*** 8/13(日)主日礼拝 説教概略 ***
第一ヨハネ2章28節~3章3節「私たちは神の子どもです」
揺るぎない確かな土台があること。そこに確信があることは、どんなにか私たちを強くすることでしょうか。私がクリスチャンになって感じた恵みは、自分の中に確かな土台ができたと思えたことでした。
感情に頼れば、ジェットコースターのようになってしまう自分。環境が変わる、状況が変わるごとに一喜一憂してしまう自分。自分より優れている人、頑張っている人を見ると、ねたましく思い、自己卑下してしまう自分。なんとも弱く頼りない根なし草の自分でした。
そのような私でしたが、揺るぎないみことばの土台。永遠に変わることのない神の愛の保証をいただきました。決して見捨てられない、確かなこの事実の上に、少しずつ信仰の確信が与えられ、それに比例するように、平安も喜びも感謝も増して参りました。
主への賛美があふれていきました。そしてそこには、未来に対しても確かな約束と、大いなる希望が備えられています。私たちはイエス様を信じた瞬間から神の子どもとされました。この立場は、何があっても、どんなに私たちが弱ろうとも、失うことのない確かな立場です。
ここに立って、神の御子イエス様の姿へと変えられ、成熟させていただけるという確実な希望が私たちに与えられています。神の子どもとされており、神の子どもとしてさらに相応しく成長させていただける恵みを一緒に味わいましょう。
1.主の再臨を、確信をもってお迎えできる神の子
28節 さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。29節 あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。
「さあ、子どもたち」と呼びかけます。こうした手紙は代表者が朗読し、それ以外の人々はそれを聞いていたと考えられます。ですから、ここで全員に向かって、目を覚まさせるかのように、「さあ、子どもたち」と呼びさましました。
そして、改めて、キリストのうちにとどまるように呼びかけます。私たちは、キリストを受け入れた時、「神の子ども」という立場をいただきました。そして、キリストのうちにとどまるとき、その立場だけでなく、中身においても相応しく変えられていきます。
29節では「義を行う者」は「神から生まれた」者だと分かると語られています。「神から生まれた」者=神の子どもですよね。
こうして、「立場上としての神の子」で終わらず、中身においても神の子らしく変えられて行くとき、どのような恵みをいただくのでしょうか。
それは、28節にあるように、この世界の終わり、キリストが現れるときに、確信を持ってお迎えできる恵みです。確信があるって、すばらしいことだと思いませんか。「あやふや」ではないのです。不安ではないのです!ゆるぎない、確かなものです。
キャンプでおもしろいゲームがありました。パスタを使ってテープやヒモで留めつつ塔を作り、一番上にマシュマロをつけ、高さを競います。難しいのは、床にパスタをテープで固定してはいけないということ。それで、マシュマロの重さを支えきれず、倒れたり、ひっくり返ったりしてしまう。実は、床に固定できれば簡単なのです。
私たち自身はこのもろいパスタで造った塔のようです。軽いのでたかがマシュマロの重ささえこらえきれず、倒れてしまう。でも、確かな堅い土台に固定できたらどうでしょう?がっしりしますよね。確かなみことばの真実の上に、ゆらゆらする自分を固定すればいいのです。
それゆえに、再臨の主の御前で恥じることなく、堂々と主の再臨を「おかえりなさい」とお迎えできます。イエス様の再臨は栄光に満ちたものですから、堂々と心からお迎えしたいと思いませんか。そのためにも、立場上は一応「神の子です」というのではなく、「間違いなく、私は神の子です!!」という確信のうちに主にとどまりお迎えしたいのです。
神様は、まず私たちをこのすばらしい神の子どもとしてくださり、それを揺るぎない確かなものとしてくださり、その土台の上でしっかりと組み合わされ、神の子としてふさわしく育てようとされているのです。
2.「神の子ども」と呼ばれるために注がれた神の愛
では、この恵みの立場「神の子ども」とされるために、神様は一体何をしてくださったのでしょうか。愛を与えてくださったのです。
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
神様の愛によって私たちは「神の子」とされたのです。そこには私たちの努力や成果はありません。ただ、そのすばらしい愛によって、私たちは神の子として迎え入れられました。「神の子ども」とされるために、神様はどんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょうか。それを「考えなさい」と語られています。
「考えなさい」とのことばは、「見つめよ」と訳すことも可能です。主のご愛をしっかりと見つめよ!ということです。生まれながらに罪ある私たちは、神様の前に「怒りの子」とも「滅びの子」とも呼ばれました。見捨てられても何も言えない私たちでした。
しかし、そのような者たちのために、神様は代わりのきかない愛するひとり子をお与えになったのです。神様の方から駆け寄り、抱きしめられたのです。この無償の愛、永遠の愛こそが、私たち罪人が神の子とされるために注がれた愛です。
私たちがとても献身的な者だから、神様は愛してくださったのではないのです。私たちが神様に謝罪をして初めて、「それなら愛そう」と愛されるようになったのでもありません。敵対し、背いていた時に、愛する御子をくださいました。この「無限の神の愛」があまりにもすばらしいので、神の愛のプレゼント=イエス様を受け入れるならば、誰でも、どんな汚れた者であってさえも、「神の子ども」にしていただけるのです。
ヨハネの福音書1章12節 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
続く13節でも、これらは血筋や人の意欲によらず、「神によって」、「神によって」生まれたのだと教えられていますよね。神の愛によって、プレゼントとして「神の子ども」としていただいたのです。
本日のみことばに戻ります。ですから、3章1節後半にある通り、イエス様を受け入れているのなら、「事実、私たちは神の子どもです」。疑いようもない事実です。思い込みではないのです。神のことば、聖書が約束している確かなことなのです。人の努力によるものではないから、どれだけの努力があれば大丈夫なのかと不安になる必要もないのです。イエス様を心に信じるなら、その時からあなたは間違いなく神の子どもなのです。事実なのです。それは私たちの努力に依存しないゆえに「確か」です。神の愛は永遠に変わらぬ確かなものなのです。
3.神の子としてふさわしい者にならせていただく
さて、神の子とされるためにすべき唯一のことは、信じて受け入れることだけだと確認しました。神の愛がすばらしいからです。神の子どもとされるのに義の行いは不要です。しかし、「神の子ども」という立場をいただいた瞬間に、人格もそれにふさわしく変わるわけではないのです。救われてなお、罪の中にとどまる弱さがあります。ですから、神の子どもらしい人柄なのか?神の子どもらしい生活をしているのか?と問われれば、ほど遠いところから始まるのです。
けれど、神様は未来に向かって、確かに私たちを取り扱って、神の子どもとしてふさわしい者へと育ててくださるのです。
3:2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
これは未来のことです。キリストの現れの時、具体的にどのようになるのか。詳細までは私たちにはわからない。隠されている部分も多いのです。しかし、はっきり確信できることがあります。キリストに似た者になるということです。キリストの再臨時にそれは完成を迎えます。キリストのありのままのお姿と対面させていただけるからです。
この確かな未来が備えられているので、私たちは希望をしっかりと握りしめて、変えられ続けて行けるのです。3節には、 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。ともあります。ここにある「清い」「清くする」ということばは、しみや汚れ、混じり物がない純粋さであり、道徳的なきよさを意味します。
ただ、それも私たちが勝手にこうだと思う清さではなく、キリストの清さにならうということです。 私たちはこうして、自分でも主の姿を目指して歩み、また聖霊がそれを助けてくださり、真の神の子なるキリストの身丈にまで成熟していくのです。
先週は青年キャンプがありました。このキャンプで奉仕してくれたメンバーの多くは、私が子どもの頃からよく知っている青年たちです。あんな小さかった、可愛かった子たちが。あるいは色々と心配だったあの子が。本当に立派になって、頼もしい奉仕者、リーダーシップを発揮していました。彼らが責任をもって自発的に奉仕している姿は、とても嬉しく誇らしいものでした。
その中の一人は、いよいよ結婚するために、この青年キャンプの委員は今回で最後でした。彼は、このキャンプの最後のプログラム中に涙をこらえきれなくなりました(その時私は席を外しており、見られなくて残念でしたが、教えてもらいました)。その晩、彼からお礼のLINEが来て少しやり取りをしていました。「本当は全部終わるまでは涙をこらえようとした」そうです。けれど、たまらず泣いてしまったと。泣こうとしてではなく、こらえているのに感極まって泣いてしまう。そうした涙は、本当に苦労し、一生懸命、本気で主に仕えてきた証しです。私はそう思います。昨年も直前にキャンプ場で感染者が出て、対面で行えませんでしたから、そうした痛みもあったことでしょう。
そして、何よりも、主が良くしてくださった恵みに感極まって涙する。主のご愛に心から感動しこらきれず涙する。その姿の中に、神の子どもとしての成長を見るのです。最後に、「これからもよろしくお願いします」との彼のことばに、未来に向かってのさらなる成熟を期待させる前味も感じさせていただきました。
エペソ4章13節にはぴったりの表現があります。「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」と。私たちの歩みは、キリストの身丈に向かって成熟していく信仰生活なのです。この点ははっきり約束されているのです。すばらしい希望です。
神様は今朝、私たちに確かな揺るぎない事実と、これからの希望を豊かにお語りくださいました。神様の限りない愛に応え、私たち自身を主のみこころのためにささげましょう。キリストの満ち満ちた身丈目指して、ともに歩んで参りましょう。