東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書1章16~17節「福音とは何か」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/07/05

ローマ書1章16~17節「福音とは何か」

*** 7/5(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書1章16~17節「福音とは何か」


「福音」Good NewsGospel、 ギ:エウアンゲリオン
狭義では、「キリスト(救い主)の到来という良き知らせ」

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは・・・」(第一コリント15:3

① キリストが私たちの罪ために死なれたこと

② 葬られ、三日目によみがえられたこと

 これらは、「福音」の中でも「最も大切なもの」として伝えられている。では、それ以外は大切ではないのか。福音ではないのか・・・ そんなことはない。「最も大切」ではないかも知れないが、「大切なもの」がいくつも存在する。
 

広義では、神のことば(Gospel)全体が良き知らせ、「福音」と言える

:聖書が誤りなき神のことばであること(これがないと十字架もわからない)。神が聖なる良いお方。神の創造のみわざ(愛を込めて)。三位一体で愛の神(神は愛なり)。御霊が与えられていること(救われた信仰生活の維持、成長)。教会がキリストのからだであること。再臨と新天新地など・・・

 

福音はいつから存在しているのか。

ローマ1:2「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので」と語られている。旧約時代の預言者たちを通して語られた知らせも福音であると理解されている。その内容として「御子は肉によればダビデの子孫から生まれ」(3)と、ダビデ王の子孫として生まれたこともまた福音の一部とされている。

 ペテロは、使徒2-3で、旧約の預言者たちを引用しながら、キリストを指し示して語っている。旧約全体でもキリストの福音は語られ続けてきた(イザヤ書は旧約における福音書とも言われる)究極的には創世記1:1から福音は始まっていると言える

 だから、福音は未信者のためだけでなく、既にキリストを信じている者にも語られ続ける必要がある。ローマ1:15にてパウロはローマのキリスト者たちにも「ぜひ福音を伝えたいのです」と語っている(その地域で伝道したいし、同時にクリスチャンたちにも福音をさらに伝え、その信仰を強めたいというパウロの願い)。

 

ローマ1:16 パウロはこの「福音を恥としません」と語る。

 きっすいの律法主義者であったパウロ。これまで、似て非なるものを彼は福音だと勘違いしてきた。それは神から出ておらず、人から出た教えであった。 



 人間は弱い。「律法主義」を反省し、反発し過ぎると、真反対の「無律法主義」に陥る。その逆もそうで、「無律法主義」への反動が「律法主義」を生みやすい。私たちはそのどちらの極端も避け、福音に立ち続けよう。なお、福音には、さらに③の矢印が存在する。それは何か。人が神の恵みに応答してささげて行く時、主がさらなる恵みを増し加えてくださることが③の矢印である(下図)。


パウロはかつて、キリストの福音を信じる者たちに「恥を知れ」と言ってきたに違いない。しかし、パウロが信じて来たものこそ、創世記の初めからあった福音ではなく、後に人間が律法を自分たちの考えで変えてしまった「ユダヤ教、ユダヤ主義」である。ユダヤ教の起源を創世記とする考え方があるが、実際に創世記で語られていたことは、キリスト教の「福音」であって、それらを私たちはユダヤ教とは言わない。天地創造が神の三位一体の共同のみわざであることは明確であり、人が罪を犯した時にも、すでにキリスト預言がなされている(創世記3章)。パウロはかつての律法主義の自分を恥じ、今はどんなに批判されても福音を恥としない。なぜなら、それが聖書の真実だから。

私たちはこの福音に堅く立ちたい。

私たちも福音を信じるゆえに、あるいは福音を伝える際に、否定され、批判され、伝えることを恥ずかしいと思うことがあるに違いない。いくらかの「心当たり」があるだろう。しかし、福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力。ユダヤ人から始まっているが、ギリシア世界のあらゆる人種、民族に伝えられ、救いをもたらすもの。いや、世界中で語られるべき良き知らせである。

福音の恵みには一点だけ、それを受けるための明確な条件がある。それは「信じる」ということ(16)。どこの国の人でも、どの世代の人でも、どんな背景を持っていようとも構わない。けれども、唯一明確なのは、福音を信じることがなければ、救いはそこに起こらないということ。それは神の救いの恵みに対する、私たちの応答である(上図で②に該当する)。恵みを信じて、その恵みに応答して自分にあるものをささげ、みことばに信頼して行動していく。そこにさらなる主の恵みが増し加えられる。ただし、ここでは救いをもたらす「神の力」と語られている(図①)。神がくださった救いの恵みを、そこにある「神の力」を信頼することである。

 

ローマ1:17 「福音には神の義が啓示」されている。「義人は信仰によって生きる」とある。「義とする」とは、罪人を正しいとする行為ではない。私たちは正しい者にはむしろ程遠い。善人に変えてくださるという意味でもない。それは、罪人であるのに、キリストの義を着せてくださって、その罪を問わない、無罪としてくださるということ。 

罪を犯して来た者、さらにはまた犯す者であるにも関わらず、「罪人としての扱い」を全くやめてくださるということ。「神の子」として、愛の中で多くの祝福を受ける幸いな者としてくださること。さらにはここから、聖なる者となし、きよめ続けてくださるということ。

 私を義としてくださる主を信頼して生きよう。それがキリスト者の生きる道。ゆえに、義人は良い行によって義と認められるのではなく、神の救いの力を信じる信仰によって生きるのである。律法主義的でもなく、無律法主義的でもなく、福音に生きていこう。





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