*** 4/26(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨブ記42章「主を再発見したヨブ」
日曜日に洗礼式がありました。それはとても大きな主の恵みで、本当に励まされる時となりました。それを通して、人の考えをはるかに超える神様のみわざについて改めて教えられました。身内の方からすると・・・身内だからこそ難しいと思っていたけれども、主が豊かに働いてくださったゆえの救いでした。隣に座っていた姉にも、主がみことばをもって示し、隣人の救いはあなたの責任であるという迫りを受けたと証しされていました。
神様を知っているつもりで歩んできたヨブでした。しかし、ヨブの知っていた神様はとても小さな神様でした。私たちのイメージしている神様も小さくないでしょうか?小さくしてしまっていませんか?
ヨブは主から問われ、自分は「全然分かっていなかったのだ」と気づかされたのでした。むしろ、分かったつもりになり、神の摂理の豊かさを自らの発言で隠してしまう罪深い行動を今、心から悔いているのです。
6節で「ちりと灰の中で自分を蔑み、悔いている」と言っていますよね。
2節 あなたには、すべてのことができること。どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
改めて神様が全知全能であることに心を打たれたヨブです。自分が考えていたよりも、主がはるかに大いなる方であったと気づきます。「これを知っているか」、「これができるか」と、この世界について問われたヨブでした。あまりにも自分が「何も知らない者(無知)」であることを突き付けられたのです。
38章以下の主の問いかけは、私たち自身も問われていると受け止めたいところです。
私が何者で、主がどのようなお方なのかを知るのです。
神様はすべてを知りつくし、また自在に管理しておられるのでした。ヨブは圧倒され、ただただ主を驚き仰ぎ見るより他ありませんでした。
4節 あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。」と。
このように主のことばをヨブが繰り返したのは、本当に主のおっしゃる通りであると悟ったということ。ようやくその意味がわかったということでしょう。
「さあ、聞け。わたしが語る」と主が言われているのだとヨブは受け止めました。
それは、人間の側が偉そうに神様を問いただすという立場にはないということです。むしろ、私たち人間は誰もが、神様から問われる側の者たちであるということ。それが本来の神様と人間とのふさわしい関係性です。
イザヤ29章16節では、造られた人間が、「なぜ私たちをこのようにしたのか?」と偉そうに問う立場にはないとみことばが教えています。むしろ逆で、主から私たちは問われているのです。
「あなたは何者なのか?あなたはわたしの前にふさわしく歩んでいるのか?」と。
申し開きをしなければならないのは私たち人間。そこに気づくからこそ、主キリストの十字架の恵みの意味が、私たちに深く豊かにわかって来るのです。