東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記42章「主を再発見したヨブ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/04/28

ヨブ記42章「主を再発見したヨブ」

*** 4/26(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨブ記42章「主を再発見したヨブ」

 日曜日に洗礼式がありました。それはとても大きな主の恵みで、本当に励まされる時となりました。それを通して、人の考えをはるかに超える神様のみわざについて改めて教えられました。身内の方からすると・・・身内だからこそ難しいと思っていたけれども、主が豊かに働いてくださったゆえの救いでした。隣に座っていた姉にも、主がみことばをもって示し、隣人の救いはあなたの責任であるという迫りを受けたと証しされていました。
主は色々な機会、様々な人を用いて働かれるのです。

今朝、久しぶりにヨブ記に戻って参りました。今日はいよいよ最後の章42章のヨブの神様への応答の場面です。ここでは改めて主を知ったヨブのことばが語られています。

神様を知っているつもりで歩んできたヨブでした。しかし、ヨブの知っていた神様はとても小さな神様でした。私たちのイメージしている神様も小さくないでしょうか?小さくしてしまっていませんか?

ヨブは主から問われ、自分は「全然分かっていなかったのだ」と気づかされたのでした。むしろ、分かったつもりになり、神の摂理の豊かさを自らの発言で隠してしまう罪深い行動を今、心から悔いているのです。

6「ちりと灰の中で自分を蔑み、悔いている」と言っていますよね。

ただ、ここからヨブの人生の第2幕が始まると言っていいでしょう。改めて神を知る者となり、さらなる祝福へと歩んで行くのです。私たちが試練について考える時、大切なことは、その試練を通して今まで以上に神を知る者とされることを覚えましょう。

 

2節 あなたには、すべてのことができること。どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。 

 改めて神様が全知全能であることに心を打たれたヨブです。自分が考えていたよりも、主がはるかに大いなる方であったと気づきます。「これを知っているか」、「これができるか」と、この世界について問われたヨブでした。あまりにも自分が「何も知らない者(無知)」であることを突き付けられたのです。

38章以下の主の問いかけは、私たち自身も問われていると受け止めたいところです。
私が何者で、主がどのようなお方なのかを知るのです。

 神様はすべてを知りつくし、また自在に管理しておられるのでした。ヨブは圧倒され、ただただ主を驚き仰ぎ見るより他ありませんでした

3 「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」との問いに、それこそが自分の姿であったとヨブは恥じ入りながら、答えています。

ヨブはここで、自分の理解できないことを告げてしまっていたと顧みています。121節のヨブのことば。それはとても立派な信仰者のことばだけれども、まだこうして主を知る前のことばです。自分が何を語っているのか、その意味は何か。実に自身でさえ分かっていないのです(ペテロに似ているでしょうか?しくじる前の勇ましい発言・・・しくじった後の彼の変化)。

 知識もないのにわかったつもりになり、あれこれとことばを並べる。今、彼はそのように騒がしくして「神様の摂理」をおおい隠してしまったことをひどく後悔しています

 私は神学生になった頃に、少しずつ自分の立ち位置について考えさせられ、気づかされたのを覚えています。知識だけが増えると、かえって人を傷つけ凶器になることすらあるものです。私は増し加わった知識によって、かえって人を傷つけてしまった自分を何度か見ました。

 特に、それまでは思ったこと、言いたいことをただ言って来ました。自分のことばによって他の人に「神の摂理が見えやすくなるか?反対に見えにくくなるか?」ということには、あまり関心を払えなかったのです。

 けれども、私は何のためにその交わりに置かれているのか

 それを考えた時に、自分が恵まれたいというだけで終わるべきではない。自分を通して他の人が恵まれるために、ことばや行動がなされたら幸いだと示されました自身のことばが主の摂理をおおい隠さないようにと

 不思議なことに、そのような視点で参加するようになった時に、今までよりもずっと学びや交わりが楽しく、自身も深く教えられるようになったのです。

 この視点に立つ時、自分があれこれ言うことよりも、主の語られる声にもっと聴きたいとの思いが増したからです。

 非常に豊かに成長した教会の牧師に、秘訣は何かとある人が尋ねました。その牧師は答えました。「主を覆い隠さないことです。私が沢山、主のみわざを隠してしまわなければ、もっと豊かに主は働かれたと思います。」と答えられた。

 そのような姿勢があるから、教会が豊かにされたのではないかと思わされます。伝道においてもそうでしょう。自分の知恵ではなく、御霊によってなされるものです。


4節 あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。」と。 

 このように主のことばをヨブが繰り返したのは、本当に主のおっしゃる通りであると悟ったということ。ようやくその意味がわかったということでしょう。

「さあ、聞け。わたしが語る」と主が言われているのだとヨブは受け止めました。

 それは、人間の側が偉そうに神様を問いただすという立場にはないということです。むしろ、私たち人間は誰もが、神様から問われる側の者たちであるということ。それが本来の神様と人間とのふさわしい関係性です。

 イザヤ2916では、造られた人間が、「なぜ私たちをこのようにしたのか?」と偉そうに問う立場にはないとみことばが教えています。むしろ逆で、主から私たちは問われているのです。

「あなたは何者なのか?あなたはわたしの前にふさわしく歩んでいるのか?」と。

 申し開きをしなければならないのは私たち人間。そこに気づくからこそ、主キリストの十字架の恵みの意味が、私たちに深く豊かにわかって来るのです。


そして5節のヨブの告白に私たちもアーメンと言わずにはいられません。

5節 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。

 これは、比喩的な表現であって、実際に自分の耳で聞き、肉眼で見たという話をしているわけではありません。「百聞は一見に如かず」ということわざがありますね。100回聞いても分からなかったものでも、1回実際に見る時によくわかるということがあります。ドリアンという果物、説明は色々受けていましたが、実際食べたらどの説明ともマッチしていませんでした。そして、これは説明が難しいなと思ったものです。

 神様というお方なら尚更です。ヨブはこの時、自身の重い苦しみ経て、その中で神様の偉大さ、深さ豊かさを教えられたのです。神様は、あまりにも偉大で完全で深くて豊かなお方ですから、それらのどれも不十分にしか持ち合わせていない私たちが理解することは簡単ではないのです。

ヨブは、分かっているつもりでいました。しかし、何も分かっていなかったのです。

 自分がわかったつもりで、神様のことをあれこれ論じていたけれども、本当の意味で主を知ろうとせず、知ったつもりでむなしい議論をしていた自分に気づいたのです。それで、6節にあるように、とにかく今ヨブは、自分はなんて愚かだったのかと自分を蔑み、そして心から悔い改めました。

私たちも神様を知ったつもりになって、勝手なイメージで神様の姿を考えているということがあります。その思い込み、勝手なイメージが、私たちだけでなく、私たちと出会う方々から主なる神様を遠ざけてしまうことがあり得ます。

 私たち自身が主を知る者にならせていただきたいのです。

 謙虚になって「あなたのことを教えてください」と、主に祈り求めましょう。

ヨブは道徳的に正しく、まじめで忠実な人でした。しかし、神様をわかっているつもりになり、かえって真理に目を塞いで過ごしていたのです。結果として、ヨブは神様が自分に敵対しているかのように思い、またその思いが、見舞いに来た友人たちにさえ伝わってしまったことでしょう。ヨブがもし、本当の意味で主の忠実なしもべであるのならば、神様の栄光を伝えることに全力を尽くしたことでしょう。

しかし、むしろ、神様が正しいはずの自分を苦しめる、意地悪な方であるかのように、友人たちに見せてしまったのです。

ヨブほどの人がそうなら、私たちはますます、謙虚に主に求め、「あなたご自身のことを教えてください」と祈り求める者となりたいのです。

私たちの言動が、私たちの周囲にいる人たちに何をもたらしているでしょうか。

主の摂理を暗くする歩みではなく、主の摂理を大胆に証しする者にならせていただきましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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