東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰコリント15章3-11節「神の恵みによる今、そしてこれから」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/05/15

Ⅰコリント15章3-11節「神の恵みによる今、そしてこれから」

 *** 5/14(日)主日礼拝 説教概略 ***

Ⅰコリント153-11節「神の恵みによる今、そしてこれから」

 30周年記念礼拝ということで、これまでを振り返って感慨深いと感じる方もいらっしゃれば、最近集われるようになり正直ピンと来ないという方もいらっしゃることと思います。

 でも、私は、古くからいる方も、最近集われるようになった方も「大切なこの教会の一員である」と思っています。そして、そのすべての方々の存在が、この教会の歴史の一部であると考えています。たった一度、礼拝に来られただけの方であっても・・・です。

 そして一つの教会が30年、紆余曲折ありながらも、この地にあり続けたという事実によって、皆さんに励まされていただきたいのです。少しでも勇気づけられたら願うのです。

 まず、「30年続いた」という事実だけでも本当にスゴイことだと私は思っています。

 30年という時間の流れを皆さんは、どのようにお考えでしょうか。30年もの間には、数えきれないほどの多くの企業が現れては消え、銀行等も統廃合が進みました。東村山市全体も、この久米川周辺も30年の間に随分と様変わりしましたよね。多くのお店、多くの建物が出現しては消えました。もちろん教会も決して続くのが当たり前ではありません。残念ながら続けられなかった教会もあります。

 ですから、30年間この地で礼拝が続けられ、多くの方々に福音が伝えられ続けてきたことは、本当に感謝なことです。 

 そこには多くの犠牲がありました。多くの祈りがありました。多くの涙がありました。それらすべての背後に真実な主なる神様がおられたのです。この教会をお建てになった主は、誰よりもこの教会を愛し支え続けてくださいました

 今日は、神様の恵みによって今の私たちがあること感謝します。そして、その恵みを知って、私たちはこれからどのように応えていくのか。みことばから教えられ、思いを新たにさせていただきましょう

 

1. 私たちの礎

 
 まず3節をご覧ください。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。」と語られています。

 最も大切なこと。それは3節後半からありますように、キリストが私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられたことです。キリストの十字架の死と復活です。これが教会の礎、私たちの信仰の土台として与えられたので、私たちがあるのです

 どんなに世界が変わろうとも、どんなに時が流れようとも、変わらないこの真理のゆえに、私たちがあるのです。そしてそれは、3節と4節で2回も繰り返されているように「聖書に書いてあるとおりに」実現しました。みことばの約束を信じる者は、決して失望させられることがないということです。ですから、これからもここに立ち続けることこそ、この教会が主の教会として栄光を受ける道ですよね

 それは、私たち各人の信仰生活においても同じです。

 私は、イエス様を信じる前の自分が「根なし草」だと感じていたことがあります。揺るがない土台を持っていないことに薄々気づいてはいました。だから、友人を励ます時に言った「大丈夫だよ」とのことば。これが、自分の中でとても薄っぺらいものだと分かっていました。根拠がまるでないのです。

 しかし、イエス様を信じてから、揺るぎない土台・礎ができました。「ここに立てばいいのだ!これがあるから本当に大丈夫なのだ!」と確信を持てるのです。確かな安心が与えられました。この恵みによって強められよと主は言われるのです。

 何はなくとも、みことばと、イエス様の十字架があれば大丈夫です!!これまでそうであったように、これから先も。ここに立つ限り!この大切な礎をくださった主に心から感謝しましょう。

 

2. 振り返り感謝する

 そして、ここではパウロの証しが続きます。多くの弟子に復活の主が現れ励ましてくださり、自分にも主は現れてくださったのだと彼は証します。8~9節です。

8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。 

 パウロは他の弟子たちとは異なる方法でしたが、復活の主イエス様との出会いを果たしました。そして、自分がとんでもない罪を犯していたことに気づき、悔い改めるのです。

 パウロは自分を「月足らずに生まれた者」と表現し、それによって小さく生まれた私だけど、大きく用いていただけるようになったのだと言いたいのでしょう。

 なぜ、彼は自分をそう言うのでしょうか?

 それは、自分は教会を迫害した者であり、使徒と呼ばれるに値しない者、取るに足りない小さな罪人の頭だと受け止めていたからです。

 けれども、このような私でさえ、変えられ成長して、主に存分に用いていただけている。それが神の恵みの凄さなのだと!だから10節で彼はこう続けていますね。

10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。 

 パウロは今や、キリストの福音を喜んで大胆に伝える者となりました。私たちの教会も、かつてのパウロのように、キリスト教会全体で見れば、あまり役に立てていない、お世話されてばかりの小さな群れであったと言える知れません。

「決して平坦な道のりではなかった」と、お証にもありましたように、様々な試練を通りました。多くの点において計画通りには行きませんでした。様々なことが重なりました。この群は長らく「維持するのがやっと」という状況にもがいてきました。

しかしながら、それでも、あきらめずに主を信じて礼拝し続け来たのです。何よりもこの小さき群れを見捨てなかった主がおられました。

 決して強い信仰者の集まりなどではありません。むしろ、誰もが弱く、傷つきやすく、それでも主にすがってきたのです。

神様は、いつでもまどろむこともなく、見捨てることなく、24時間、365日、それを30年間!絶えずこの教会を守り、支え続けて下さったのです。 

Ⅱコリン4:8-9にこうあります。 
8節 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
9節 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 

そして、詩篇127:2を開きましょう。

2 あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる(別訳:眠っている間に、このように備えてくださる)。 

主は私たちをちゃんと眠らせてくださいました。寝ている間、私たちは何もできないのです。どんなに心配しても、何もできない。しかし、主は寝ているその間も、休むことなく、絶えず私たちのために最善をもって働いてくださった。ゆえに、私たちはゆだねて眠ることができたのです。実際、グランドピアノの搬出においても困難がありましたが、主が寝ている間備えておられました。私たちにとって最善の方法が既に備えられていました。

主はこの新会堂をも与えられました。購入の際、一度別の物件を総会決議しましたが、別の方に買われてしまいました。その時神様は、私たちに嫌われ、文句を言われたたかも知れませんね。私も毎日神様にぼやいていました。しかし、今思うと、本当によくぞ神様止めてくださったと。それゆえにここがあるのですから!私たちは近視眼ですが、主ははるか先まで見通しておられ、いつも最高のものを与えてくださっているのですよね。私たちは、この主に信頼しましょう!たとえ道が閉ざされることがあっても、それさえも「主の勝利への道」なのだと信じましょう。

 

3. この恵みに応える者として


 第一コリントに戻ります。パウロは10節の続きで、こう語っていますよね。 

10節後半 そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。 

 受けた恵みの大きさゆえに、パウロは主のために全身全霊をもって奉仕したことがわかります。その働きさえ、すべて主の恵みによってなされたのだとも彼は言います。

私たちもこれに倣いたいのです。このような私たちでも、以前から見ればずいぶんと豊かにされました。仲間が増えました。会堂が与えられました。来月の家賃どうしようかと途方に暮れた時から見れば、随分とゆとりを与えられました。スピーカーも30年使ってきたものを変えることができましたね(笑)。スピーカーもブツブツと言いながら、よく頑張りました。あらゆる面で豊かにされたのです。

だからこそ、ここで終わってはいけない。

パウロが語るように、「この神の恵みが無駄にならないように」、私たちは心から主を信頼して、与えられたものを決して土の中に埋めず、豊かにしていく使命を帯びているのです。イエス様がなさったタラントのたとえ話。主人からゆだねられた財産を、ただ土に埋めていたしもべは、叱られてしまいますね。なぜ、用いないのかと!

そこでは、土の中にただ隠してしまった人は、主人への信頼がなかったことに触れられています。小さな失敗ですら責めるような冷たい厳しい主人であると思っていたのでしょう。しかし、私たちは30年を振り返る時、主が最高に良いお方であると知るのです。私たちの罪を覆い、私たちの大失態さえ尻拭いし、代わりに恵みをくださる主でした。

試練のただ中にあっても、主は私たちと一緒に痛みながら、それを通してさらに主を深く知るように導かれました。私たちがこれからさらに前に進むために、主がくださる恵みは、いつでも、どんな時でも最高に良いのものだと信じていくことです。この恵みを受けた者として、これを分かち合う使命に、これをさらに増やす使命に召されているのではないでしょうか。

 受ける者から、与える者へ。生み出された私たちが、今度は生み出す者へと一歩、また一歩、歩んで参りましょう。この会堂の返済、この4年間でもう3分の1を返せました。でも、完済すること自体が私たちの目指すところではありません。私たちはその先を見ています。

 ここにある喜びを、この主のすばらしさを、この交わりを、2倍、3倍にとしたいのです。隣の町に、この交わりを。その隣の町にもこの交わりを広げていきましょう。

 

あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れ、耕地を開拓せよ。

今が主を求める時だ。

ついに主は来て、正義の雨をあなたがたの上に降らせる。

(ホセア1012節)



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