東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書2章24-26節「御手の中で楽しんで生きる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/07/03

伝道者の書2章24-26節「御手の中で楽しんで生きる」

*** 7/2(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書2章24-26節「御手の中で楽しんで生きる」

 我が家のベランダに鳩が卵を産みました。しかもなんと、巣を作ることなく、いきなりコンクリートの上に卵を産んでしまったのです。妻は巣を作られないように気をつけていたのですが、先に卵を産まれてしまってはどうすることもできません。

 そして、卵を二個産んでから、後付けで巣を作り始めたのです。糞や匂いなど、問題を感じながらも、神様がなさったことだと受け入れ、むしろこれを楽しむことにしました。間近で鳩の生態系の観察ができるのです。やがて2羽のヒナが生まれましたが、羽の色に違いがあることにも気づきました。個性があるのです。

 ここで鳩のヒナクイズです。何を食べて成長するのでしょう?
 1.昆虫類 2.木の実 3.ミルク 

 正解は3です。
 驚きませんか?ピジョンミルクと言うそうで、親の胸のあたりで生成され、それを嘴(くちばし)から与えるのです。

 ヨブ記において、神様はヨブに尋ねます。この世界の仕組み、様々な生態系のことをどれだけ知っているか?と質問するのです。ヨブには分からないことばかりでした。ゆえに自分の無知と高慢さを恥じました。私も鳩の姿を通して、身近な動物でありながら、分からないことが多いことを神様から教えられました。私たちは、身近にある様々な真実をあまりにも知らない。しかし知ることで、神様の創造の豊かさに改めて気づきます。

皆さんは日々、主が造られたこの世界で楽しんで過ごしているでしょうか。その中でやりがいを感じたり、興味深いものに出会ったり、主がくださる日々新たな恵みを十分に味わっているでしょうか。真面目なクリスチャンほど、楽しんではいけないかのように、思っているかも知れません。しかし、「楽しむ」ということは、この世界にある神の恵みを豊かに味わうことだと思います。

そして、私自身がこの世界を心から楽しめるようになったのは、クリスチャンになってからです。この方が、日々新たな恵みを下さいます。主の御手の中で、今与えられているものを豊かに楽しんで生きることについて、ご一緒に教えられて参りましょう。

 


1. 日々の歩みに満足を見い出せる恵み

 
 今日の直前のところまでは、この日の下における不条理について語られていました。どんなに頑張っても名前は忘れられ、自分のしたことも次の人に継がれ、どうなるかもわからないと。しかし、そうした世界にあっても、造り主なる神様の御手の中で生きる時、そこには豊かな楽しみがあることを教えられます24節をご覧ください。

24節 人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。 

 一見否定的な言い回しに見えます。しかし、決してそうではありません。美味しい物を食べたり、飲んだりすること。そして、自分の労苦の中に良きもの、満足を見出すこと。これらは良いことであって、これも神様の御手によること。人が受けるべき恵みなのです。

 私たちは誰もが、まがいなりにも働くのならば、ある程度の収益を得ることができますよね。それ自体、神様が造られた良い仕組みであり、恩寵なのです。苦労して受け取った報酬。やはり嬉しいものです。若い世代が徐々に就職していますが、初任給はやはり嬉しいですよね(ある子はTVインタビューに出ました)。

 それを用いて、美味しい物を食べ、趣味を楽しみ、誰かのために何かプレゼントができる。そうした何気ないことを楽しめるのも、神様のおかげなのですよね。神様がそのように、人の努力に対しては、良い実りがあるように世界をデザインされたからです。

 確かに、人が罪を犯し、世界がのろわれたゆえに、労働に大きな苦しみが伴います。これまで語られてきたように、労苦の実りがいつまでも残るわけではありません。失われ、忘れられていきます。しかし、だからこそ、その日その日に与えられた主の恵みを十分に味わい、恵みを数えて生きることを大事にすべきでしょう。

 私たちはどうしても、アラ探しをし、不平・不満の素(もと)を数えてしまいます。けれども、そうではなく恵みを数えて、感謝の素(もと)を探して歩みたいのです。

 「少女ポリアンナ」という小説があります。この少女は牧師である父を失った後、親戚の家に引き取られ、厳しい環境に置かれます。ただ、お父さんから教わっていた「喜びゲーム」をし続けます。毎日起こる辛い出来事の中にさえ、喜びや良いことを見出し、感謝するというものでした。次第に周囲の人々も彼女の姿に感化され、励まされていきました。

不条理で悩み苦しむ世界だからこそ、神様がその日その日に与えてくださったものを、しっかり感謝し、恵みによって強められて歩んでいきたいですよね! 毎日の暮らしの中にある、小さな神様からのプレゼントを、あなたはしっかりと味わえているでしょうか。 

イエス様も山上の説教の中でおっしゃいました。「明日のことまで心配しなくてよい。明日のことは明日心配せよ。労苦はその日その日に十分ある。」と。それは、その日に与えられた様々な労苦も十分ですが、そこには感謝、楽しみ喜びも十分与えられているということです。それをしっかり「恵み」として受け取るには、神とともに生きることが大切なのです。

 

2.神を離れては楽しめない 

 ですから、「鍵」となることは、以下のみことばです。

25節 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。 

これが結論です。伝道者の書では、ところどころ、こうして小さな結論を挟んで、神のみこころを伝えてくれてるのです。この方を離れては誰も楽しむことができないのです。

何をするにしても主を覚え、主とともに、主の栄光を現そうと労してみてください。神様はその労苦を楽しませてくれます。私たち人間は、実に、この罪の世界にあって、楽しみ方さえも神様から教えていただく必要のある者たちなのです。この方のゆえに、この方にあって楽しむことが、人生を有意義なものにする道です。

しかし、罪の世界ですから、他の人が、努力もせずに、他の人の実りを横取りするようなこともありますね。そこだけを見ていると私たちは、正しい者が損をすると考えます。けれども、そこに、もっと深い神のご計画があることを知りたいのです。罪深い横取りでは決して終わらないのです。26節に主のご計画が語られています。

26節 なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、(しかし)罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。 

 罪人は、神が「良し」と認めた人のために、集めて蓄える働きに終始してしまうことになるというのです。ここで言う罪人とは、神を信じないゆえ、罪を赦されていないままの人のことです。赦しを拒んでいる人。そうした人は神が任せたいと思う人のために、「集めて蓄える仕事」で終わってしまうと言うのです。

 これは他の聖書箇所でも語られています。例えば、箴言1322節では、「罪人の財産は正しい人のために蓄えられている。」とあります。正しく用いる人、貧しい者に施すような人たちにこそ、神様は罪人たちの財産をまわされるのだということです。これは、新約聖書でも同様です。ルカの福音書19章では、主人に財産を任された者が、それをふわしく用いなかったために、取り上げられ、他の有効に用いる者に渡されるという話があります。

 主は、ご自分のみこころを行う者に、より多くのことをお任せになり、報いも増し加えてくださるのです。ですから、私はクリスチャンは貧乏で居続けましょう!とは少しも思いません。一生懸命働き、豊かに収益を与えられ、主のみこころのために存分に用いて、豊かにされて欲しいと思います。神様が、ご自分のみこころを行う人に多くを任せたいと思うのは、ごく当然のことですよね。私たちはこの方の正しいジャッジを信頼して、忠実に歩みましょう。

 

そして、26節最後に「これもまた空しく、風を追うようなものだ」とあります。このままだと少し違和感を覚えます。

ここは「空しい」とせず、「不思議」だとか「神秘」といった意味で理解すると良いかも知れません。「空しい」と訳されることばには様々な意味があり、「人にはわからないもの」といった意味で理解することもできるようです。

ですから、罪人には厳しく理不尽に見えるのでむなしいのですが、神の側に立つのならば、そこには神の深くて不思議なご計画があるのだと受け止めることができるでしょう。神様にしか分からない不思議な摂理がある

ゆえに、すべてを「悟ろう」としても、それは風を追うようなものなのです。わからないものを「わからない」として、主の御手にゆだね、与えられたことを忠実になすこともすばらしい信仰です。なぜなら、主は良いお方だからです。

たとえ一時的に悪く見えることがあっても、神様は必ず、ご自分が召した者たちのために、良き物をもたらしてくださると信じて参りましょう。神様がどのようにしてくださるのか。主に期待して楽しみにしていくこと。これもまた神様からの恵みなのです。

今日、神様は私たちに語っておられます。私たちはその日その日の労苦とそこにある恵みを十分に味わい楽しんでいるでしょうか。ないところばかりを見て嘆いていませんか。与えられているすばらしい恵みとその深みを全然知ろうともせず、ただ苦しくなってはいないでしょうか。

25節 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。

 神様から離れては本当の意味で笑顔になることはできません。神様が楽しませてくださるのでなければ、本当の楽しさはありません。神から離れていた私たちのために、神の御子イエス様が、神としての栄光さえも手放してくださいました。イエス様がすべてを捨てて貧しくなられたゆえに、イエス様を通して神と和解する者が、すべてを得て豊かにされるのです。

私たちの信仰生活は、決して楽しみのない苦行のようなものではないのです。そこには喜びも楽しさもあります。毎日必ずすばらしい恵みがあります。この世界に与えられた様々な労苦の中にさえ喜びを見い出せます!その労苦から来る実りを、豊かに楽しんで生きることのできる救いの道なのです。




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