東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書4章1-6節「一握りの静けさ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/08/21

伝道者の書4章1-6節「一握りの静けさ」

*** 8/20(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書41-6節「一握りの静けさ」

 夏期休暇にて家族でゆっくり過ごすことができ、本当にありがとうございます。皆さんのお祈りと主の支えに感謝しています。私は常に頭の中で考えているタイプなので、そこから自由になり、静かな時を過ごせることはとても重要だなと思わされます。

 ただ、私たちの普段の生活は、主の前でのこのわずかな静けさをなかなか確保できないのではないでしょうか。ある賛美曲には「心の中にはいつでも、嵐のような戦いがある」との歌詞もあります。本当にそうですよね。男性は家を出れば7人の敵がいるなど、昔は言われたものでした。しかし、男女問わず、様々な嵐、喧騒が私たちの心をすぐに乱してしまうのではないでしょうか。

 今日のみことばでも、そのような戦いについて語られています。
1-3節では、強者が弱者を虐げ、慰める者が不在であるという悲惨な現実。
4節では、人間同士のねたみによる競争社会について。
5-6節では怠慢の誘惑と、反対に欲しい物のために必死になり、安らぎを失う問題があります。

 毎日が戦いです。そのような中、安らかに静けさをもって生きることに心を向けたいと願います。「神様との交わりの中で与えられる一握りの静けさ」を大切にできたらと。みことばに聞いて参りましょう。

 

1 私は再び、日の下で行われる一切の虐げを見た。見よ、虐げられている者たちの涙を。しかし、彼らには慰める者がいない。彼らを虐げる者たちが権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。

 「日の下」における罪の現実の深刻さが語られています。罪深い強い者が力を持てば、弱い者が虐げられます。搾取されます。それを正す存在があれば、今度はその人が虐げられる対象ともなります。それはいつの時代でも常にあることです。

 そして、最も深刻なことは何でしょうか。「慰める者がいない」ということです。
 
 1節では、意図的に「しかし、彼らには慰める者がいない」二度も繰り返されています

 慰める者、救済する者がいない。その世界には希望がないのです。ですから、昔から正義のヒーローのお話というのは、絶えず人気があるのです。それは、虐げられ苦しめられている人々にとって希望だからです。苦しいことがあっても、良き理解者がいれば、大きな助けになると言われます。いじめがあっても、寄り添ってくれる友がいれば、人は耐えられるとも言われます。

 私自身も涙の時に、親身に相談に乗ってくださる先生がいらっしゃいました。傷つき孤独を覚える時に、その痛みに寄り添い支え、心配してくださる方がいらっしゃいました。何よりもそこに主がおられ、あらゆる方法を通して私を慰めてくださいました。それゆえに立ち上がることができるのです。慰め手の存在は、なんと尊いことでしょうか。しかし、逆に慰め手がいないことはなんと悲惨でしょう。痛みを理解し、支えてくれる存在。一緒に泣いてくれる存在。親身に聴いてくれる存在。こうした存在がないことは、私たちを絶望の淵に追いやってしまうのです。

 ゆえに2-3節でこう言います。

2 いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。3 また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。 

 これはもはや「自殺願望」です。この世界があまりにもひどいので、それを見ないことが一番の幸せだと。死んだ人にお祝いを申し上げるほど、この世界がひどい。さらに「生まれてさえいない人」の方がマシだとは、なんという皮肉でしょう。それほどに、日の下で行われている悪がひどいという衝撃的な内容ですよね。

 現代においても、生きる希望を見失っている人々が多くあります。若者は未来に期待が持てず、出生率も全く上がらない。私が生まれた時代を境に、ほぼ減る一方。ある先生は、この時代だからこそクリスチャンが信仰をもって子どもたちを生み育てれば、クリスチャンの割合が確実に増えるとおっしゃいます。

 確かに、クリスチャンこそ、このような時代に主に信頼して若い世代を励ましたいのです。

「大丈夫、この世界には、慰め主がいらっしゃる!」と。「この世界のすべてを治める方があなたを義なる右の手で守ってくださるのだ!」と伝えたい。日の下だけを見て生きるのではなく、日の上におられる方を見あげるのです

 日の下のすべてを造られ、すべ治めておられる慰め主に目を注ぐのです。真の「慰め主」である神様に救いを求めるのです。

 イエス様は山上の説教でこのようにさえ言われました。
 マタ 5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。 

神の前で悲しむ者は、幸いでさえあるのです。神の慰めを受けられるのならば、悲しみさえ「引き受けよ」ということです。神の慰めはそれほどに豊かであるから。幸いな者とされるのです。

  神様抜きに生きる不幸は4節でも語られています。
4 私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。 

 労苦も磨かれるスキルも、隣人に対する妬みから生まれていることが分かったという言います。ここは、新共同訳聖書では、次のように訳されています。人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。 純粋な思いで労しているのではない。神様をたたえるために切磋琢磨しているのではない。人より上に立ちたいとの思い。嫉妬心・虚栄心ゆえだと言うのです。逆にそうでもないと、モチベーションを保てないのが罪の世の現実なのかも知れません。

 学校で学んでいる皆さん、勉強の動機は何でしょう。実に多くの人が「人に負けたくない」とか、少しでも良い成績を取るために勉強していませんか。この世界のことをもっと知りたい。造り主を知りたい。世界を知って、役に立ちたいという動機で勉強する人はとても少ない。私自身も学生の頃はそんな感じでした。

 神学校に入った時にもねたみや競争があることに気づきました。誰が一番、聖書知識があるのか。誰が一番、説教がうまいのか。誰が一番、謙遜なのか。「謙遜さ」を競っている時点で、もう謙遜ではないわけなのですが(笑)。 

 現実に、商売をして儲けようと思ったら、人間の競争心をあおるのが手っ取り早い世界です。人より少しでも上に!という動機を刺激すれば、何でも売れるのです。しかし、この競争は他の人を踏み台にします。ですから、1-3節で語られているように、弱い者が虐げられてしまうのですよね。そして、嫉妬心は際限がないために、誰もがやがて疲れ、燃え尽きてしまう。ここには愛がありません。むなしく、理不尽な世界になるのは当然です。

そういう流れに、無意識のうちに私たちキリスト者も乗ってしまうことは多々あるのではないでしょうか。6節にあるように、私たちも一緒になって安らかさよりも、競うように労苦を満たし、満たされない日々を送ってしまうのです。6 片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。 

欲張って両手がいっぱいになるほどの労苦を抱えてしまう。そして倒れてしまうのです。成功を求めて、名声を求めて。もちろん、これは一生懸命働くことを否定しているものではありません。それは5節を読めば明らかで、腕組みばかりの怠慢もまた私たちの誘惑となります。自滅の道です。しかし、だからと言って、両手いっぱいに、つまり生活のすべてが仕事のため、成功のため、名誉や財を得るためとなれば、それもまた満たされることのない、風を追う日々となってしまいます。 

マックス・ルケードという人が書いた『たいせつなきみ』という絵本があります。そのシリーズに、『ほんとうにたいせつなもの』という作品があります。そこでは、箱とボール集めを競い合う人形たちの姿が描かれます。他の人形より少しでも綺麗な箱・ボールを!と心を奪われています。自分の時間も財もつぎ込んで両手いっぱいにそれらを抱え、大切なものを失っていく人形たちの姿です。そして気が付いたら、心がスッカリすさんでしまっているのです。これらはまるで私たちの姿のようです。

では、どうしたら良いのでしょうか。「片手に与えられた一握りの安らかさ」を大事にすることです。「安らかさ」と訳されていることばには、「静けさ」という意味もあります。様々な争いに手を出さず、「一握りの静けさ」を大切にする歩みです。ある英語訳聖書を少し直訳的にすると、「苦労して風を追う二握りよりも、一握りの静けさの方がよい」というものでした。特に、競争社会の喧騒の中にあると、主にある「静けさ」というものがとても大切に思います。

ある書道家の物語を描くドラマ作品があります。家族が観ていたのを横で眺め、一つ心に留まることばがありました。「どうぞお先に」ということばです。書道の道で思うようにいかず、挫折を味わった主人公。彼は五島列島に渡り、その島の人々との交流を通して変えられて行くという話のようです。そこで「どうぞお先に」と譲ることを教えられたのです。我先にと競い合う社会です。しかし、そんなに他の人より一歩先に行くことが大事でしょうか。焦らず、慌てず、まず主にじっくりと祈り求め、そこにある平安に満たされてから、前に進んでも遅くはないのです。

主イエス様ご自身が、父の御前の静けさを大切にされていました。周りにどんな嵐が吹き荒れようとも、舟の上で静かに眠っているイエス様の静けさに心惹かれます。競争意識など少しも持とうとせず、ただ、父なる神のみこころに思いを馳せ、そこにある平安に包まれていました。

周囲が嵐だと、心の中も嵐になってしまう弟子たちに、主イエス様は言われました。「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」とご指摘になりました。周囲が嵐になっても、心に静けさを持てる。それが私たちの信仰ではないでしょうか。「主がついてれば、怖くはないと聖書の中に書いてあります」と、子ども賛美がありますよね。主がくださる「一握りの静けさ」を十分に味わい生きる心を持ちたいのです。箴言にも同じような内容のみことばがあります。箴言15:16 わずかな物を持って主を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。17:1 乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

この世界では何でも多い方が良いと考えがちです。他の人より早い方が良いと考えがちです。しかし、本当にそうでしょうか。主があえて数を少なくし、主があえて遅らせる出来事が、聖書の中には沢山出て来るではありませんか。ギデオンは兵の数を極限まで減らして勝利しました。ラザロが病の時、主イエス様はあえて到着を遅らせました。

いずれも、人々が主のみわざを見るためでした。

 

 あなたの心に静けさはあるでしょうか。何をそんなに恐れ、慌てているのでしょうか。両手にあまりにも多くの物を抱えてはいないでしょうか。それらは本当に必要ですか。

片手で握れるほどの静けさでさえ、主がくださるものであれば、それで私たちは十分です。

あまりにも多くを求めていませんか。周囲の嵐に飲まれていませんか。

主がくださるものは良いものです。そこにある静けさ、安らかさの中に憩いましょう。 




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