この世界を見渡すと理不尽なことであふれています。コツコツ努力する人が不幸な目に遭い、ずるい人が成功することがあります。優しい真面目な人ほど、他の人の重荷を背負わされることがあります。そして、今日のみことばにあるように、賢くても、愚かに歩んでも最後は同じ死が待っている。また、労苦して築き上げても、結局誰かに継がないといけません。
こうして考えると、まさに理不尽で納得のいかない世界とも言えます。では、私たちはこうした不条理な世界にあって、絶望するしかないのでしょうか。
そんなことはありません。理不尽な中にあっても、確かに良きものがあり、美しいものがあります。失われている部分があるとはいえ、やはり神の創造された良いものだからです。
それだけではありません。神のみことばは、この不条理な罪の世にあっても、希望を持って、光の中を歩むことができる救いの道を確かに示すのです。
キリストを通して、神のものとされるとき、この不条理な世界にあっても、確かな希望や喜びを見出すことができるようになるのです。この不条理な世界で神とともに生きるのならば、闇もまた暗くはありません。
不条理と思われる世界で神とともに生きる幸いを教えられましょう。
この書を記したソロモンは、振り返って「知恵」と「愚かさ」、この二つを比べてみたのです。そこには明確な違いがありました。
13節 私は見た。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。
知恵は明らかに愚かさにまさっている。光があると闇は一瞬で消え去るほど光がまさっているように、知恵は愚かさに明確にまさっているのです。「まさっている」とは、直訳では「より利益がある」と訳せます。知恵を持っている方が益をもたらすのです。
14節でも、「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。」とあります。愚かな者は盲目であり、知恵ある者は「先見の明がある」なんて表現があるように、先を見通す力があるわけです。
ところが、14節後半にこう語られています。「しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った」。知恵は愚かさより明確に優れているのに、最後に行きつくところは同じでなのです。並外れた知恵を得て賢く生きていても、遊び続けて愚かに生きようとも、結局たどり結末が同じだなんて最悪だと言うわけです。15節にある通りです。
15節 私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。
「空しい」とのことばは、ここでは「不条理、理解不能である」と訳す方が良いかも知れません。では、その同じ結末とは何でしょうか。16節にあるように、人の記憶から「忘れ去られる」ことです。世界的に人気のあるワンピースというアニメの名言にこんなものがあります。少し端折りますが、「人はいつ死ぬと思う?・・・人から忘れられた時さ」というもの。誰からも思い出してもらえないのならば、自分の存在が空気のように思われるでしょう。世界にどんなに貢献しようが、人の何倍も努力しようが、誰もが必ず死を迎えます。また、時とともに思い出されることも減っていくものなのです。
それゆえに著者は、17節で「生きていることを憎んだ」とさえ言っています。
真面目に一生懸命頑張っている人ほど、そう思えてしまう。なぜなら、そうでない人と同じ結末になることは、とても不当な結果に思われるからです。ですから、日の下で行われることは、「私にとってはわざわいだ」とさえ語られていますね。
さらに、18節でもやはり、「日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ」と語ります。この18節以降は、自分が死んだ後の話です。自分が死ぬと、自分の働きを誰かが継ぎます。そして、もう死んだ後ですから、自分は何も関与できませんよね。ソロモンは正直に本音を語りました。21節。
21節 なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。
これは「大いに悪しきことだ」とさえ言っています。他人が頑張って築き上げたものを、タダで受ける人が起こるからです。しかも、苦労せずに受けた場合、簡単にその大切なものを崩壊させてしまうことも起こるのです。
一般に「三代目が会社を潰す」ということばもあります(もちろん、いつもそうだと言うわけではありません)。二代目まではまだ、その苦労を間近で見て知っている。けれども、三代目ぐらいになると、その初期の労苦を知らないで、その恩恵だけを受け取ってしまうのです。これが「世代交代の難しさ」の理由の一つでしょう。
そうなったら、築き上げた物が、一瞬にして失われるかも知れません。労苦が大変なものであればあるほど、その実が失われることに対する「絶望感」は計り知れないでしょう。
では、どうしてこの世界が不条理にあふれるものとなってしまったのでしょうか。
最初に神様がデザインされた時の世界はどうでしょうか。創世記1章31節では、神の目にこの世界は「非常に良かった」と語られています。秩序と調和があり、公平で良いもので満ちていたのでしょう。死もなかったので、努力に対してもふさわしい実りを味わえていたのでしょう。
しかし、それを失ったのです。
なぜでしょう。
それは、人が罪を犯し、その罪の性質がこの世界に満ちたからです。
被造物のすべてがその影響を受けました。労働にも苦しみが加わりました。出産も大きな痛みを伴うものとなりました。男女の関係性も非常に歪みました。病と死が入り込んだので、忠実に歩む人が、急な病で亡くなるという、なんとも受け入れがたいことが起こるのです。パウロはそれをこのように表現しています。
ローマ8章19-20節 19節 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。20節 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
被造物のすべてが、神様のご支配ではなく、虚無に服従する状態になってしまったと語ります。それは、「服従させた方によるもの」だとあるように、神様による「さばき」であると言えます。「虚無」と訳されているのが、伝道者の書で言うところの「空」「むなしい」ということばです。神様に従うことをやめた結果、すべての被造物が虚無に従うようになった。秩序が奪われ、不条理で悲惨なことが多く起こる世界となったのです。
では、私たちはあきらめるより他ないのでしょうか。希望はないのでしょうか。そうではないのです!!20節最後にあるように望みがあるのです。神様のさばきでそうなっているのですから、この神様に助けを求めればいいのです。
この方が赦し、回復させると言っておられるのです。神様によって造られたこの世界の被造物、そのすべてはそれを望み、願っているのです。19節にあるように、被造物のすべては、神の子たちの現れを切実に待ち望んでいるのです。
では、「神の子どもたち」とは誰でしょう。キリスト者、クリスチャンです。つまり、自分たち被造物の代表である人間が、まず神と和解し、神の子として回復することこそ、被造物世界全体の希望なのだというのです。クリスチャンたちが、この世界の贖いの初穂だからです。やがて被造物全体も神様によって贖われ、新しくされることを、キリスト者の出現を通して保証されるのです。
そして、実は私たちにとって、この世界が理解しきれず、不条理も見えるのには、もう一つ理由があります。それは、神のご計画は深遠で、私たち無知な人間には、計り知れないからなのです。神様の計画の全貌がわかる人間はいないからです。
「セリ」という野菜があります。お互いに競り合うようにして育つところから「セリ」と言われるそうです。セリは、苗の時に踏みつけて、あえてストレスを与えるそうです。そうするととてもよく育つそうです。人間でもそういうタイプの方がいますね。
ただし、理由もわからず、その光景だけを見たらどうでしょう。苗を踏みつけるなんて、農作物虐待!?ひどい光景に見えるでしょう。その理由や全貌を知らないからです。同じように、神のご計画の全貌がかわらない人間には、不条理、不公平に見えるということもまた、一つの真理なのです。
本日のみことばに戻りますが、この不条理の世界において、私たちはいくらでも悲観的になることができるでしょう。私たちの周りには理不尽なことがたくさんあります。騙され、欺かれます。人の重荷を負わされ、足を引っ張られ、努力が実らないこともあります。そこだけを見ていれば答えはなく、まさに「むなしい」のです。
けれども、この不条理が人の罪に対する神のさばきなのだと知る時、むしろ希望が見えて参ります。神の救いがあるからです。また、そこには、人にはわからないけれど、神の良きご計画があるのだと知る時、絶望が希望に変ります。闇から光へと景色が一変していきます。
すべての問題を解くカギを主がお持ちなのです。
神様こそが、不条理に思える世界に、実は「美しい摂理」をお持ちなのです。
それゆえに、今日のみことばの少し後、3章11節でこう語られているのです。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
理不尽で不公平に見える世界。しかし、その奥には神の美しいご計画があります。矛盾なく調和する摂理があるのです。神を知った者たちが、これを体験できるとは、なんと嬉しいこと、幸いなことでしょうか。
私たち夫婦に最初の子が生まれたのは、神学校入学直前でした。大変なタイミングです。25歳の若造夫婦でした。慣れない子育て、慣れない学び、慣れない教会奉仕です。
けれども、私たちは、神のご計画に目を向け、この3章11節のみことばから取りました。実際、神学校では、ちょうど同世代のお子さんたちが多くいました。とても良い交わりがあり、子育ても励まし合いながら一緒にできたのです。
すべてに最善のご計画を持つ神を見上げると、理不尽な世にあっても、そこに神の美しい摂理、美しいご計画があることに気づかせていただけるのです。どんなことがあっても、主がおられる!クリスチャンはその恵み、その特権に生きるのです。
だからこそ、主イエス様は言われました。
あなたがた神の子こそ「世界の光」ですと。
神様は今日、あなたに語っておられます。
この不条理と思える世界で、わたしとともに歩みなさい。あなたがたをこの世界の光とするのだから。
不条理なこの世界で、誰もが傷つき悩み、苦しみながら生きています。実は、のうのうとずるして生きている人もまた、見えないところで悩みもがき、必死に歯を食いしばっているかも知れません。
この世界にあって、あなたは神とともに生きる光とされているのです。被造物たちが、あなたが神の子としてしっかり立つことを喜び、そこに期待しているのです。すべての罪ある世界が救って欲しいと叫ぶ中で、あなたは世に良き知らせを届ける者とされたのです。