東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ2章3-6節「主イエスが歩まれたように」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/05/01

第一ヨハネ2章3-6節「主イエスが歩まれたように」

*** 4/30(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ23-6節「主イエスが歩まれたように」

 新年度、あっという間に1か月が過ぎようとしています。
 忙しさの中でも、皆さんの信仰生活は、充実し喜びに満ちているでしょうか。個人的には息子の入院があり、心も体もせわしない4月でした。なすべきことが半分も終わっていないような感覚。宿題山積み。そんな日々を過ごしています。


 そのような時、ともすると私たちは喜びを失います。すばらしい神様との日々であるはずなのに、ちょっとしたボタンの掛け違いから、すべてがずれてしまうのです。主に従うという最も基本的な優先順位がずれると、すべてが満たされなくなるのです。

 イエス様はヨハネの福音書1010節でこう言われています。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」と。いのちを得るだけではなく、「豊かに得る」ために主は来られたのです。ギリギリ首の皮一枚の乏しいクリスチャンライフではなく、豊かな人生を歩めるように

 イエス様の弟子ヨハネも、この手紙でこう語ります。14節。「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」喜びが満ちあふれるようにこの手紙が与えられているのです。何が私たちから喜びを奪ってしまうのでしょうか。どうしたら本当の喜びで満たされていくのでしょうか。

 今日のみことばによれば、「罪」から離れて、主イエスの御跡に従うことです。「神を知っている」と口先で言う歩みではなく、主イエス様がその人の中に透けて見える歩みです。これを知るために3つのことを教えられましょう。
1.神を知るとはどういういことか? 
2.神の命令とは何か? 
3.主イエスに従うとはどういうことか? 
 


1.神を知るとはどういうことか?

神様を知っていると言える人とは、神様のご命令を守って歩んでいる人です。

3節 もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。 
4節 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。 

ここにあるように、神様を知っていると言いながら、神の教えとその人の生活・行動との間に一致がないのならば、そこに真理はなく、偽りに満ちた歩みだと言うのです。

聖書において「知る」ということばは、単なる知識を持っていることではなく、人格的に知るという意味があります。例えば創世記では、アダムはエバを知ったとあります。それは一心同体の交わりのうちに互いを知ったという意味です。ですから、神を知っていると言える人は、キリストと一つとされる交わりにおいて知っており、その教えを喜びとして生きている人です。

そのような人は、神の愛に生きていますから、謙虚であり穏やかであり、それでいて芯の強さを持つ豊かな人です。 ところが、生半可に知識ばかりを身に着けて「神を知っている」と豪語する人は最も厄介ですよね。神を知っているという知識だけでは、かえって人を傷つけ、つまずかせ、神の豊かさを隠してしまうことがあります

第一コリント81節に、「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」とある通りです。
神学生時代の私の失敗です。聖書知識が急に増えて、分かったつもり、偉らくなった気がしてしまう。知識で人を論破しようとし傷つけてしまいました。相手の方の最善を願い豊かにになることを願ったのではなく、私が学んで得た知識で説得して、自分が有益な者であると証明したかったのでしょう。

それは神を知っている者の歩みではありません。本当の意味で神を知る者は、そんなことに喜びを感じません。反対に、キリストと一つにされ、神様と親しく交わり歩む者は、ことばにも態度にも主イエス様のお姿が現されていくのです。そこにこそ、いのちの豊かさと真の喜びがあふれてきます。


2.神の命令とは何か? 

  続く5節ではこう語られていますね。


5節 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。 

神の命令とは何でしょうか。多くの人は「命令」ということばにアレルギー反応を示すかも知れません。しかし、神様の命令は最高に良い命令です。とても良い命令なので、従うことが重荷にはなりません。

皆さんも、お金は出しますから「最高に良い物を食べなさい」と命じられたら、喜んで従いますよね。どんどん命令してくださいと言うのではないでしょうか。

では、神の命令とは何でしょう。それは、神を愛し、人を愛することです。イエス様は旧約の教えの全体は、神を全身全霊で愛することと、隣人を愛することだと整理してくださいました。

神と人とを愛することこそ、神様の命令を守って生きることなのです。ゆえに、5節では、神様のみことばを守っているのなら、その人のうちには「神の愛が確かに全うされている」と言います。そうなのです。神の命令を守るとは、細かな戒めを守ることだと思いがちですが(事実パリサイ人はそうでしたが・・・)、神と人とを精一杯愛することなのです。様々な聖書の教えは、神を愛する仕方、人を愛する仕方を具体的に示してくれているものだと言えるでしょう。

そして、「全うする」とのことばには、完成・完了するという意味があります。愛というものは、実際に実行されて初めて完成するのです。愛は、知っているだけでは役に立ちません。心に持っているだけでも意味をなさないのです。

愛は、名詞的にではなく動詞的に理解すべきでしょう。愛は「愛して」初めて、愛となり得るのです愛して初めて、愛がそこに現れ完成されるのです。私は神を知っていると100回言っても、愛がなければ意味がありません。そして、主が愛されたように神と人を愛するなら、私たちはともに喜びに満たされていくのです。

 

3.主イエスに従うとは、どういうことか? 

 
6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。 

 イエス様こそ、神である方が受肉して、人となられた姿。神様がもし人間の姿を取ってくださったら、このように歩むというモデルなのです。神のうちにとどまり、神の愛が全うされている者とは、まさにイエス様なのです。

 ですから、イエス様の姿に近い人ほど、神のうちに留まっており、神の愛が全うされている人だと言えます。皆さんの周りにそのような方はいらっしゃるでしょうか。イエス様が透けて見えるような人です。なかなか見つけられないでしょうか?

 そうだとするならば、宣教はそうそう進まないかも知れません。私自身を振り返っても、あまりにもイエス様に遠い自分がいます。そして、また「それでもいい」と自分をあきらめ慰めるところに、ますます主と反対の自分を見るのです。

 でも、本当は私たちと出会う方々に「キリストがこの人の中に生きておられる!」と感じていただきたい。イエス様の御跡について行きたいのです。もし、そのように私たちが変えられるのならば、世界中でキリストと出会い、語り合える人々がずっと増えるでしょう。

 イエス様が弟子たちに期待しているのは、これでなくて何でしょうか。キリストの御霊はそのために与えられているのです。御霊の豊かな働きによって、日々イエス様の姿へと似せられていくとみことばは約束します。私たちが主イエスについて行こうと決心し、ゆだねるならです。主が透けて見える人になりたいと思いませんか。

 ナチス・ドイツに処刑されたディートリヒ・ボンヘッファのことが思い浮かびました。彼の詠った詩が現在でも賛美されています。「善き力にわれ囲まれ」というもの。彼はナチスに反対したため捕らえられ、婚約者や家族と離れ離れになり、やがて処刑されます。処刑後わずか3週間後にナチス・ドイツは敗北します。もうあとほんの少し敗戦が早ければ、愛する人たちのもとに帰れたのに!と思うと切ないですよね。

 しかし、彼が獄中から愛する婚約者や家族に書いた手紙は、世界中の人々を慰め、神様のもとに導いたはずです。そこにはキリストの姿がハッキリ現れているように思えるのです。昼も夜もともにおられる主の愛に安んじ、苦しみの杯さえ感謝を込めて愛する手から受けようと詠うのです。本当に胸を打たれます。一部紹介します。

「たとい主から 差し出される 杯は苦くても、恐れず、感謝をこめて、愛する手から受けよう。輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう。 善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう。夜も朝もいつも神は われらと共にいます。」

 人の顔色をうかがう歩みではなく、権力におもねる歩みではなく、ただ主イエス様の後について行く姿です。ただ、主の御跡にまっすぐついて行く姿です。それは、知識やことばだけのものではありません。表面的なものであれば、人の心を動かせないでしょう。そこに生き、最後まで主に従い通して、主の弟子として死を迎えた姿です。私たちは、まぎれもなく彼の中にキリストを見つけることができるでしょう。

 彼のように劇的なものである必要はありません。毎日の小さな歩みの中で、小さな決心から、小さなことば一つから、主イエスが歩まれたその後をついて行きましょう。

 

 ご一緒にみことばに聞いて参りました。神様は今日、私たちに語っておられます。

「あなたはわたしを本当に知っているのか?」と問われます。困った時だけ助けを祈り求める、食事の時だけお祈りをする、礼拝の時だけみことばに聞く。それは神様を愛する者の歩みでしょうか。神の命令に生きていないのです。

そして、神様の命令とは「愛すること」でした。それは世界で最も良い(尊い)ご命令です。世界の人々が喜びに満ちるために、なくてはならないご命令です。このご命令自体が神様の愛だとさえ言えるでしょう。知識として愛を持つということではありませんでした。愛して初めて、愛はそこに現れ、全うされるのです。

 これらの模範が主イエス様でした。主イエス様の姿にこそ、神を知っている者の姿、神の愛が全うされている姿が現れています。ですから、主イエス様について行きましょう。 



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