*** 5/17(水)祈祷会 説教概略 ***
ヨブ記42章7-9節「神を知る道」
本日のみことばは、ヨブ記の結論、結末の一部分です。神様はテマン人エリファズに向かって、「わたしの怒りはあなたと友人二人に向かって燃える」と言われました。さら8節では彼らの言動を指して「愚行」とも指摘されています。なかなかに強いことばです。ヨブを見舞った3人の友人たちは騒然としたことでしょう。なぜ、彼らは主の怒りを受け、愚かな行為とまで言われなければならなかったのでしょうか。
それは、彼らは実は、神様の肩を持っていたのではなく、自分の肩を持っていたからです。彼らは、神に関する「自分の知識の正しさ」を拠り所にしていたからです。
7-8節では、彼らが神様について「確かなことを語らなかった」のだと繰り返し語られています。実に彼らは神様を求めてはいなかったということです。神様に祈らず、聞かず、自分の宗教知識こそ正しいと考えていたのです。自分こそ神を正しく解説できると思い込んでいたのです。ゆえにみこころから遠く離れてしまった。ですから、ヨブを少しも慰められず、かえって苦しめる結果になったのです。
私たちは人の知恵によってではなく、神様のくださる啓示によって神ご自身を知るのです。これは今、礼拝で伝道者の書を学んでいますが、まさに人の知恵で知ることの限界ですよね。主はこの世の知恵を愚かなものとするために、この世の知者ではなく、無知な者をあえて選ばれたとあります。
第一コリント1章20-21節 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
自分の知恵では神を知ることができないようにされた。これは主ご自身の深いご計画によったのです。さらに、主は「宣教のことばの愚かさ」を通して、人を救うことにされたともあります。面白い表現です。
この直前の18節にも「十字架のことばは、滅びる側の人から見れば愚かに見える」ということが語られています。どういうことでしょうか? 実は、救いの知らせ(=福音)自体は、とてもシンプルで、小さな子どもでも信じられるものです。イエス様があなたを愛してくれてるよ。あなたの悪い心「罪」の罰を代わりに受けてくれたんだよ。
イエス様を信じましょうね。罪赦され天国に行けますよ。とても簡単な内容です。信じるだけですから。
ホセア書6:6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。