東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書3章16-22節「気づかせてくださる神」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/08/09

伝道者の書3章16-22節「気づかせてくださる神」

*** 8/6(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書3章16-22節「気づかせてくださる神」

 申命記29:29にこうあります。

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」 

「隠されていることは主のもの、現わされたことは私たちのもの」 

 今日の説教のヒントになるみことばかなと思います。
 神様はご計画を持って私たちに隠しておられることがあります。それは神様に信頼してゆだねるべきもの。しかし、明らかにされ、気づかせてくれることがあります。それは私たちが知るべきことであり、知って、そのみおしえの通りに歩んで行くためであります。

神様が隠しておられるということを覚えずに、分からないから不安だ、心配だと思い煩うことは主のみこころではないのです。むしろ、主が語りかけ気づかせてくださったことをしっかり受け止め、み教えに生きていきましょう。

 

16  私はさらに日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。

 「さばきの場」・「正義の場」と断ってありますよね。これらはどちらも「法廷」を始めとする「最も正義が求められる場所」を指しています。そうした立場に選ばれる人はどういう人でしょう。

 やはりリーダー的な存在。高いモラルを持つ人。「あの人なら大丈夫」と思われるような人でしょう。ところが、そのような人ですら、不正をしてしまうのを見てきたと言うのです。だとしたら、それ以外の場であれば尚更でしょう。著者はそうした現実を見て胸を痛めつつ、心の中でこう言ったと告白しています。17節。

17 私は心の中で言った。「神は正しい人も悪しき者もさばく。そこでは、すべての営みとすべてのわざに、時があるからだ。」 

 その意味をもう少し砕くならば、「今は明るみに出てなくても、神様は悪事を見逃したりはしない。正しい人も悪い人も、ふさわしい時に、必ずさばきをなさるのだ」ということでしょう。もっと言えば、神のさばきを侮るゆえに、こうした不正が横行してもいるのでしょう。見つかるまで、バレるまで罪を繰り返してしまう人の弱さです。

けれど、ふさわしい時に明るみに出されるので、このように語ったのでしょう。そして、18節でこう言うのです。 

18  私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試みて、自分たちが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」 

 神様は、生まれながらに罪人である彼らに、自分たちが「獣にすぎない」ことを気づくようにされたのだと語ります。そもそも、19節にあるように、人も獣も必ず死を迎えるという結末は変わらないですし、獣にも神様がくださった「いのちの息(あるいは霊)」というものがあります。そして本来、人と獣を大きく区別する、人に与えられた理性、神のかたちという人格、こうしたものを失って、神の法を守らず、不正にまみれていたら、神様が期待された人のあるべき姿ではないのではないでしょうか。

 ただし、ソロモンは、これらが悪いと憤って終わったのではありません。そこに神の御手があることを伝えているのです。ですので、17節でも18節でも、彼の心のことばにおける主語は「神様」なのです。神がふさわしい時にさばかれることに目を向けさせられました。神が彼らをテストして、不正があることを明らかにし、気づくようにされる神様がそのようになさっていると。

 隠れているもので、露わにされないものはないと主イエス様も言われました。それは、自分を正しいと思い込む傲慢から救い出すために、気づかせておられるとも言えるでしょう。 

 私たちは他の人の罪や問題に気づくことについては、天才的です。他の人の間違い、他の人の欠点に対してはとても敏感に発見できます。しかし、こと自分の問題についてはどうでしょうか。自分の罪、あやまちについては極めて鈍感に思えるのです。

 しかし、こうした不正の現実を見た時に、自分はどうだろうかと問われることが大切なのですよね。気づかされることは、本当にすばらしい主の恵みです。

20-21節でも、こう続きます。 

20節 すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。21節 だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に昇り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。 

ここは少し解釈が難しいですが、私なりに理解していることをお分かちしましょう。まず、人間の目にわかることは、人も動物も死んだら、その肉体は土のちりに帰るということです。これは明確ですよね。しかし、それは目に見える物質の話です。

実際に、見えない部分はどうなるのでしょうか。それは人の目には見えない世界。わからないことなのですよね。その意味では、誰が知っているだろうか、いや、実際には神様以外誰もわからないのだと語られているのだと思います。

神様にしかわからないのです。
このように、神様は人に対して、すべてを明確にしてはおられません。

それはなぜでしょうか。

人には知るべきことと、知らなくて良いことがあるからです。そして、わからないことこそ神に信頼してゆだねることを教えるためです。

全部が人に明らかにされていたら、信仰っていらないのですよね。信仰の学びで、目隠しをして他の人の誘導に従って歩くということがあります。見えないけれど、そのことば、その導きを信じて踏み出すのです。

ヘブル書11:1では、信仰とは、「目に見えないものを確信させるもの」だと語られている通りです。人も動物も死んで肉体が土に帰ることは、見ていれば分かります。けれど、その霊や魂がどうなるのか。それは見えないので、神様のおことばを信頼すべき分野なのです。

ペットや家畜たちの霊・魂がどう扱われるのか神様にしか分からないでしょう。獣の中にそれらが含まれているのかどうかも分かりません。ゆえに、神様に信頼するのです。

例えば、詩篇366では、「主よ あなたは人や獣を救ってくださいます」とあります。あるいは、ヨナ書の最後では、罪深い都であったニネベを指して、神様はこうおっしゃっています。「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」人間だけでなく、その家畜にまで心を留め、滅びることを願わない主のおことばです。

断定はできませんが、神様は様々な動物たちのことも、あわれみ深い心で大切に思っておられることは、みことばからわかります。その霊がどうなったか、目に見えるわけではない。けれど、神様が最善をなさると信頼しゆだねることができるのです。


そして、だからこそ主が気づくようにされたことには、大きな意味があるのです。

このままでは滅んでしまうと気づくことで、いのちの道を選べるようになるからです。

神様はそのために「試み」をお与えになることがあるのです。18節で、神様は「彼らを試みて」、気づくようにされたとあります。それは例えるなら、「健康診断」で体の様々なチェックをするようなものです。それは体の悪い部分を明らかにするためですよね。自分の悪いところ・問題点を明確にされることで、治療ができるようになるのです。

神様は時に試練を通して、私たちの問題を明らかになさいます。そうして、主がその現実を私たちにお見せになるのは、私たちを打ち砕いて立てなくするためではないのです。むしろ、滅びから救うためです。


詩篇49篇を開きましょう。実にこの詩篇49篇全体が、伝道者の書と内容的に非常に似ているのです(ぜひ味わってみてください)。まず、詩篇49:12 しかし人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。 栄華にとどまれない。同じように死を迎えるという点で獣に等しいと言われています。そして13節にあるように「これが愚か者の道」であると言います。一方で、同じ4920節に注目してください。このように言い換えられています。詩篇49:20 人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。 

悟ることのない愚か者の道は獣に等しいということ。せっかく「神のかたちに造られた人」でありながら、悟らないのならば、それは「獣」と同様な存在として終わってしまう。しかし、逆に悟るのならば、そうではない道があるという暗示でもありますよね。

では、この「悟り」とは何でしょうか。主を知ることです。キリストを知ることこそ永遠のいのちだからです。まさに「滅び失せない、神のかたちに造られた人の道」です。

神を知る者の歩みを伝道者の書の著者は、こう語ります。322節です。

22  私は見た。人が自分のわざを楽しむことにまさる幸いはないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。  

神を知る人は自分のわざを本当の意味で「楽しむ者」とされていきます。
特に、神様に似せて造られたゆえに、人は自分のわざを味わい、楽しむことができるのです。

例えば、トールキンという「指輪物語」などの世界的なヒット作品を世に出した小説家がいます。彼は、小説の中で世界を準創造していると言います。それは神の創造のわざをまねることなのだと言うのです。それでその作業を「準創造」ということばで表現します。
トールキンは、その生涯において、彼の世界観の中に20以上の言語をも創造したと言います。エルフ語、ドワーフ語など。物語の種族に様々な言語を設定します。

まさに自分のわざを楽しんだと言えます。そして、それを読む者たちも楽しませてもらえます。彼は神様によってそれらを楽しめるようにされていると証しているのです。

また、ある姉妹が、伝道者の書から教えられて、最近は食事の時間を以前よりも味わい、楽しめるようになったと分かち合ってくれました。感謝しながら味わっていますと。小さなことのようですが、この何気ない小さなことを主にあって喜べることは、信仰生活の大きな力になっていきます。

この節後半にも「だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」とあります。未来のこともまた、神様によって隠されていること。人にはわからないのです。

ですから、神様にゆだねて生きるのです。心配ばかりせず、思い煩わず、主が与えてくださるものを毎日感謝して受けながら生きるのです。マタイ6:27  あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。 

そうですよね。心配してばかりいることは、主を信頼して平安に生きることと真逆の道なのです。心配すれば、苦しみが増します。心も疲れ、体も疲れます。いのちを延ばすどころか、寿命が短くなるでしょう。他の人をも不安にさせるでしょう。

そうではなく、神様がくださる恵みを十分に味わって感謝して生きるのです。

 生まれながらの自分は、神のかたちから外れた獣のような者であることに気づかせていただきましょう。自分勝手な罪人であることに気づくことが大切です。
 気づけば、「神の望まれる人」の道へと歩みを方向転換できるからです。明らかにされ、与えられているものを主にあって感謝し味わいましょう。わからないことは、思い煩わないで主にゆだねましょう。


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