東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 使徒の働き1章12-14節「祈りの備え」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2023/07/28

使徒の働き1章12-14節「祈りの備え」

*** 7/26(水)祈祷会 説教概略 ***

使徒の働き1章12-14節「祈りの備え」

 本日は「祈りの備え」の大切さを教えられて参ります。
 このみことばの背景を少し確認いたしましょう。どのようなタイミングの出来事だったのでしょうか。9節をご覧下さい。 

9節 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

 ここにあるように、イエス様がついに天に帰って行かれたすぐ後でありました。そして、この後2章に入ると、ペンテコステが起こりますよね。聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子たちによって、福音が世界各地に伝えられていきます。わずかな人数から始まったキリスト信仰ですが、世界中に広がるのです。

 今日の場面は、イエス様が天に昇られた出来事と、ペンテコステの間に起こったことだと分かります。御霊が注がれる直前、弟子たちはどこで何をしていたのでしょうか。

 まだ、御霊は来ないのだから、とりあえずのんびりぼ~っとしていたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは主のみこころに従って備えていました。これから起こる主のみわざに対して、良い準備をしていたのです。

 良い働きのためには良い準備が必要ですよね。では、それは何でしょうか。

 それは、父の約束を待ち望み、皆で心を一つにして祈るということでした。使徒たちの準備は、汗だくになって動き回る準備ではなかった。静まってみことばに聞き入り、心を一つにして祈り続けるという備えだったのです。

3つのポイントからこの祈りを学びます。

 

1.  主のみ声に聞き従う祈り

1:12 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。 

 弟子たちはオリーブ山を去ってエルサレムに帰ったと記されています。なぜ、彼らはエルサレムに帰ったのでしょうか。このオリーブ山は再臨の日に主が来られる場所として信じられていましたし、イエス様と別れた名残り惜しい場所でもありました。人間的には留まりたい思いもあったでしょう。けれども、彼らはオリーブ山に執着することをしませんでした。

 また、11節の天使の言葉に「ガリラヤの人たち」と語っているように、彼らの実際の故郷はエルサレムではなく「ガリラヤ」でした。なぜ、彼らはオリーブ山に留まるわけでもなく、ガリラヤに戻るわけでもなく、エルサレムを帰る場所としたのでしょうか。

 それは主イエス様のおことばだったからです。少し前の4節に、「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい」との主のことばがありました。この主のことばに従ったのです。

 さて、このようにして彼らは移動すると、宿泊していた宿の「屋上の間」(アッパールーム)に集まりました。そこはおそらく最後の晩餐の場でありました。交わりと祈りの場所です。彼らはとにかく主イエス様のおことばに忠実に、エルサレムに留まり、ひたすら祈りながら主の約束を待とうとしたのです。

 また、14節を見ると、この部屋にはイエス様の実母マリヤが一緒に加わっていると分かります。ここに加わっている理由は何でしょうか。それは、イエス様が十字架の上から、弟子に命じたゆえでした。これからはこのマリアをあなたの母親のように支え、一緒に歩んでいきなさいと弟子に託したのです。ですから、ここにイエスの母マリアがいるという事実もまた、弟子たちが主のみことばに従ったという姿勢を現しているのです。

 このように祈る時にまず大切なことは、主のみことばに従って祈ることです。みこころから離れて祈っても、それは自分本位な願望を訴えるだけのものになりがちです。そうではなく、必ず「主の声に聴いて祈る」ということが大切です。み声に聞きつつ祈ることが、主のみこころを知る最良の道です。

 

2.  心を一つにする祈り

 さて、彼らの祈りはまた、14節にあるように「心を一つにする祈り」でした。

1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。 

 そこにはイエス様のすぐおそばにいた弟子たちの他、婦人たちも加わっていました。屋根裏部屋のような、決して立派ではないような部屋の中で、彼らは心を一つにして祈っていたのです。ここで使われている「心を一つにして」とのことばは、私が調べた限り新約聖書で11回登場しています。そして、そのうち1回だけローマ書で使われていますが、それ以外の10回はすべて、この使徒の働きで使われているのです。教会の成長と福音の前進を語る使徒の働きです。教会の成長や宣教において、「心を一つにして」ということが、とても重要なキーワードであると気づかされます。

ただ、どうしたら心が一つにされるのでしょう。

それが問題ですよね。使徒たちが一つになれたのは、なぜでしょう。何によってでしょうか。それはみことばです。多少の解釈、受け止め方の違いがあろうとも、主のみことばにまっすぐに向き合う姿勢です。考え方が似ている者同士が集まるからではなく、強いリーダーを恐れて一致するのでもありません。同じ主のみことばに従って、ともに祈り続ける姿勢が一致をもたらします

そして、祈れば祈るほど、主のみこころがわかる者とされていきます。自分勝手な祈りから、主を賛美する祈り、主に従う祈りへと変えられていきます。主のみこころに各人が近づくのならば、一致に向かうことは自明の理であります。細かな部分では意見が分かれても、イエス様が神の御子、救い主であるという点を否定する人は、この交わりにはいないはずですから。

兄姉と互いのために祈り合う交わりが一致をもたらしていくのです。「祈りの共有」、「祈りのコイノニア」です。ですから、祈り合う時には、通りいっぺんのことだけでなく、心の葛藤や深刻な悩みも分かち合い、ともに悩みながら主に祈るのです。しかし、そこに主の光が与えられる時、それをともに喜ぶことが出来る者とされます。

 

3.  心を注いで祈り続けること

 14節には、もう一つカギとなることばが存在しています。最後に「いつも心を一つにして祈っていた」とあります。実はここには「断固として続ける」とか「忠実に続ける」ということばがあります。おそらく、「いつも~していた」と訳すことで、その意味を出そうとされたのだと考えます。しかし、もう少し原語のニュアンスを出すのならば、「祈りに打ち込んでいた。忠実に祈り続けていた」そういった感じになるでしょうか。

 なお、以前の訳では「祈りに専念していた」とされていました。

 南地区合同婦人会では、ハンナの祈りについて教えられました。そこでは「心を注ぎだして神に祈っていた」ということが語られていました。まさに、この時弟子たちは、片手間で祈るのではなく、祈りを自分たちができる最善のこととして、心を注いで祈り続けていたということです。

 しかし、しばしば私たちは、祈り以外のことに忙しくしているのではないでしょうか。「忙しいのであまり祈る時間が取れないのです」ということを耳にします。しかし、いつでもみことばはその逆を教えています。忙しく大変な毎日だからこそ、祈り続けなさいと。心と一つにして祈りに打ち込みなさいと。

 ルターのことばは有名ですね。「私は毎朝最低2時間祈らないと、サタンにやられてしまうだろう。いや、あまりにも多くのすべきことがあるので、3時間祈らなければやっていけない」と。

 主イエス様は、忙しく働くマルタに対して、本当に大切なことは一つですと語りました。それは、主イエス様のそばにいて、主と語らうことでした。主と心を通わせることでした。

 どれだけ祈ったかは、見えません。けれども、その目に見えない準備こそが最も軽んじられやすく、一方で最も重要なのです



 神様は語っておられます。心を合わせて祈りに打ち込む者となりなさいと。見える奉仕にばかりとらわれず、見えない祈りの奉仕にまい進しなさいと。そして、この祈りの備えがどのような実を結んだのか、私たちは知っています。この後、御霊を受けた弟子たちを通して、本当に多くの人々が救われていきました。各地に福音が広がりました。それは、祈り続けたキリスト者と主の御霊の協力のわざとなったからです。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *