伝道者の書3章16-22節「気づかせてくださる神」
申命記29:29にこうあります。
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」
16節 私はさらに日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。
「さばきの場」・「正義の場」と断ってありますよね。これらはどちらも「法廷」を始めとする「最も正義が求められる場所」を指しています。そうした立場に選ばれる人はどういう人でしょう。
それはなぜでしょうか。
人には知るべきことと、知らなくて良いことがあるからです。そして、わからないことこそ神に信頼してゆだねることを教えるためです。
全部が人に明らかにされていたら、信仰っていらないのですよね。信仰の学びで、目隠しをして他の人の誘導に従って歩くということがあります。見えないけれど、そのことば、その導きを信じて踏み出すのです。
ヘブル書11:1では、信仰とは、「目に見えないものを確信させるもの」だと語られている通りです。人も動物も死んで肉体が土に帰ることは、見ていれば分かります。けれど、その霊や魂がどうなるのか。それは見えないので、神様のおことばを信頼すべき分野なのです。
ペットや家畜たちの霊・魂がどう扱われるのか神様にしか分からないでしょう。獣の中にそれらが含まれているのかどうかも分かりません。ゆえに、神様に信頼するのです。
例えば、詩篇36篇6節では、「主よ あなたは人や獣を救ってくださいます」とあります。あるいは、ヨナ書の最後では、罪深い都であったニネベを指して、神様はこうおっしゃっています。「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」人間だけでなく、その家畜にまで心を留め、滅びることを願わない主のおことばです。
断定はできませんが、神様は様々な動物たちのことも、あわれみ深い心で大切に思っておられることは、みことばからわかります。その霊がどうなったか、目に見えるわけではない。けれど、神様が最善をなさると信頼しゆだねることができるのです。
そして、だからこそ主が気づくようにされたことには、大きな意味があるのです。
このままでは滅んでしまうと気づくことで、いのちの道を選べるようになるからです。
神様はそのために「試み」をお与えになることがあるのです。18節で、神様は「彼らを試みて」、気づくようにされたとあります。それは例えるなら、「健康診断」で体の様々なチェックをするようなものです。それは体の悪い部分を明らかにするためですよね。自分の悪いところ・問題点を明確にされることで、治療ができるようになるのです。
神様は時に試練を通して、私たちの問題を明らかになさいます。そうして、主がその現実を私たちにお見せになるのは、私たちを打ち砕いて立てなくするためではないのです。むしろ、滅びから救うためです。
詩篇49篇を開きましょう。実にこの詩篇49篇全体が、伝道者の書と内容的に非常に似ているのです(ぜひ味わってみてください)。まず、詩篇49:12 しかし人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。 栄華にとどまれない。同じように死を迎えるという点で獣に等しいと言われています。そして13節にあるように「これが愚か者の道」であると言います。一方で、同じ49篇20節に注目してください。このように言い換えられています。詩篇49:20 人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。
悟ることのない愚か者の道は獣に等しいということ。せっかく「神のかたちに造られた人」でありながら、悟らないのならば、それは「獣」と同様な存在として終わってしまう。しかし、逆に悟るのならば、そうではない道があるという暗示でもありますよね。
では、この「悟り」とは何でしょうか。主を知ることです。キリストを知ることこそ永遠のいのちだからです。まさに「滅び失せない、神のかたちに造られた人の道」です。
まさに自分のわざを楽しんだと言えます。そして、それを読む者たちも楽しませてもらえます。彼は神様によってそれらを楽しめるようにされていると証しているのです。
また、ある姉妹が、伝道者の書から教えられて、最近は食事の時間を以前よりも味わい、楽しめるようになったと分かち合ってくれました。感謝しながら味わっていますと。小さなことのようですが、この何気ない小さなことを主にあって喜べることは、信仰生活の大きな力になっていきます。
この節後半にも「だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」とあります。未来のこともまた、神様によって隠されていること。人にはわからないのです。
ですから、神様にゆだねて生きるのです。心配ばかりせず、思い煩わず、主が与えてくださるものを毎日感謝して受けながら生きるのです。マタイ6:27
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
そうですよね。心配してばかりいることは、主を信頼して平安に生きることと真逆の道なのです。心配すれば、苦しみが増します。心も疲れ、体も疲れます。いのちを延ばすどころか、寿命が短くなるでしょう。他の人をも不安にさせるでしょう。
そうではなく、神様がくださる恵みを十分に味わって感謝して生きるのです。