東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2023/08/01

第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」

*** 7/30(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」

 今日のテーマは「とどまる」ということですが、残念ながら我が家のベランダの鳩は、とどまることなく、つい昨日、巣立っていきました。約2か月、我が家のベランダで同じ屋根の下暮らしてきましたので、少しさみしい気もします。

 さて「とどまる」ってどういうことなのでしょうか。「とどまる」とは、「同じところに居続ける」という事です。

ですから「みことばにとどまる」ということは、そこから外れたり、離れたりしないこと。ちょっと変えてしまおう、アレンジしようではなく、どんな時でも主のみことばそのものに立ち続ける事です。

「キリストにとどまる」ということも、イエス・キリストを絶えず見上げ、いつもイエス様とともにいることですよね。けれども、それがわかっていながら、私たちはそれが思うようにできない。
とどまろうとしているのに、受け入れがたい出来事が来ると、様々な重圧がのしかかると、イエス様を忘れてしまいます。みことばも頭をよぎらず、自分でどうにかしようと必死になり、イライラし、ことばもきつくなり、すべてが空回りしていきます。いざという肝心な時ほど、祈らず、みことばを思い出さず、イエス様を心の隅に追いやっています

自分の人間的努力で信仰に立とうとする時、かえって主のなさる働きを滞らせてしまうのではないでしょうか。

本日のみことばは、御子のうちにとどまるよう、まっすぐに教えています。そこに「永遠のいのち」の祝福があふれているからです。ご一緒に教えられていきましょう。

 

24 あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。

 初めから聞いていることをあなたのうちにとどめよと教えられています。では、「初めから聞いていること」とは、何でしょうか。それは、新しく創作された教えではなく、初めからあったみことばそのもの、福音です。

 時々、新しい教えは新鮮で魅力的に見えます。聞いたことがない新しい教えだ!と。でも、みことばは変えてはいけません。時代が変わったのだから、新たに色々付け加えようとか、もうこれは昔のものだから削除しようなどとしてはいけないのです。聖書自身がそう命じています。

 初めから語られている主の教え、基本中の基本を大事にし続けるよう励まされています。とことん、主のことばに立つよう励ますのです。すると、どうなるでしょうか。

 24節の最後にある通りです。初めから聞いていることをその人のうちにとどめるなら、それは御子と御父のうちにとどまることになると語られています。イエス様が救い主、一番の宝物だと、初めからの教えにとどまるなら、御子のうちにある「永遠のいのち」を受けることになるのです。

それは、主イエス様が確かに約束してくださったことなのです。25節です。

25 これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

 聖書のことばを神のことばとして信じて、イエス様と父なる神様のうちにとどまるならば、その人には「永遠のいのち」が与えられているのです。この「永遠のいのち」は、この手紙の著者ヨハネが書いた福音書でも繰り返し語られ続けてきた神様からの賜物です。

 実はヨハネ以外の3つの福音書では、「永遠のいのち」ということばはあまり出てきません。しかし、ヨハネの福音書では、「永遠のいのち」ということばは、17回ほど登場します。多いですね。それらを調べてわかることがあります。

 それは、神の御子イエス様には永遠のいのちがあること

 そして、そのイエス様を受け入れ、イエス様のうちにとどまる者なら、その人も永遠のいのちを持つのだということです。

 では「永遠のいのち」とは何なのでしょう。それは、死んだら始まるものではなく、イエス様を信じたその瞬間から得られるいのちで、もはや誰にも奪われることがないものです。

 しかもそれは、キリストと一つにされて、同じいのちを生きていくことです。父なる神様と、いつでも絶え間なく親しい愛の交わりの中に生きるいのちのことです。

 神様があなたの父となってくださり、恵みと祝福、多くの助けをくださいます。もちろん、天の御国に確実に入ることができるいのちでもあります。 

 ヨハネはこう続けます。26-27節です。

26 私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。27 しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。  

 年老いたおじいちゃんヨハネは、若いクリスチャンたちをわが子、わが孫のように愛し、心配しています。そのために、「惑わす者たち」についても書いてきたのだと言うのです。皆さんも大事な子ども、孫、甥っ子、姪っ子。彼らに惑わす者、悪い虫が近づかないよう、目を光らせているのではないでしょうか。愛しているから、大切だからこそ、そうした注意を促すわけです。

 ヨハネも愛するゆえに注意を促しつつ、本当に伝えたいこと、御子イエス様のうちにとどまりなさいとのことばを繰り返しています。

27節で、「御子から受けた注ぎの油」があなたがたにはとどまっている。だから「誰かに教えてもらう必要がない」と語られていますよね。それは、もちろん、牧師や教師から聞く必要がないという極端ではありません。あくまでも私たちの真の教師はイエス・キリストとその御霊であるということです。人間から出る新しい教えではなく、もうすでに、十分に必要な教えがみことばから、キリストの御霊を通して与えられているということです。

つまり、新しいことは何も求められていないのです。応用が苦手な皆さん、アレンジが苦手な皆さん、安心してください。色々と付け足すようにとも、アレンジせよとも語られていません。むしろ「教えられたとおりに」が良いというのです。それこそ神様に喜ばれる姿勢であると。

なぜなら、既に啓示されている聖書の教えそのものが「真理」であり、それ自体で完成しているからです。

イエス様も「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も父のもとに行くことはできません」とおっしゃいました。

イエス様ご自身が道、真理、いのちそのものなのです。十分でしょう。

ただ、この「教えられたとおりに」ということが意外にわからないのです。

中国奥地に生涯をささげて宣教したハドソン・テーラーという方がいます。

彼はその中国にてお子さんを失い、後には奥さんも失いました。本当に苦難の連続でした。ある時、苦しみと重圧の中、彼自身、信仰の低迷を非常に感じていました。感謝も喜びも失われていました。もう何をしても力が出ない。信仰がイキイキとしないのです。

その時のことについて彼はこう言います。
「もしも、キリストの中にいることができさえするならば、すべては良くなるだろうと知っていたが、私はそれができなかった」と。さらに「信仰を願い求めるが得られず、信仰を行使するが無駄に終わった」とも言っています。

彼は、一瞬でもイエス様から目を離さないようにするのですが、仕事の重圧や、働きを妨げられることで疲れ果て、しばしばイエス様を忘れてしまうのでした。こうした中で苛立ち、言動も愛のなきものとなり、毎日罪と失敗の繰り返しだったと言います。心当たりがある方も少なくないのではないでしょうか。私自身も心当たりがあります。とても共感を覚えました。

しかし、ある時彼は、友人の手紙を通し、神の御霊の助けにより、シンプルな真理に気づかされたのです。

それは、「わたしたちとイエス様は一体である」という真理でした。

信仰を求めて努力するのではなく、「あなたを決して見捨てない」と言われる主にただ寄りかかることであると。

実にこの点について、ヨハネの福音書の中に、ピッタリのイエス様のたとえ話があります。「ぶどうの木」のたとえ話です。ヨハネの福音書155節をお開きください。 

15:5  わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。 キリストにとどまるということは、キリストという良い木の枝となることです。同じ木の一部となり、一体となることです。主イエス様は良い実をもたらすお方です。この方が良い実を生むならば、同じ木の一部とされている私たちも良い実をもたらすことになります。

ハドソン・テーラーもこのぶどうの木の例えを用いながら言います。彼は大きな間違いを犯していたと。主から活力や満たしを取り出そうと努力したことが間違いであったと言います。取り出そうと自分の力で必死になることで、かえって根や木から流れてくる祝福を遮ってしまっていたのです。活力も満たしも、取り出そうとせずとも、それは私たちのものとされているのです。ぶどうの木とは、根や幹だけでなく、枝も葉も実も含めて全部でぶどうの木です。それはすでに、イエス様と私たちが一つになっているということです。

「主よ。ともにいてください。」としばしば祈ることがありますが、常にともにおられて一つなので、その祈りは不要なのです。だから、キリストが富んでおられるのに、私が貧しいということはあり得ないのです。「私は全然ダメです」と自分を全否定することがありますが、私と主とは一つのからだとされているのですから、それはイエス様の力がまるで無力であると言っているようなものです。

わたしのものはすべて、あなたたちのものだとさえ、言ってくださるお方です。放蕩息子の話で、父のもとにいて不満だらけだった長男に父は言いました。「子よ、おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部おまえのものだ」と。この恵みを見失う時、私たちは枯渇するのです。

もう同じからだ、同じ骨、同じDNAをキリストと共有しているのです。こうして、イエス様といういのちの泉から無限に飲み放題の者とされているのに、そこから飲まず、別の井戸を求めるので渇くのです。

ですから、キリストにとどまるとは、信仰を持とうと努力することではありません。神様によって私が働くのではなく私を通して神様が働いてくださると知ることです。もはや、私が生きているのではなく、キリストご自身が私の中に生きてくださっているのです(ガラ2:20)

 

これが、教えられたとおりに御子のうちにとどまるということです。

 神様は、これらのみことばをもって、今日も私たちに語っておられます。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたのうちにとどまり、あなたとわたしはもう離れることはなく、一つとされているのだ」と。

「なぜ、遠くの何かに求めるかのように生きるのか。わたしとあなたは、もう一つではないか」と。とどまっているなら、主が実を結ばせてくださらないはずがありません。

 獲得しようと必死にならずとも、必要なものはすべてキリストのもとにあり、それ以上に豊かに、値なしに与えてくださるのです。御子のうちにとどまるとは、なんと豊かで満たされたことなのでしょうか。感謝と喜びのうちに御子にとどまって参りましょう。 




教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *