、もっと異なる豊かさがあるということです。あるいは、肉体の衰えにそこまで心を奪われないで済むと言えます。

Ⅱコリント4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 

 私の眉間に傷跡みたいなものがあります。これはほんの少し前まではありませんでした。帯状疱疹の名残りで、全然傷跡が消えずに残ってしまっています。おそらくこれはもう消えないのではないかと思っています。

 昔の私なら、結構こういうのを気にしていました。でも、今は気になりません。「年を取ったから?」と言えば確かにそうかも知れません。けれど、もっと良いこと、もっと豊かなものに関心が向けられるようになったからでもあります。

 どうやっても、私たちの肉体は衰えます。アンチエイジング(若返り?)はほんの少しだけ効果がありますが、結局は悪あがき程度ではないでしょうか。しかし、もっと良いアンチエイジングがあるとするならば、「内なる人」が豊かにされることが一番です。

 「内なる人」というのは、私たちの魂や心、あるいは人格といった、外からは見えない部分です。心に希望を持つ人、使命感を持っている人、愛に満たされている人は、外見も魅力的になると言えます。若々しく、イキイキしている方は、確かに内面が意欲に満ちています。先日、あるTV番組の中で、メンタルの専門家の方が「意欲の根源は感動だ」とおっしゃっていました。「意欲の根源は感動だ」

 感動をすると、人は生きる意欲がわく、やる気が出る。自分も頑張ろうという意欲が生まれると言います。本当ですよね。感動が人を変え、心に力を与えてくれます。

 教会の若い子たちのための様々なキャンプがあります。できるだけ、そういう場に送りだしていますが、とにかくキャンプに行って帰って来ると、一皮むけて帰って来る感じがあります。そこで感動して帰って来るのですよね。刺激をもらって、意欲が出てきますね

 皆さんの中にも、賛美を聴いていると泣けてきてしまうという方がいらっしゃいますね。聖書のお話を聞いてという方も。神様によって、目に見えない大切なものに目が開かれると、本当に心豊かにされるのですよね。この感動をぜひ大事にして欲しいのです。

 

そして、「永遠」というものに目が開かれることを願っています

 私たちの人生。100年時代と言われても、それでもせいぜい100年。永遠という長い長い時間軸の中では、ごく小さな点に過ぎない。こうあります。

4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

正直「軽い苦難」とは到底思えないですね。しかしながら、ここで語られていることは、比較の問題です。ものすごく重い苦難なのだけれども、永遠の栄光のあまりの大きさ、長さ、深さ、豊かさがすごいので、それと比べれば小さな軽いものに見えてくるということです。

比べるもの次第でだいぶ変わるわけです。永遠という時があまりにも悠大なので、100年の人生がほんの一瞬に思えるということ。もはや比べるのも意味がないほど違うのです。

 でも、この永遠の幸せを知っているからこそ、今の苦難には終わりがある。永遠の喜びに比べたら、限られた時に過ぎないのだと、希望を持つことができます。それほどに、死後、イエス様によってよみがえって過ごす天国での日々は、豊かで深くて喜びに満ちており、終わりがなく素晴らしいものだと言うことです。

 先日の墓前礼拝で語られた先生が、私たちは20代前半ぐらいの若々しい時の姿でよみがえって、天国で過ごすと想像しているとおっしゃっていました。そうかもなぁ?でも、そうでないかもなぁ?と楽しく想像しながら聞いておりました(笑)。

これらはまだ起こっていないことなので、わかりません。

でも、復活は神様の明確な約束。永遠の世界には、もう病気もケガもしないからだが必要。信仰というものは、見えないこの約束を見るようにして信じて、今を生きていくものです。果物の種をまく時に、将来大きな木に成長して、甘い実りがあることを期待して信じて種をまくように。いや、もっと期待する心があれば、1本の木で終わらず、果樹園が広がる姿を信じて種をまくことができるでしょう。その方が楽しく、わくわくしながら、意欲を持って歩めます。

 しかし、この世の目に見える物は天国には持っていけません。いつまでも残るものとは? 人のためになしたもの。愛のわざ。

Ⅰコリ13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。 

このほっとカフェ、私の心がくじけそうな時代がありました。人が5~6人ぐらい。テーブル1個でいいんじゃない?みたいな・・・ことも。けれども、昨年天に召された辻岡先生から、励ましていただき、ほっとカフェ、すごくいいから。ぜひ続けなさいと。こうした励ましのことば、愛のことばによって、この先生が良いと言うなら、頑張ろうと。こうした「愛の励ましのことば」一つが用いられて、忍耐深く続けられ、豊かにされていく。愛は残っているのです。

 でも、神様は見えないところをこそ見ていてくださる。なぜなら、人から見えるところは、人の報いを受けられるから。人に見えないところでこそ、愛のわざをせよと主は言われる。それは、人間からの報いを求めてするのではなく、神様の報いをこそ期待して歩むため。

4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

ここにあるように見える形あるものは朽ちていきます。けれども、見えないものこそ永遠に残るのです。ですから、すぐに消え去る見えるものばかりに囚われて生きるよりも、その奥にある見えないものに、心の目が開かれて歩んで行けたら、もっと良いものを味わえると思いませんか? 皆さんの今の歩みはどうでしょうか。見える物に心を奪われて生きていませんか。朽ちない永遠のことに関心を向けながら、今を歩めているでしょうか。



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