「見えないものを大切にしていく豊かさ」
そして、また少し違う視点ですが・・・。私たちの人生において、実は見える部分より見えない部分の方が多くあるように思います。自分の中で考えていること、思っていることの多くは、心の中に納められたままです。聖書の中に、信仰者は「見えるものが、見えないものからできていることを悟っている者である」と語られています(ヘブ11:3)。よーく考えてみると、見えるものの背後には、実は見えない大切なものが必ず存在しているのです。
例えば、牧師の働きも、見えない部分の方が圧倒的に多いように思います。礼拝での説教で日の目を見るのは30分。その背後に最低でも10~15時間の準備時間。多い場合には20時間を超えることもあるでしょう。それだけ備えても、皆さんの前で語られるのは30分程度。見えるのは「わずか」ですね。
実に、私たちの豊かさとは、目に見えるところではかるものではない(はかれない)と言えます。特に、目には見えない神様を信じて歩む者にとってはそうでしょう。いや、おそらく誰にとっても「真の豊かさ」というものは、見えないところにあるのかも知れません。
Ⅱコリ
4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
愛や友情、信仰も希望も、感動。こうした大切な良いものほど、実は目に見えない部分なのですよね。神様は、私たちが豊かになるために、「ぜひ、見えるものだけでなく、見えないものに目を留めなさい」とおっしゃっているのです。
「内なる人」というのは、私たちの魂や心、あるいは人格といった、外からは見えない部分です。心に希望を持つ人、使命感を持っている人、愛に満たされている人は、外見も魅力的になると言えます。若々しく、イキイキしている方は、確かに内面が意欲に満ちています。先日、あるTV番組の中で、メンタルの専門家の方が「意欲の根源は感動だ」とおっしゃっていました。「意欲の根源は感動だ」。
感動をすると、人は生きる意欲がわく、やる気が出る。自分も頑張ろうという意欲が生まれると言います。本当ですよね。感動が人を変え、心に力を与えてくれます。
教会の若い子たちのための様々なキャンプがあります。できるだけ、そういう場に送りだしていますが、とにかくキャンプに行って帰って来ると、一皮むけて帰って来る感じがあります。そこで感動して帰って来るのですよね。刺激をもらって、意欲が出てきますね。
皆さんの中にも、賛美を聴いていると泣けてきてしまうという方がいらっしゃいますね。聖書のお話を聞いてという方も。神様によって、目に見えない大切なものに目が開かれると、本当に心豊かにされるのですよね。この感動をぜひ大事にして欲しいのです。
そして、「永遠」というものに目が開かれることを願っています
正直「軽い苦難」とは到底思えないですね。しかしながら、ここで語られていることは、比較の問題です。ものすごく重い苦難なのだけれども、永遠の栄光のあまりの大きさ、長さ、深さ、豊かさがすごいので、それと比べれば小さな軽いものに見えてくるということです。
比べるもの次第でだいぶ変わるわけです。永遠という時があまりにも悠大なので、100年の人生がほんの一瞬に思えるということ。もはや比べるのも意味がないほど違うのです。
でも、この永遠の幸せを知っているからこそ、今の苦難には終わりがある。永遠の喜びに比べたら、限られた時に過ぎないのだと、希望を持つことができます。それほどに、死後、イエス様によってよみがえって過ごす天国での日々は、豊かで深くて喜びに満ちており、終わりがなく素晴らしいものだと言うことです。
先日の墓前礼拝で語られた先生が、私たちは20代前半ぐらいの若々しい時の姿でよみがえって、天国で過ごすと想像しているとおっしゃっていました。そうかもなぁ?でも、そうでないかもなぁ?と楽しく想像しながら聞いておりました(笑)。
これらはまだ起こっていないことなので、わかりません。
でも、復活は神様の明確な約束。永遠の世界には、もう病気もケガもしないからだが必要。信仰というものは、見えないこの約束を見るようにして信じて、今を生きていくものです。果物の種をまく時に、将来大きな木に成長して、甘い実りがあることを期待して信じて種をまくように。いや、もっと期待する心があれば、1本の木で終わらず、果樹園が広がる姿を信じて種をまくことができるでしょう。その方が楽しく、わくわくしながら、意欲を持って歩めます。
しかし、この世の目に見える物は天国には持っていけません。いつまでも残るものとは? 人のためになしたもの。愛のわざ。
Ⅰコリ13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
このほっとカフェ、私の心がくじけそうな時代がありました。人が5~6人ぐらい。テーブル1個でいいんじゃない?みたいな・・・ことも。けれども、昨年天に召された辻岡先生から、励ましていただき、ほっとカフェ、すごくいいから。ぜひ続けなさいと。こうした励ましのことば、愛のことばによって、この先生が良いと言うなら、頑張ろうと。こうした「愛の励ましのことば」一つが用いられて、忍耐深く続けられ、豊かにされていく。愛は残っているのです。
でも、神様は見えないところをこそ見ていてくださる。なぜなら、人から見えるところは、人の報いを受けられるから。人に見えないところでこそ、愛のわざをせよと主は言われる。それは、人間からの報いを求めてするのではなく、神様の報いをこそ期待して歩むため。
4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。