東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記42章7-9節「神を知る道」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/05/18

ヨブ記42章7-9節「神を知る道」

 *** 5/17(水)祈祷会 説教概略 *** 

ヨブ記42章7-9節「神を知る道」

 本日のみことばは、ヨブ記の結論、結末の一部分です。神様はテマン人エリファズに向かって、「わたしの怒りはあなたと友人二人に向かって燃える」と言われました。さら8節では彼らの言動を指して「愚行」とも指摘されています。なかなかに強いことばです。ヨブを見舞った3人の友人たちは騒然としたことでしょう。なぜ、彼らは主の怒りを受け、愚かな行為とまで言われなければならなかったのでしょうか。

彼らは神様を擁護しているように見えました。神は正しいのだから、あなたが苦しむのはあなたに問題があるのだと。自分を苦しめる神様に問いかけるヨブに高慢さを見つけ指摘しました。いつも神様の肩を持つようにし、ヨブを責めたはずです。神様の味方に立っているように見えたのに、なぜでしょうか。

それは、彼らは実は、神様の肩を持っていたのではなく、自分の肩を持っていたからです。彼らは、神に関する「自分の知識の正しさ」を拠り所にしていたからです。

7-8節では、彼らが神様について「確かなことを語らなかった」のだと繰り返し語られています。実に彼らは神様を求めてはいなかったということです。神様に祈らず、聞かず、自分の宗教知識こそ正しいと考えていたのです。自分こそ神を正しく解説できると思い込んでいたのです。ゆえにみこころから遠く離れてしまった。ですから、ヨブを少しも慰められず、かえって苦しめる結果になったのです。

そして、7節には「彼らは『神のしもべヨブ』のようには語らなかった」ともあります。ヨブとの違いが語られています。確認しておきたいのは、直前の1-6節にありますように、ヨブ自身も主を十分に分かっていなかったのです。その点は同じです。

では、この3人との違いは何でしょうか? 

ヨブは少なくとも「神様を求めて」語っていたということです。神様のみこころは何かを知りたくて、主との交わりを求めてもがいていた点が、彼らと決定的に違いました。

私たちは、3人の友人のように、神様を置き去りにしての「神議論」をすることができてしまうのです。それこそ、自分の知識や言い分の正しさに関心がある時に。神様の名前は出て来るけれども、心は別のところにある。結果、聖書や神様の話をしているようでありながら、かえって神様の姿を覆い隠し、見えなくしてしまうことがあります。 

もしかすると、自分の持っている「神様のイメージ」が一番正しいと思いたいのかも知れません。神様はこういう方に違いない。私のイメージする神様の姿こそ、本当の神様だと。実際、この3人の友人たちは私の神観こそ正しいと思っていました。

例えば「神様は本当に正しい人には、試練をお与えにはならない」という勝手な思い込みです。それが神なのだと主張してきたのです。

けれども、実際は間違っていました。神様はヨブが罪を犯したから、苦しめることにしたのではありませんでした。むしろ、こうして42章まで読むとわかるのですが、主はヨブがさらに神ご自身を知れるように。幸いな者となるために、サタンが一時的に苦しめることを許容されたのだとわかるのです。主は、人を育てるため、愛するゆえに、試練をお与えになることがあるのですよね。

ヨブは極限の苦しみの中でも、それでも主を求めていく姿勢を持ち続けました。これが私たちにとっても大きなヒントになります。時に獣のようにわめきながらも、泣き叫びながらも、私たちは主を求めたいのです。神様を求めなくなることこそ、罪の始まりでしょう。そして、主を知ることこそ、主が喜ばれる愛のささげ物なのです。

ホセア書6:6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。 

 特に私たちには、ヨブの時代には現れておられなかった神の仲介者、神の御子が与えられているのですから。十字架にかかられた神の御子イエス様がおられるのですから!!誰も神を見つめることができなかったのに、「見続けなさい」と言っていただける神の子キリストが与えられたのです。

私たちは人の知恵によってではなく、神様のくださる啓示によって神ご自身を知るのです。これは今、礼拝で伝道者の書を学んでいますが、まさに人の知恵で知ることの限界ですよね。主はこの世の知恵を愚かなものとするために、この世の知者ではなく、無知な者をあえて選ばれたとあります。 

第一コリント120-21節 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。  

自分の知恵では神を知ることができないようにされた。これは主ご自身の深いご計画によったのです。さらに、主は「宣教のことばの愚かさ」を通して、人を救うことにされたともあります。面白い表現です。

この直前の18節にも「十字架のことばは、滅びる側の人から見れば愚かに見える」ということが語られています。どういうことでしょうか? 実は、救いの知らせ(=福音)自体は、とてもシンプルで、小さな子どもでも信じられるものです。イエス様があなたを愛してくれてるよ。あなたの悪い心「罪」の罰を代わりに受けてくれたんだよ。

イエス様を信じましょうね。罪赦され天国に行けますよ。とても簡単な内容です。信じるだけですから。

でも、簡単すぎてバカにしてしまうのです。この世の価値観では、「そんなもので救われるなら苦労しないよ」と、とても愚かな教えであると決めつけ、見下します

 実に、そのように見下すことこそ、自分の知恵の方が神より上だと思い込んでいる高慢の罪でしょう。神様はそれをよくご存じで、人間的な知恵では分からないようにされたのです。神様を知る方法は、神様によって与えられるものなのです。

神様が人間のために造られたこの世界を通して、被造物によって神を知ります。神様がくださった聖書のみことばによって神様を知ります。御子キリストによって神様を知ります。さらに、聖霊によって神様を知るのです。

どれも、人間の知恵や努力ではなく、主が与えてくださったものですね。ですから、真に賢い人とは、自分の無知や愚かさを謙虚に受け入れ、神様が与えてくださるものを素直な心で感謝して受け取る人です。

 

 そして、神様は8節にあるように、この間違いを犯した3人に救済の道を示されました。それは、あなたがたを責めたヨブに「とりなしの祈りをしてもらいなさい」ということでした。全焼のささげ物をささげ、ヨブに祈ってもらいなさいと。これは3人にとって自分の過ちを認め、へりくだる機会となったことでしょう。

 その時、主はヨブの願いを聞き入れるので、あなたがたの愚行を見逃す、赦すというわけです。結果は9節にあります。 

9 テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルは行って、主が彼らに命じられたようにした。すると主はヨブの願いを受け入れられた。 

そして、ヨブ自身も彼らのためにとりなしの祈りをすることを通して、この後、癒され回復していくのです。 

主が望んでおられることは、私たちが正しさを主張し合うことではありません。主をまっすぐに求めること。そして、隣人と和解し、愛し合うことです。それこそが主に喜ばれるささげ物です。私たちの正しさを主張するような知識や立派で欠けのない奉仕が、主に喜ばれるささげ物ではありません。主を求め、隣人と和解し、ともに主を見上げていくことです。

 私たちがいかにズレてしまう者であるかを問われます。私も疲れてくると、ついつい自分の立場を守ろうとか、自分の正しさを防衛しようとしてしまう自分を発見します。それよりも主を求めましょう。

ホセア書6:6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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