ロマ 1章8~15節「信仰による励まし」
キリスト者は交わりによって励ましをいただきます。そして、その交わりとは、ただ長々と会話をすることとは限りません。時には、黙々と一緒に作業をすることが、良き交わりになることもあります。
いずれにせよ、キリスト者の交わりとは「信仰による交わり」であることが大切です。別の言い方では、「霊的な交わり」であるとも言えるでしょう。信仰なしに、霊的な内容がまるでない交わりは、この世の交わりと変わりなくなってしまいます。
私たちの中心はキリストの福音、それを信じる信仰です。単純作業をしている時でさえ、それを通して主の栄光が現わされるよう求め一緒に労するのです。何かの計画を立てるにしても、人の救いと霊的成長のために何が最善になるかを意識して、備えをしていきます。
パウロもここで、ローマのクリスチャンたちのもとに「行きたい」と切に訴え、励ましています。でも、それは決して世的な理由からではないのです。パウロは彼らをただ励ましているのではなく、その信仰を霊的に励ましているのです。私たちもその視点に立つことを教えられていきましょう。
さて、12節で、パウロは11節のことを少し違う視点から表現します。
12節 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
パウロは自分が賜物を用いてローマの教会を励ましたいと純粋に思いました。しかし、同時に、自分もその信仰の交わりの中で一緒に励ましを受けたいのだと言うのです。
これはとても大切な真理です。私たちが誰かを霊的に励まし、強くしようと願い求める時、実はその交わりを通して、励ます側の私たち自身も一緒に霊的な恵みを受けられるのです。ここに神様の不思議な祝福があります。
先ほどの例で言うと、私はみことばを説き明かして語ることを主からいただいた賜物として、用いていただこうとささげています。それでLINEメッセージ配信もさせていただきました。それによって、励ましたい、人々を強くしたいとの願いがありました。
しかし、私が一方的に励ましたわけではないのです。その読者の皆さんのレスポンスによって、私自身が非常に強められました。幾度も励ましを受けました。
みことばに聞いて強められている皆さんの姿。みことばに純粋に応答された姿。それによって新しい決心をされたと聞きました。支えられたとの声がありました。感謝のお手紙、メール、プレゼント、贈り物、随分色々頂戴してしまい、恐縮しています。
まったくご存じなかった方からも、この働きのために多くの献金をいただきました。
単なる贈り物ではなく、そこにある信仰が私を励ましました。霊的な祝福です。
みことばを聞いて、それに応答して生きる姿勢が、みことばを伝える者にとって、どれほど大きな励ましとなることでしょうか。家族も支えてくれました。何をしてもLINEにログインできなかった時に、家族が祈ってくれました。その祈りがささげられて程なくして、急にログインできるようになりました。皆さんの信仰によって、私も大いに励まされたのです。
この「信仰の交わり」がキリスト者の特権です!!この12節で「あなたがたと私の互いの信仰によって」と語られている通りです。神様に対するこの信仰は、互いにその信仰に触れあう時に、相互に励まされるものなのです。信仰と信仰が触れ合う時に、それが共鳴し合うかのようにして、互いを刺激し合い、強め合えるのです。このようなすばらしい恵みをいただいている者が、他に誰かいるでしょうか。
しかし、こうしてパウロがこの信仰による励ましを彼も受けたい理由は何だと思いますか。パウロの信仰が弱り果てていたのでしょうか。その励ましが何とも言えない快感だからでしょうか。そうではありません。
より豊かに神の栄光が現わされるためです。彼が信仰の交わりを通して強められることで、より福音宣教が進み、神の栄光がますます現れるためではないでしょうか。彼の目的が常にそこにあり、その大切な軸からブレていないことが、手紙全体を通してわかります。
ですから、彼がローマを訪れたいより強い目的は、励ましを与えることや励ましを受けること自体ではないのです。キリスト者が励まされることによって、キリストの救いの知らせ、福音が少しでも多くの方に伝えられ、神の栄光が現わされるという霊的な目的のためでした。私たちを愛してやまない主に喜ばれたいのです。13-15節にあります。
1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。 1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
13節のいくらかの実とは、まさに霊的実り、救いの実りです。さらに、パウロは自分が福音を伝えるお手伝いをしないなら、自分の負い目(借金)をお返しできないとまで言います。ひどい罪人なる自分が、救われたのだから、本当に良いものをたくさん授かったのだから、それだけ良くしてもらった分、お返ししないではいられないのです。ぜひ、ローマに行き、自身の賜物をささげ、少しでも多くの人に福音を伝えたいと語ります。