東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記42章10-17節「満ち足りた信仰生活」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2023/05/24

ヨブ記42章10-17節「満ち足りた信仰生活」

 *** 5/24(水)祈祷会 ***

ヨブ記42章10-17節「満ち足りた信仰生活」

 ヨブ記はいよいよ最後となりました。「苦しみを通して神を知る者となること」、それがヨブ記を通して学ぶべき大切な真理です。そして、以前よりも神を知る者とされた結果、そこには以前よりずっと豊かな祝福が待っているのです。


 祝福とは、心や魂の平安だけでなく、人間関係や物質的に恵まれることも含むことがヨブ記から分かります。すべてにおいて祝福を受けると言えます。

 ただし、苦しみの中に神様を招くことを抜きにしては、ここには至りません。先週お分かちしたホセア書66節にこうありましたね。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」 主を知ることこそ、主がお喜びになる「最良のささげもの」です。そして、主はそのようなささげ物を軽んじるはずがないのです。

こうして苦しみを通った後のヨブの人生は、大きく変わりました。

以前よりもさらに祝福を受けて歩んだのです。

10節では、病が癒され元通りになったこと、財産が以前の倍になったことが語られています。11節では、兄弟姉妹、知人たちがヨブのもとに戻ってきたと分かります。親しい食事の交わりも持てました。どんなにか嬉しかったことでしょう。孤独でしたからね。私たちもコロナでしばらく食事会ができませんでしたが、最近少しずつできるようになり、本当に嬉しく励まされていますよね。

また、ヨブの兄弟や知人らはヨブの苦しみに同情し、慰めてくれました。そして12こうあります。 主はヨブの後の半生を前の半生に増して祝福された。 ヨブの人生を二つに分けた時、大きな苦しみを通る以前の前半の時代。そして、苦しみを経て神を深く知る者とされた後半の時代に分けられるでしょう。もちろん、後半についてはこの42章に触れられている以上のことは分かりません。ただ、それで十分だからでしょう。ここを読めば、彼がこの後、主にあって満ち足りた歩みをしたことは明白です。

 12節後半でも、本当に多くの家畜たちが与えられ、さらには新たに子どもたちも生まれました。彼はそれによって大いに慰められていきます。

 

最後の16-17節では、ヨブの生涯の終わりについて語られています。

16 この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。

17 こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。 

 ヨブはその後140年を生き、ひ孫たちの歩みも見ることができました。一時期は全身腫瘍だらけになったことからすると、考えられないぐらい元気になったと言えます。主が心も体も強めてくださったのです。

 17節で、彼の死が語られます。ただし、年老いてなお「満ち足りた生涯であった」と締め括られているのです。彼はこの大きな試練の後、信仰者として最後まで生きて、これ以上ないほど幸いな日々を送ったのです。もちろん、その後は何の苦しみもなかったということではありません。様々な苦しみを通ったでしょう。ただ、主を知る者となる時、苦しみさえも益となさる神のもとで平安に歩める幸いがあります。

 こうしてヨブは死に至るまで忠実な信仰者として生涯を終えたので、「満ち足りた生涯であった」と明言されているのです。ヘブル11:13にこうあります。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。」 これらの人たちとは、旧約時代の様々な信仰者です。この箇所の特徴は「信仰の人として生きた」ではなく、「信仰の人として死んだ」と語られている点です。「信仰の人として死んだ」とはどういうことでしょう。

それは、地上での生涯、最後の日まで神様に信頼して歩み続けたという証しです。途中までは良い信仰者だったけれど、晩年は主から離れたということではないのです。良い時ばかりの信仰生活でもありません。良い時も苦しみの時も、いつでもどこまでも主に信頼した人生を、最後まで貫いたことを語っているのです。それを指して「信仰の人として死んだ」とあるのです。ヨブはまさに、その一人です。彼は試練によってより深く神様に信頼するようになりました。こうして「信仰の人」として死んだのです。

私たちもそうありたいのです。「あの人は信仰の人として死にました。満ち足りた生涯であった」と記録される者でありたいのです。

 

そのために大切なことを二つお分かちしたいと思います。

1.日々の小さなことに忠実に生きることです。

 良い時も悪い時も、主を求めるのです。毎日の小さな出来事において主に従うことを積み重ねることを大事したいのです。主に従う小さな決断の積み重ねのゆえに、大事の時に、良い決断をなして主の祝福に至るのです。我が家の近くに消防署があります。火事がない時にも消防士たちが、備えを怠っていない姿を目にします。ジョギングしたり、筋トレをしたり、消防車を整備していました。実際の火事の時に力を発揮できるかどうかは、このような平穏な時間のトレーング、備えがどれだけなされているかで決まるのではないでしょうか。普段備えていない人は、危機の時に何もできないでしょう。

 私たちの信仰生活も同じです。毎日の小さな信仰の決心の積み重ね。日々小さなことから主を求めて生きることで、大きな試練の時にもそのようにできるのです。ヨブ自身がそういう人でした。ですから主は、サタンの試みを許可したのだと言えます。

 15節を開きましょう。そこでは、ヨブが朝早く起きては、子どもたちの罪を心配して、神様に全燃のささげ物をしていました。「もしかすると」というもしもの時の備えのために、「いつもこのようにしていた」とあるのです。だから、彼は試練が襲った時にも、非常に苦しみながらも、主から決して離れようとはしなかったのです。むしろ主を必死に求めましたよね。

 

2.主を信じて耐え忍ぶということです。

 残念ながら苦しみなしの栄光はないのです。キリストの十字架においても、苦難の死があるからこそ、復活の栄光があり得るのです。私たちも自身の罪に泣く経験、砕かれる痛み、様々な試練における苦闘。これらなしに、ただ祝福だけ、ただ栄光だけを得るということはできません。しかし、主は意味もなく苦しめることをしないお方です。苦労したならば、その分、それ以上に報いて下さるお方です。

哀歌3:33 主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。 

 ここは、主が「望んで苦しめたいわけではない」といったニュアンスにも訳せます。親が子を真剣に叱るとき、しつける時、親も胸を痛めながらそれをします。子が悲しんでいる姿を見たいわけではないのです。胸が締め付けられます。

 それでも、それがその子の幸せのためにどうしても大切なことであれば、親は子に恨まれ憎まれても、それをすることがあるのです。そこに愛があるからです。 

私たちが苦しめられる時、そこにも主の深いご愛があると覚えたいのです。主も一緒に胸を痛めて支えてくださっていることに目を向けたいのです。「辛いだろうけれど、アナタに必要なことなのだよ」と主は試練をお与えになるのです。ですから、祝福への訓練だと信じて耐え忍ぶ者でありたいのです。

そして最後にヨブについて、新約聖書で語られている個所を開きます。
ヤコブ511節 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。 

私たちは今日、ヨブ記の結末を読みましたね。苦しみを経た後半の人生。ヨブはどうでしたか? 

 私たちの誰も苦しみを望みません。その試練や苦労が、私たちのすばらしい成長と将来の祝福につながると分かっていてさえ、拒みたいのです。しかし、私たちが生きている限り、必ず苦しみや試練はあります。避けられないのですから、そこにある意味にしっかりと目を留めましょう。

 苦しいからこそ、今まで以上に神様にしがみついていけばいいのです。必ず主が、その苦闘に報いて、後の歩みの上に恵みの雨を降らせてくださいます。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *