*** 5/24(水)祈祷会 ***
ヨブ記42章10-17節「満ち足りた信仰生活」
ヨブ記はいよいよ最後となりました。「苦しみを通して神を知る者となること」、それがヨブ記を通して学ぶべき大切な真理です。そして、以前よりも神を知る者とされた結果、そこには以前以上の祝福が待っているのです。
祝福とは、心や魂の平安だけでなく、人間関係や物質的に恵まれることも含むことがヨブ記から分かります。すべてにおいて祝福を受けると言えます。
ただし、苦しみの中に神様を招くことを抜きにしては、ここには至りません。先週お分かちしたホセア書6章6節にこうありましたね。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」 主を知ることこそ、主がお喜びになる「最良のささげもの」です。そして、主はそのようなささげ物を軽んじるはずがないのです。
17 節 こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。
ヨブはその後140年を生き、ひ孫たちの歩みも見ることができました。一時期は全身腫瘍だらけになったことからすると、考えられないぐらい元気になったと言えます。主が心も体も強めてくださったのです。
17節で、彼の死が語られます。ただし、年老いてなお「満ち足りた生涯であった」と締め括られているのです。彼はこの大きな試練の後、信仰者として最後まで生きて、これ以上ないほど幸いな日々を送ったのです。もちろん、その後は何の苦しみもなかったということではありません。様々な苦しみを通ったでしょう。ただ、主を知る者となる時、苦しみさえも益となさる神のもとで平安に歩める幸いがあります。
哀歌3:33 主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。
ここは、主が「望んで苦しめたいわけではない」といったニュアンスにも訳せます。親が子を真剣に叱るとき、しつける時、親も胸を痛めながらそれをします。子が悲しんでいる姿を見たいわけではないのです。胸が締め付けられます。
それでも、それがその子も幸せのためにどうしても大切なことであれば、親は子に恨まれ憎まれても、それをすることがあるのです。そこに愛があるからです。
そして最後にヨブについて、新約聖書で語られている個所を開きます。
ヤコブ5章11節 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。
私たちは今日、ヨブ記の結末を読みましたね。苦しみを経た後半の人生。ヨブはどうでしたか?
私たちの誰も苦しみを望みません。その試練や苦労が、私たちのすばらしい成長と将来の祝福につながると分かっていてさえ、拒みたいのです。しかし、私たちが生きている限り、必ず苦しみや試練はあります。避けられないのですから、そこにある意味にしっかりと目を留めましょう。
苦しいからこそ、今まで以上に神様にしがみついていけばいいのです。必ず主が、その苦闘に報いて、後の歩みの上に恵みの雨を降らせてくださいます。