第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」
今日のテーマは「とどまる」ということですが、残念ながら我が家のベランダの鳩は、とどまることなく、つい昨日、巣立っていきました。約2か月、我が家のベランダで同じ屋根の下暮らしてきましたので、少しさみしい気もします。
さて「とどまる」ってどういうことなのでしょうか。「とどまる」とは、「同じところに居続ける」という事です。
24節 あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。
初めから聞いていることをあなたのうちにとどめよと教えられています。では、「初めから聞いていること」とは、何でしょうか。それは、新しく創作された教えではなく、初めからあったみことばそのもの、福音です。
時々、新しい教えは新鮮で魅力的に見えます。聞いたことがない新しい教えだ!と。でも、みことばは変えてはいけません。時代が変わったのだから、新たに色々付け加えようとか、もうこれは昔のものだから削除しようなどとしてはいけないのです。聖書自身がそう命じています。
初めから語られている主の教え、基本中の基本を大事にし続けるよう励まされています。とことん、主のことばに立つよう励ますのです。すると、どうなるでしょうか。
24節の最後にある通りです。初めから聞いていることをその人のうちにとどめるなら、それは御子と御父のうちにとどまることになると語られています。イエス様が救い主、一番の宝物だと、初めからの教えにとどまるなら、御子のうちにある「永遠のいのち」を受けることになるのです。
それは、主イエス様が確かに約束してくださったことなのです。25節です。
25節 これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。
聖書のことばを神のことばとして信じて、イエス様と父なる神様のうちにとどまるならば、その人には「永遠のいのち」が与えられているのです。この「永遠のいのち」は、この手紙の著者ヨハネが書いた福音書でも繰り返し語られ続けてきた神様からの賜物です。
実はヨハネ以外の3つの福音書では、「永遠のいのち」ということばはあまり出てきません。しかし、ヨハネの福音書では、「永遠のいのち」ということばは、17回ほど登場します。多いですね。それらを調べてわかることがあります。
それは、神の御子イエス様には永遠のいのちがあること。
そして、そのイエス様を受け入れ、イエス様のうちにとどまる者なら、その人も永遠のいのちを持つのだということです。
では「永遠のいのち」とは何なのでしょう。それは、死んだら始まるものではなく、イエス様を信じたその瞬間から得られるいのちで、もはや誰にも奪われることがないものです。
しかもそれは、キリストと一つにされて、同じいのちを生きていくことです。父なる神様と、いつでも絶え間なく親しい愛の交わりの中に生きるいのちのことです。
神様があなたの父となってくださり、恵みと祝福、多くの助けをくださいます。もちろん、天の御国に確実に入ることができるいのちでもあります。
27節で、「御子から受けた注ぎの油」があなたがたにはとどまっている。だから「誰かに教えてもらう必要がない」と語られていますよね。それは、もちろん、牧師や教師から聞く必要がないという極端ではありません。あくまでも私たちの真の教師はイエス・キリストとその御霊であるということです。人間から出る新しい教えではなく、もうすでに、十分に必要な教えがみことばから、キリストの御霊を通して与えられているということです。
つまり、新しいことは何も求められていないのです。応用が苦手な皆さん、アレンジが苦手な皆さん、安心してください。色々と付け足すようにとも、アレンジせよとも語られていません。むしろ「教えられたとおりに」が良いというのです。それこそ神様に喜ばれる姿勢であると。
なぜなら、既に啓示されている聖書の教えそのものが「真理」であり、それ自体で完成しているからです。
イエス様も「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰も父のもとに行くことはできません」とおっしゃいました。
ただ、この「教えられたとおりに」ということが意外にわからないのです。
それは、「わたしたちとイエス様は一体である」という真理でした。
信仰を求めて努力するのではなく、「あなたを決して見捨てない」と言われる主にただ寄りかかることであると。
ハドソン・テーラーもこのぶどうの木の例えを用いながら言います。彼は大きな間違いを犯していたと。主から活力や満たしを取り出そうと努力したことが間違いであったと言います。取り出そうと自分の力で必死になることで、かえって根や木から流れてくる祝福を遮ってしまっていたのです。活力も満たしも、取り出そうとせずとも、それは私たちのものとされているのです。ぶどうの木とは、根や幹だけでなく、枝も葉も実も含めて全部でぶどうの木です。それはすでに、イエス様と私たちが一つになっているということです。
「主よ。ともにいてください。」としばしば祈ることがありますが、常にともにおられて一つなので、その祈りは不要なのです。だから、キリストが富んでおられるのに、私が貧しいということはあり得ないのです。「私は全然ダメです」と自分を全否定することがありますが、私と主とは一つのからだとされているのですから、それはイエス様の力がまるで無力であると言っているようなものです。
わたしのものはすべて、あなたたちのものだとさえ、言ってくださるお方です。放蕩息子の話で、父のもとにいて不満だらけだった長男に父は言いました。「子よ、おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部おまえのものだ」と。この恵みを見失う時、私たちは枯渇するのです。
もう同じからだ、同じ骨、同じDNAをキリストと共有しているのです。こうして、イエス様といういのちの泉から無限に飲み放題の者とされているのに、そこから飲まず、別の井戸を求めるので渇くのです。
ですから、キリストにとどまるとは、信仰を持とうと努力することではありません。神様によって私が働くのではなく、私を通して神様が働いてくださると知ることです。もはや、私が生きているのではなく、キリストご自身が私の中に生きてくださっているのです(ガラ2:20)。
これが、教えられたとおりに御子のうちにとどまるということです。
神様は、これらのみことばをもって、今日も私たちに語っておられます。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたのうちにとどまり、あなたとわたしはもう離れることはなく、一つとされているのだ」と。
「なぜ、遠くの何かに求めるかのように生きるのか。わたしとあなたは、もう一つではないか」と。とどまっているなら、主が実を結ばせてくださらないはずがありません。
獲得しようと必死にならずとも、必要なものはすべてキリストのもとにあり、それ以上に豊かに、値なしに与えてくださるのです。御子のうちにとどまるとは、なんと豊かで満たされたことなのでしょうか。感謝と喜びのうちに御子にとどまって参りましょう。