東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書2章1~5節「さばくのではなく・・・」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/08/10

ローマ書2章1~5節「さばくのではなく・・・」

 *** 8/9(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書215節「さばくのではなく・・・」

 先日の礼拝説教でも少しお話しましたが、私たちは他人の問題を見つけ、さばいてしまうことは電光石火のごとく早いように思われます。しかし、今日のみことばを味わうなら、それはまず自分自身に向けられるべき視線であることを教えられます。

1節 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。
2節 そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。
3節 そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。

 他の人がしている罪深い行い。不従順、不信仰の姿。それらに対して、私たちはとても敏感に、さばく思いを持って見つめてしまいます。2節と3節にある「そのようなことを行う者たち」とは、直前の28節以下に登場した様々な罪を行う者たちでしょう。

 彼らに「真理に基づいた神のさばき」が下ることを私たちはよく知っているとパウロは言います。しかし、他人の罪の問題にはよく気づき、そこに神のさばきがあると知っているのに、自分の姿については、どうしても見えにくい、気づきにくいのだということです。

 特に、「選ばれた民」という意識を持つユダヤ人たちは、異邦人に対して上から目線で厳しくさばきつつ、実は自分たちも同じ罪の性質を持っていることを棚に上げてしまっていました。しかし、みことばは、1節にあるように「すべて他人をさばく者よ」と語ります。

 それは、ユダヤ人に限らず、これを読むあらゆる者に向けられた主のメッセージだと受け止めましょう。これはいつの時代でも起こることです。

 旧約のわかりやすい例は、ダビデと預言ナタンのやり取りでしょうか。第二サムエル記12をお開きください。預言者ナタンはダビデにあるお話をします。貧しい家にて家族同然に過ごしていた「たった一匹の子羊」を、多くの家畜を持つ富豪が、自分の家畜を惜しんで奪ってしまったという話でした。それを聞いたダビデの反応が5節から語られています。 

5節 ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。
6節 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」 

 義にもとる行為だ!!神の前に罪深いことだ!!ダビデは激しく正義の怒りを燃やし、この富豪をさばきました。

 しかし、7節でナタンはこう言います。「あなたがその男です」と。これはダビデに、自分の姿を客観的に教えるための話でした。

 私たちもまた「あなたがその人です」とみことばから語られる必要があります。

 このみことばをあの人に聞かせてあげたいと、他人にみことばを適用する習性はないでしょうか。気持ちはわかりますが、まず自身が主のみことばの前にまっすぐに立つことが大切ですよね。

 イエス様も山上の説教の中で明確にこう言われました。マタイ7:1-2 
7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。

 今日のローマ書の2:1でも、他人をさばくことは、自分自身にさばきをくだすことだと教えられています。私たちに必要なことは、さばくことではなく、自分自身を振り返り、悔い改めながら生きていくことです。

 また、他の人が罪を犯しているのなら、その人のために自分自身のこのように祈るべきでしょう。そして、御霊の助けのうちに、柔和な心で正すようにと、ガラテヤ書では教えられていますよね。柔和な心とは、自分を他の人の上に置かない姿勢です。むしろ、へりくだって自分を弱くし、小さくし、その人の立場や目線に立ってということです。

 誰かが罪に陥った時に、自分にも同じ弱さがある、自分も同じ罪人なのだという「徹底したへりくだり」の中で関わる必要があります。それがあって、初めて柔和な心で他の人を良い道に連れ戻せるのです。

 私もこの点で至らなかったことがあり、悔い改めさせられたことがあります。先日のキャンプにおいて、十字架につけられたイエス様とその両隣にはりつけにされた二人の囚人の話をしました。それを聞いたあるスタッフが分かちあってくれました。自分はこれまで一人目の囚人が、イエス様をののしって、お前が本当にキリストなら、自分と俺たちを救え!と言う姿を見て、ひどいやつだとさばいてきた。でも、今回、自分の中にも似たものがあることに気づいた。自分たちは、どこかで救われるのが当然のこのように思っているんじゃないか。愛の神なら人を救って当然かのように考えている。しかし、むしろ、救われてはいけないほどの罪人であることが事実なのだと。本当は、もう一人の囚人が言ったように、自分たちは、その報いとして、むしろ十字架にはりつけにされることが当然の側なのだと気づかされたと言います。

 実際のその場面のみことばを開きましょう。ルカ2341-42節 

23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」 

本当にその通りです。私たちは、自分の犯し続けている罪を考えたら、十字架にはりつけにされることの方が「当たり前」なのです。だから、「自分と私たちを救え」と主に命じるなんてとんでもない。まして、他の人をさばく立場にはないのです。

ですから、この囚人は「救ってください」とさえ言わなかった。救われるのに相応しくないとわかっていたから。ただ、このような取るに足りない者ですが、私を思い出してくださいと。それで十分だという謙虚さ、彼なりの信仰でした。

彼に対して主がなんと言われたのでしょうか。

23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 さばく心ではなく、砕かれ悔いた心を主が喜ばれることがよくわかります。

 ですから、さばくことができる側の人間ではないのだという自覚が必要です。他人をさばいていながら、自分がその報いを受けていないとしたら、それは主のいつくしみ深さのゆえ、忍耐と寛容のゆえです。私たちは主のこうしたあわれみと寛容さに、心から感謝をしたい。滅びないで済んだことは、ただ主のあわれみ以外の何物でもないと受け止めたいのです。4-5節をご覧ください。 

4節 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。
5節 あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。

 他人をさばいてばかりいて、自分が真摯に悔い改めないなら、それは神の審判の日に向かって、自分への神の怒りを蓄えていることなのだと語られます。神様のいくつしみ深さ、忍耐、寛容をあなたがたは軽んじているのではないかと語られています。

実は「神の怒り」が私たちを心からの悔い改めに導くのではありません。怒りは確かに私たちに恐れを与え、私たちを砕くかも知れません。でも、そこから主のふところに大胆に飛び込めるようにされるのは、主のいつくしみがあるからです。主が怒るに遅く、あわれみ深く、いくつみと忍耐、寛容さに満ちているからです。

どんな罪を犯そうとも、一日に千回ひどい罪を犯そうとも、なお赦すことができる忍耐と寛容をお持ちだからです。愛のお方だからです。

だから、私たちは悔い改め、悪の道から方向転換し、主のもとに飛び込めるのです。そうであるなら、他の人を主の道に立ち返らせることは、「さばく」ことではなく、その人を愛することでしょう。

その人の姿を見て自身の罪に涙し、一緒に悔い改めていくことでしょう。

 神様の豊かないつくしみ、忍耐と寛容を心より感謝します。


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