東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書1章12-18節「神なき知恵のむなしさ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/05/10

伝道者の書1章12-18節「神なき知恵のむなしさ」

*** 5/7(水)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書1章12-18節「神なき知恵のむなしさ」

 知恵と知識が増えると人は幸せになれるでしょうか。皆さんはどのようにお考えですか。今日の18節にこうあります。

18節 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。 

 インターネットは私たちの生活を一変させた人間の知恵の結晶でしょう。インターネットで本当に多くの情報を手に入れ、知識を増やすことができます。けれども、それによって人は幸せになれたのかと言うと、必ずしもそうとは言えないですよね。

 良い情報もあります。けれども悪い情報も多くあります。詐欺があります。多くの罪の誘惑があります。助けられてもいますが、罪を犯す人も増えたはずです。知りたくなかったことを知り、落ち込むこともあります。傷つく人も増えてしまったことでしょう。

 知恵と知識は、それが増えれば幸せになれそうな錯覚をしますが、知るべきことを知らないのなら、知恵も知識も意味がないのです。


 福音派を代表する神学者として有名なJ.I.パッカーはこのように言いました。
「あなたのなすべき最大の仕事は、神を知ることだと気づくとき、人生の問題のほとんどは、ひとりでに解決していくものだ。」と。

神を知るという最大の仕事、最大の学びこそ、私たちを幸せにする道、様々な問題の解決への道であると述べています。こんなに大切なことを知らずして、一体何を学ぶというのでしょうか。本日は、神なき知恵のむなしさを教えられます。そして、それによって、神を知ることの大切さを教えられましょう。
 

 この書の著者と考えられるソロモン王は知恵をもってこの世界を探り求め知る者となろうと考えました。

13節 私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。 

ただ、これは非常にしんどい仕事でもあると言います。なぜでしょう。14節にこうありますね。「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」 

ここにあるように、この世界を知るほどに「むなしさ」が募るのです。極めようと頑張るほどに、極められない現実に愕然とします。私は学生時代に小説家を目指そうと思った時期があり、友人から言われて国語辞典を最初から読書し始めました。多くのことばを覚えようと。やってみて「あ」行だけでもあまりに多いのに愕然としました。しかも膨大な労力の割に、たいして役にもたちません。日本語を極めても世界中のほとんどの人と意思疎通できません。それはまさに「風を追うようなもの」でした。

聖書を最初から最後まで、一言一句間違わずに覚えることはどうでしょう?

確かにすごい。

でも、その労力さえも場合によってはむなしいと私は思います。そこに多くの時間を使うぐらいなら、たった一つの聖書のみことばの中に、深い神様のご愛を発見して感動し、主がすばらしいお方だと知ることの方がずっと意味があります。みことばをいくら暗記しても、そこに「主を知る」という本質がなければ、それさえむなしいのです。

この14節では、「日の下で」と語られています。これは以前お話したように、神様抜きにという意味です。人間的な知恵だけでこの世界を知ろうとすると「むなしさ」しか残らないのです。そのむなしさの一例が15節でこう語られています。 

15節 曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。 

これは当時の「ことわざ」だったのではないかと考えられています。まるい地球や月や太陽をまっすぐにすることはできないでしょう。この世界には「ねじ曲がった不条理」のようなことが山ほどあります。それをまっすぐにしようと頑張ると、ほとほと疲れ果ててしまいます。何かが欠けていると思っても、それを人が満たすこともできません。知れば知るほどに、人としての限界を学ばされます。

ただ、神様が大切な意図をもって、そうなさっているのだと知る時には、見え方もまるで変わりますよね。

そして、世界を学び、経験を積むほどに、実に自分の小ささを知るようになるのです。むしろ、できないことが多いことに気づくのが賢い人なのかも知れません。実際に著者は自身の経験談を語ります。

16節 私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」 

ソロモン王は、近隣諸国にまで噂が広がるほど賢く、どんな知恵比べにも負けませんでした。そこまで極めたと思える人などほとんどいません。そのような賢い人が、賢さを懸命に用いてこの世界にあるすべてを知ろうとしました。そして、あらゆることに挑戦しました。結果はどうだったのでしょうか。17-18節です。 

17節 私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。18節 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。 

なんてことでしょう!何も得をしていないのです。努力して勉強して、知恵と知識を得たのに、かえって悩みを増やしてしまった!!かえって苛立ちが増えてしまったのです。知らない方が幸せだったなんてことはザラにありますよね。

じゃあ、愚かでいれば幸せなのか?そんなことはありませんでした。彼は賢くなるだけではこの世界のことは分からないとまで考え、反対に愚かで狂気じみた人生をもとことん追求しました。17節で「狂気と愚かさ」を知ろうと決意したとあります。両極端を知り、極めることによって、その全体を網羅しようということでしょうか。

しかし、それらを必死に追い求めた結果、やはり「風を追うようなもの」で、つかみ取ることができなかったのです。

 

 愚かになっても、賢くなっても、そこにゴールはない。真の幸いはない。じゃあ、どこに?? 伝道者の書の12章にはその結論が語られています。それは、あなたの若い日に創造者を知ること。そして、神を恐れ、神に信頼して生きることです。

 また、同じくソロモンのことばだと考えられる箴言910節にこうあります。

(ヤハウェ)を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。 

 どんなことでも基本が大事です。初歩の学びをしっかりしないと、応用も何もわかりません。では、知恵や知識の基本は何でしょう?「主を恐れること」だとありますよね。

 主なる神様をまず恐れ敬うことです。人としての基本を押さえないと、知恵も知識もむなしいものになってしまうのです。この基本がゼロなら、その上に何かを積み上げてもむなしいのです。逆に、ここにあるように、聖なる方を知るならば、それは悟りであるというわけです。

 神を知る者こそ賢いのです。

 では、神を知る者とはどういう人のことでしょうか?

 ソロモン王でしょうか?確かにソロモンは神を恐れ尊んでいました。当時の世界では、最も賢い人の一人であったと言えます。しかし、私たちほどは神様を知らなかったと言えます。

 なぜでしょうか。私たちが生きる新約聖書の時代には、キリストが来られたからです。主イエス様が神を豊かに現わしてくださいました。ソロモンの時代よりもさらにみことばが与えられ、イエス様によって説き明かされました。そして、私たちは、キリストの十字架の死と復活を通して、罪赦され神様のふところへ飛び込むことができるようにされました。神の子とされました。神の深いお心を知る聖霊、キリストの心と呼ばれる聖霊が、私たちのすべてのキリスト者のうちに与えられたのです。

 ソロモンの時代にはまだなかった恩恵です。私たちはキリストにあって、神を深く知る恵みを受けたのです。なんという恵みでしょうか!!

 そして、神のことばである聖書を、他のどんな本とも同列に扱ってはなりません。神なき知識で、神の霊的な書に挑もうとはあまりにも無謀です聖書は神の霊によって書かれた「霊的な書」です。だから、神の御霊によって真理が明らかにされるのです。聖霊というランプを照らして初めて、神様のみことばの真意がわかるのです

 今日開いている伝道者の書113節では「知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた」とありました。人間の知恵を用いて尋ね、探り出そうと努力しましたが、得られなかった。それは風を追うようなものだったと言うのです。けれどもⅠコリ210節にはこうあります。「御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られる」とあります。

 御霊こそは、すべての深みを探り出せるし、神の深みさえも探ることができるのだと言うのです。キリストを信じる者には、御霊によって探り知る特権があるのです。自分の知恵で必死になって知るむなしい歩みではないのです。 

 そうして主のみこころを知るならば、この人ほど賢い人はいません。世界の造り主から、愛の神様から真理を教えられるのですから。

 先日、ある社会人青年が分かち合ってくれました。上司からビジネス書を勧められて読んだ。でも、読めば読むほど、聖書の方がずっと優れたビジネス書じゃないか!と感じたと言います。本当にそう思います。


 本日も主が私たちにお語りになっています。

 この世界の大切な心理を知りたいなら「わたしを知りなさい」と言われます。イエス様も言われました。すべて疲れている人、重荷を負っている人は、わたしのところに来て、わたしから学びなさいと。

 主である方を私の真の教師とさせていただきましょう。このお方にあって、みことばを通して世界を知る者となりましょう。そこには人の知恵では知りえない、豊かな真理があり、その真理があなたを本当の意味で自由にします。

 


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