ローマ 1章1~7節「福音のために召された者」
1節で、パウロは自分が何者であるかを紹介しています。3つあります。
1.「キリスト・イエスのしもべ」であると言います
2.「福音のために選び出された者」(福音に仕える者)と言います。
福音に仕えるために選び出されたのだと語られています。「福音」とは何でしょうか。これは、イエス様こそがまことの救い主(キリスト)であるという救いの知らせです。この福音をこの世界に伝えることが、キリストのしもべにゆだねられた使命です。
パウロは2つのアプローチをもってイエス・キリストについて紹介しています。
① 肉によれば・・・(3節) ダビデの子孫として生まれ。これは、2節で触れられているように、旧約時代からの「約束」の成就であることを示しています。急に生まれた話ではありません。長い年月をかけて約束と備えがなされ、ついに成就しました。イエス・キリストは、ユダの一族の子孫、ダビデ王の子孫として生まれた「まことの人」です。
② 聖なる霊によれば(4節)・・・ 死者からの復活によって、力ある神の子として、否定しようがないほど公に示された方であると語ります。復活によって、「まことの神」であることが証明されたのだと、明確に伝えています。こうして、二つのアプローチ、肉と御霊によって、キリストが示されました。
「まことの人」でありながら、同時に「まことの神である」ということです。肉体を持ってさばかれるべき罪人の代表として死なれたということ。そして、死の力を打ち破られた、生けるまことの神であること。どちらも人の救いの完全な救いのために必要な要素でした。
3.使徒(メッセンジャー)である。
さらにパウロは1節で「使徒として召された」と語っています。使徒とはメッセンジャーという意味があります。自身の考えを語るのではなく、自分を遣わす方のお心を伝える役目なのです。ですから「しもべ」にしても「使徒」にしても、自分の主人、派遣者にフォーカスがあるのです。自分を売りにしないのです。自分を目立たせようとしないのです。
でも、私たちにはその誘惑があります。どうしても「自分がしたのだ」と主張したくなります。自分を見てもらいたい。評価されたいのです。
今、インターネットの世界では、常に、自分を見て欲しいと必死になっている人々の姿があります。わざと過激なことを言って、わざと過激な行動をとって、話題になりたいのです。私にはそれが、「私はここにいるよ」と必死に叫んでいるようにさえ見えるのです。視聴数、「いいね」の数に一喜一憂してしまうのです。誰もが愛されたい、誰もがここに自分が生きているという証しを立てたい。忘れられたくないのです。
だからこそ、そんなことに必死にならなくて良い道をお伝えしたいのです。
それがパウロが伝えようといのちをかけた、キリストの福音なのです。
ありのままで愛される喜びがそこにあります。絶対忘れないでいてくださる、心の隅々までご存知の神様によって「いいね」ボタンを教えてもらうのです。
パウロは自分の承認欲求をすべて神様からもらうことに決めたので、キリストのしもべと言いました。使徒だと言いました。彼が「使徒」だと名乗るのは、自分を偉くしたいのではないのです。自分の立場を良くするためではありません。ただただ福音宣教のためです。自身の語ることばが神の権威に基づくものであることを伝えるためです。
これはとても大切です。もし、その人自身の教養、学力、経験によるとするならば、牧師も宣教師も全員ご年配の方で、極めて優秀な方しかいないことになるでしょう。若造の話なんぞ聞いていられないと。しかしながら、権威は上からのものです。
エレミヤなどは20歳ぐらいで神様から預言者として召されました。「まだ若いと言うな」と主から言われ、語るべきことを、人を恐れずに大胆に語るようにと。預言者とはまさに、神のおことばを預かって、まっすぐに語ることを旨とする働きです。語る本人の地位や立場、能力によりません。ただまっすぐに主からのことばを取り次ぐ働きですよね。
パウロは6-7節では、手紙の著者である自分だけでなく、手紙の読者たちも含めて、神様から召されているのだと展開しています。あなたがたも召されて、キリストのものとされている。神様にこれ以上ないほど愛され、「聖徒」になっているのだと言います。私たちはこれを聞いてどう感じるでしょうか。自分は「聖徒」ではないと聖なる信徒ではないと考える人もいらっしゃるでしょう。しかし、これはキリストによって与えられている「立場」です。私たちの態度や行いによるものではなく、恵みによって与えられている立場なのです。これをはく奪できる人は、この世にはいないのです。どんな力も、あなたをキリストの愛から引き離すことなどできないのです。