東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/08/02

ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」

*** 8/2(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」

26  こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27  同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。 

 ここでは、神様によってデザインされた本来の良い関係を不自然なものに替えてしまったことが語られています。特にここでは「同性愛の肉体関係」の問題を語っています。これは実に、当時のローマ社会で、蔓延していた問題でした。

 この時代のローマのモラルは非常に退廃的で、不道徳に満ちていました。ある注解者は、初期のローマ皇帝15人のうち、なんと14人は同性愛的関係を持っていたと言います。
14/15とは衝撃的ですね。

 それは、生まれながらの問題ではなく、完全に社会の乱れ、モラルの極度の低下がもたらした悪習でしょう(先天的な問題で悩む人とは、明確に区別する必要があるでしょう)。

 神の前のきよさを放棄した堕落した社会の影響です。その環境下で、こうした不道徳が常態化していたということです。

 ですから、パウロはローマの教会に対しては、この問題について書かないわけにはいかなかったのです。教会もその風潮、社会の影響を受ける危険が大いにあるからです。

 もちろん、同性同士の友情などを一切否定する必要はありませんよね。あこがれや尊敬、良い信頼関係も当然にあるわけです。それらはごく自然でしょう。

 ただ、神を恐れることを失っていくと、この健全な関係に「歪み」が生まれていくことも確かです。それはどんどんエスカレートします。欲はさらなる欲をはらみ、より過激なことを求めます。感覚がマヒし、通常の刺激では満足できなくなるのです。欲の望むままに生きることが自由だと誤解することで、本当の自由を失います。

27の最後に、「その誤りに対する当然の報いをその身に受けています」とありますよね。「これから受ける」とは語られていません。その身に既に受けているのだと語られています。どういうことなのでしょうか。

実は、このような不自然な性的関係こそが、もはや神のさばきそのものなのだと理解する学者もいます。神を恐れない生き方が、みこころから離れた関係を生み出し、そこに不幸があると。また、その関係から、肉体的にも病み、精神的にも傷つき、人間性の破壊に至ると。そこに「神のさばき」が既に起こっているのだと言われます。


実際に、同性愛を経験し、そこから救われた人のお話では、同性愛には本当の自由も解放もなかったと言います。その一瞬は快楽の中で色々なことを忘れるとしても、日常はむしろ「死にたい」と思う日々であったと。自分を好きになれず、ますます自己嫌悪に陥ったと言います。

カミングアウトして、自分の欲望を開放したからと言って、自由になるわけではないのですよね。

小説家・三浦綾子さんは、自由について考察として、こんなことを言います。彼女は問いかけます。「何をしようと自分は自由だ」と言いながら、酒、煙草、異性との交遊、博打などをしている人は本当に自由なのかと。そして、そういう人は、実は自分の欲望に縛られ、がんじがらめになって、もう自分の力では抜け出せないほど、溺れてしまった「欲望の奴隷」なのではないかと。考えさせられますね。


まさに、深刻な報いを自ら選んでしまっているのですよね。28節にこうあります。

28  また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。 

神を知ることに価値を見出せなかったので、無価値なものを神として奴隷になる道を人々が選んでしまったと言うのです。

ですから、私たちは、神を知ることの価値を伝えたいのです。神様のご愛の中で、本当の自分、神様が造られたデザインされたままの自分を受け入れられるように。その恵みは神様を知ることなしには得られないからです。 神様から離れるほどに、罪深い歩みが普通になっていきます。しかもその罪の結果の悲惨を自分の身にもたらしてしまいます。だから、パウロは、その中から幾人かでも救いたいとの願いをここに込めているのです。

29-31節では、様々な罪のリストがあります。

29  彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、30  人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、31  浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。 

 これらは、神様から離れた者たちの罪深い生活の現実です。想像してみてください。パウロがざっと挙げたこのリストが、私たちの周囲にあふれていたらと。私たちの毎日がこれらで満ちていたら・・・。そこに幸せがあると思えるでしょうか。到底思えませんよね。確かに、私たちの中にも、上記のような罪深い思いがわき上がります。

 しかし、同時に「それは違うよ!立ち返りなさい」と愛をもってお語りくださる主の御霊がおられます。みことばがあります。それは本当に幸いなことではないでしょうか。パナソニックの創業者・経営の天才と言われる松下幸之助氏もこう言っています。「叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である」と。

 私たちの「友」となってくださった主は、私たちを深く愛するゆえに、時に叱ってくださいます正しい道に引き戻してくださる。私たちはこうして気づかされ、悔い改めることができるのです。 

 そして、むしろ、これらとは反対の良きものをもたらす者として歩む者として召されたのです。正しさ、与える心、善意、愛、良い計画、人をほめることば、感謝、親切心、尊敬すること、大事に思うこと、慈しみの心、謙虚な姿勢、親を尊敬する姿勢、深く熟慮すること、誠実さ、情け深く、あわれみ深いこと。これら良いものはすべて、イエス様にあります。御霊の実りとして与えられますよね。


そして、もう一つの課題が32節で語られています。自分が罪を犯すだけでなく、それをしている人々に同意してしまう問題です。

32  彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。 

私たちは、自分がそれらを行わないだけでなく、他の人の罪や悪に同意しないということが必要です。同性愛の問題も、その問題の中にいる人を、主の愛をもって受け入れることは本当に大切です。差別もしてはなりません。

しかし、「それをさも良いものであるかのように」訴えることは、かえって苦しむ人を増やしてはいないでしょうか。寛大さを示すことで、政治家の票集めに利用されているのも確かでしょう。本当にその渦中にいる人々の痛みを理解し、救いたいと願っているのでしょうか。

特に日本社会では、同調圧力とか群集心理の強い国ですから、その中で少数派に立つのは勇気がいりますよね。NOと言いにくい風潮が強くあります。

でも、それこそがこの国をダメにしていると思うのは私だけでしょうか。

最近報道されている、様々な会社ぐるみの不正の問題。上の人の権力が強く、誰もさからえずに、皆で悪い方向に流れてしまったのでしょう。もし、その時に、本当に会社のことや社員のことを思って・・・ あるいは社長さんや偉い人たちのことも真剣に心配して

「それは良くないです!やめましょう!」と、本気で言ってくれる人がいたら・・・と思うと残念です。叱ってくれる人、正しい方向に向かいましょうと言える人の存在。とても大切だと思わされます。

今期のドラマで「最高の教師」というドラマがあります。いじめの問題、同調圧力の問題を鋭く扱っています。その中で、学校のクラスで仲間外れにされたくないために、悪い仲間に従い、いじめに同意・加担している子たちがいます。そんな彼らに主人公の教師が問いかけるのです。「あなた方は一度でも自分を傷つけ、ないがしろにする人間たちと仲良くしたいと思ったことはあるんですか。」 そして、彼らに嫌われるのはそんなに嫌なのかと言います。

そこから意を決した男子二人が、いじめっ子に「クラスからハブるぞ」と脅された時、本音を話し反撃をしました。とても興味深いシーンでした。彼らは土下座してお願いし始めたのです。
「お願いだから、ぼくたちをクラスでちゃんとハブってくれ。君たちと過ごして楽しかったことは一つもない。何も関わらないでくれ、君たちには何の興味もないのだ」と。

自分たちから「ぜひ、仲間外れにしてくれ」とお願いをし、いじめっ子もことばを失うシーンでした。普通は「仲間外れにしないでくれ」と頼み、悪い交わりにとどまってしまいます。でも、むしろ、悪い交わりにあるのなら、「どうか私たちを仲間外れにしてくれ」自分から出て行けばいいのだと気づかせてくれました

そもそも、「そんな人たちと友達いたいのか?」という先生の問いかけに、はっとさせられたのです。


 主のみこころは、「この世と調子を合わせてはいけません」です。特に悪意に関してはそうです。私たちの心も、間違っているものに無理に合わせて幸せなはずがありません。私たちは罪人の愛と赦しは絶えず語り続けますが、罪や悪そのものには同意すべきではないのです。 
 
 赤信号はみんなで渡っても信号無視です。

 悪意の流れに流され、不正を人々を滅びに向かわせないようにしたいのです。主のもとにとどまり、また、人々にも、今あるところよりずっと良きものがあることをお伝えしましょう。



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