*** 7/9(日)主日礼拝 説教概略 ***
第一ヨハネ2章15-17節「過ぎ去る世と永遠のいのち」
先週、我が家のベランダの鳩の話をしました。現在二羽のヒナが元気に育っています。鳩を毛嫌いしていた妻が、毎日写真を撮っていることにも驚きですが、メスだけでなく、オスも交代で卵を温めていたことに気づき驚いています。さらには、なんと、オスもミルクを胸で生成して、与えることができるそうです。これらに気づけたのも、スマホのアルバムを鳩の写真でいっぱいにしている妻のおかげです。
鳩は一夫一婦制で、浮気もせず夫婦で一緒に子育てをするそうです。私たちも見倣わないといけませんね。ただ、私たちは本能ではなく、愛の故にそれを選び取っていく者です。他の誘惑がある中で、愛の決意のゆえに、大切なものを大切にしていく。
そこに、神のかたちに造られた人間のあるべき美しさがあります。
私たちは愛すべきものを愛しているでしょうか。
我が家が愛していたレストランがありました。一般家庭よりほんの少しだけよく食べる家なので(笑)、安くてたくさん食べられるお店は、ありがたい存在でした。しかし、ある時行きましたら、あるはずの場所に「ない」のです。跡形もないのです。閉店というお知らせを見ることすらなく、何もなくなっている状態に呆然としました。
いつでもあるとは限らないのですよね。
ご存じの方もいらっしゃいますが、我が家の車も購入後わずか3か月で、停車していたところに追突され、あえなく事故車になりました(笑)。修理して、幸いにもその後問題なく、14年ほど乗ることができており感謝しています。しかし、いつまで乗れることやら・・・。
どんなに良いものも、どんなにお金や手をかけたものでも、この世にある物は必ず朽ちていくものです。必ず終わりを迎えます。私たちはそのことをきちんと心に留めて生きる必要があります。ですから、何に価値を置くのか。私たちが愛しているものは、本当に大切なものなのか。問われるのです。
あなたが時間も財も心も注いでいるそれは、本当に大切で、いつまでも残るものでしょうか。
神様はあなたを幸せにしたいと語っておられます。過ぎ去り消えていくこの世の物に心を奪われてはならないと。置かれたところで、与えられた恵みをその日その日で感謝して味わいつつも、やがて消え去るものを握りしめず、心を奪われず、いつでも永遠のいのちに歩みましょう。
15節 あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。
「世を愛してはいけません」と語られています。
しかし、一方でヨハネの福音書の有名なみことばを私たちは知っています。そこでは、神はご自身のひとり子を与えるほどに「世を愛された」と語られています。神様ご自身が世を愛されたとあるのに、なぜ、ここでは「世を愛してはならない」と教えられているのでしょうか。
それは、まず、神様が「世を愛された」とおっしゃる場合、人間を愛しておられるという意図があるからです。人が罪の影響によって滅びていくことがないよう、人を救い出したいと願う愛ゆえに、御子イエス様を救い主として送ってくださったのです。
ですから、人を神様から遠ざけ、不幸にしてしまうこの世の様々な悪しきもの、罪とその誘惑を憎んでおられるのです。それこそが、ここで語られている、「世も世にあるものも、愛してはいけません」と言う意味でしょう。
それは16節を読むとより明らかになります。
16節 (なぜなら)すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。
原語では16節の最初に「なぜなら」と訳せることばがあります。15節に続いて、「なぜなら、ここで言う世とは、『肉の欲』『目の欲』『暮らし向きの自慢』といった、この世の欲望、罪の欲を指しているからなのだ」と語られているのです。
それらは人を神様から引き離してしまいます。本当の幸せから引き離します。それが神からではなく、罪の世から出たものだからです。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢。これらが私たちを神様から引き離し、まことの愛や真実から引き離し、滅びを招いてしまうということです。
具体的に考えてみましょう。
① 肉の欲 これらはガラテヤ書やコリント書等で語られています。そこには、性的な逸脱、ねたみや争い、偶像礼拝や魔術、暴飲暴食(アルコールの問題)。かつて韓国の外交官で、ジュネーブ駐在やニュージーランド大使を務めた人。お酒とタバコに依存し、日曜日は礼拝に出ていた。ある日の礼拝の賛美の時、奥さんが口を塞ぎました。ご主人があまりにもお酒臭かったから。その息で神様を賛美するのか?と。教会の執事もしていたそうです。この人はそれから悔い改め、バイブルスタディにも参加し、お酒なしでもこんなに良い交わりができるのかと気づいた。やがて牧師になり、70歳で牧師の定年を迎え、聴くドラマ聖書のリリースなどに携わる働きをしています。あるいは趣味や遊びも極端にはまり、依存状態になることも私たちにはあり得ることです。学生時代、ある真面目なクリスチャン知人がいました。この人は真面目だから、何かにハマるなんてあまりないのだろうと思って聞いてみました。すると意外な答えが返ってきました。自分は以前ゲームにものすごくハマって、それこそ食事もとらず、睡眠もとらずにやってしまった。それで、これは身を滅ぼすと思って、あまりしないようにしたんだと言っていました。私たちの周囲には、私たちの欲を刺激し、誘惑するものが多くあります。この世はまさに、人間のこうした欲を際限なく刺激し、財産・時間・体力を搾り取り、疲弊させるのです。
② 目の欲 目から入る様々な誘惑です。この世は見た目の欲に弱いのです。多くの誘惑は目から始まるとも言われます。見た目の良いものにお金も心も注ぎます。また、外見を良くするためには、お金をいくらでもかけるという人がいます。親が自分の外見を保つため、自分の趣味のアイドル応援のため、そこに財も時間も注ぎこみ過ぎて、子どもへの愛も学費・食費までも削られ、子どもたちが非常に傷ついているケースも少なくありません。私たちは見るべきものから目をそらし、見るべきでないものや見ないでも良いものに、時間と財を投げうってはいないでしょうか。時に立ち止まって、自分の人生を真剣に考えていくこと、大事にしてください。
③ 暮らし向きの自慢 これはどうでしょうか。これは、どれだけの立場や地位や物を所有しているかいうことでししょう。その自慢、プライドです。そこには常に他の人との「比較」があります。この誘惑は、私たちのプライドに訴えかけ、名誉欲に呼びかけ、他の人と比較する思いを掻き立てます。そのような欲が食い物にされるのです。他の人に負けないように!他の人より少しでも見栄えのするものを!この欲には際限がありません。 ある子が親から買ってもらったおもちゃを気に入って一人で遊んでいました。ところが、別の子がそこにま新しいおもちゃを持ってやってきました。その子は新しいおもちゃを見せびらかすようにして遊びます。すると、最初にいた子は自分のおもちゃが急に「つまらないもの」のように思えました。そして後から来た子のおもちゃを欲しがるようになりました。自分が親からもらったおもちゃ、何も悪くなっていません。壊れたわけでもないのです。ついさっきまで、楽しく遊べていたのです。他の子と比べた瞬間、価値を見失ったのです。物の価値を貶めてしまうのは、人間自身なのだと気づきます。
私たちはこのように、神様からもそこにある幸せからも引き離す罪の誘惑について、しっかりと気づき、主なる神様のみこころに立ちたいのです。
誤解のないように申し上げますが、神様は決してこの世にあるものを楽しむなとはおっしゃっていません。先週学んだように、むしろ、与えられているものを本当に神様に感謝して、十分に味わうことは良いことなのです。食欲も、性欲、好奇心も大切な良いもの。健全なルールの中で用いるのならばとても幸せなものです。
しかし、それらを神様以上に愛するようになると、つまりそれらが神のようになると、人はそれらの奴隷となってしまいます。滅びに向かっていくのです。優先すべき神様を無視して、自分の欲を神様の席に座らせてしまう時、私たちは罪の奴隷の人生を選ぶことになるのです。
どんなに良きものも、罪の欲の言いなりになって用いるとき、それらは滅びをもたらす凶器にさえなってしまいます。
あるセミナーで、別の教会の青年に会いました。彼は音楽を愛していました。しかし、彼自身、非常に罪深い生活を送ってきており、悪いことをたくさんしたということでした。でも、教会に導かれ、少しずつ変えられてきたと言います。彼は体にタトゥーもあり、ことば遣いもキレイではありませんでした。ただ、彼は牧師に言われたことばを心にしっかり留めていました。彼の好きな音楽。その音楽を「悪のしもべ」にしてはならない。「罪の道具」にしてはならないと言われたというのです。むしろ、音楽を、その造り主である「神のしもべ」としなさいと言われたと。音楽を欲望の道具にしないで、悪を広める道具にしないで、人を慰め励まし、希望を与えるもの。そのようにして神のみこころを行うものとして用いなさいと。彼は、本当にそうだなと思えたようで、その価値観に立って、歩んでいこうとしていました。
神様はこの世界に良いものをくださっています。しかし、それらの良きものを、この世の罪深い価値観に流されて、罪の道具、悪のしもべとしてしまってはなりません。それこそ、世と世にあるものを愛してしまう歩みです。
イエス様は、誰も二人の主人に仕えることはできないとおっしゃいました。一方を憎んで他方を愛することになるからだとおっしゃいました。お金を一番に愛しながら、お金を喜んでささげて人を助けることはできないでしょう。
17節 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。
ここにある「神のみこころ」を行うとは、どういうことでしょうか。
もちろん、聖書のみことばに従って生きることは言うまでもないでしょう。ただ、ヨハネが「神のみこころ」について言及している場面を調べていくと、人の救いを求める内容であることに気づきました。特にイエス様が、人々が滅びないで永遠のいのちを持つことが、神のみこころであると語っていることをヨハネは紹介しています。イエス様を信じる者が永遠のいのちを持ち、終わりの日、神の御国で彼らがよみがえることができるように。まさに人の救いのために生きるならば、その人は神のみこころを行っているのです。そして、その人こそ、永遠に生きる者であります。
皆さんに神様からゆだねられた尊い人生です。すぐに過ぎ去っていく世の奴隷となって、人生を終えるような悲しい歩みをしないようにしたいのです。人の救い、本当の人の幸せのために、愛と信仰と希望とに生きましょう。それは一時的ではありません。いつまでも残るのです。
ですから、神様から引き離すこの世の誘惑を歓迎する者とならず、御霊によって勝利し、むしろ、その滅びの罠から人が幾人かでも救われるように。大切なものを大切にできる価値観を語り告げましょう。 永遠のいのちに至る道を証しして参りましょう。