伝道者の書4章1-6節「一握りの静けさ」
2節 いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。3節 また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。
これはもはや「自殺願望」です。この世界があまりにもひどいので、それを見ないことが一番の幸せだと。死んだ人にお祝いを申し上げるほど、この世界がひどい。さらに「生まれてさえいない人」の方がマシだとは、なんという皮肉でしょう。それほどに、日の下で行われている悪がひどいという衝撃的な内容ですよね。
「大丈夫、この世界には、慰め主がいらっしゃる!」と。「この世界のすべてを治める方があなたを義なる右の手で守ってくださるのだ!」と伝えたい。日の下だけを見て生きるのではなく、日の上におられる方を見あげるのです。
日の下のすべてを造られ、すべ治めておられる慰め主に目を注ぐのです。真の「慰め主」である神様に救いを求めるのです。
神の前で悲しむ者は、幸いでさえあるのです。神の慰めを受けられるのならば、悲しみさえ「引き受けよ」ということです。神の慰めはそれほどに豊かであるから。幸いな者とされるのです。
そういう流れに、無意識のうちに私たちキリスト者も乗ってしまうことは多々あるのではないでしょうか。6節にあるように、私たちも一緒になって安らかさよりも、競うように労苦を満たし、満たされない日々を送ってしまうのです。6節 片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。
欲張って両手がいっぱいになるほどの労苦を抱えてしまう。そして倒れてしまうのです。成功を求めて、名声を求めて。もちろん、これは一生懸命働くことを否定しているものではありません。それは5節を読めば明らかで、腕組みばかりの怠慢もまた私たちの誘惑となります。自滅の道です。しかし、だからと言って、両手いっぱいに、つまり生活のすべてが仕事のため、成功のため、名誉や財を得るためとなれば、それもまた満たされることのない、風を追う日々となってしまいます。
マックス・ルケードという人が書いた『たいせつなきみ』という絵本があります。そのシリーズに、『ほんとうにたいせつなもの』という作品があります。そこでは、箱とボール集めを競い合う人形たちの姿が描かれます。他の人形より少しでも綺麗な箱・ボールを!と心を奪われています。自分の時間も財もつぎ込んで両手いっぱいにそれらを抱え、大切なものを失っていく人形たちの姿です。そして気が付いたら、心がスッカリすさんでしまっているのです。これらはまるで私たちの姿のようです。
では、どうしたら良いのでしょうか。「片手に与えられた一握りの安らかさ」を大事にすることです。「安らかさ」と訳されていることばには、「静けさ」という意味もあります。様々な争いに手を出さず、「一握りの静けさ」を大切にする歩みです。ある英語訳聖書を少し直訳的にすると、「苦労して風を追う二握りよりも、一握りの静けさの方がよい」というものでした。特に、競争社会の喧騒の中にあると、主にある「静けさ」というものがとても大切に思います。
ある書道家の物語を描くドラマ作品があります。家族が観ていたのを横で眺め、一つ心に留まることばがありました。「どうぞお先に」ということばです。書道の道で思うようにいかず、挫折を味わった主人公。彼は五島列島に渡り、その島の人々との交流を通して変えられて行くという話のようです。そこで「どうぞお先に」と譲ることを教えられたのです。我先にと競い合う社会です。しかし、そんなに他の人より一歩先に行くことが大事でしょうか。焦らず、慌てず、まず主にじっくりと祈り求め、そこにある平安に満たされてから、前に進んでも遅くはないのです。
主イエス様ご自身が、父の御前の静けさを大切にされていました。周りにどんな嵐が吹き荒れようとも、舟の上で静かに眠っているイエス様の静けさに心惹かれます。競争意識など少しも持とうとせず、ただ、父なる神のみこころに思いを馳せ、そこにある平安に包まれていました。
周囲が嵐だと、心の中も嵐になってしまう弟子たちに、主イエス様は言われました。「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」とご指摘になりました。周囲が嵐になっても、心に静けさを持てる。それが私たちの信仰ではないでしょうか。「主がついてれば、怖くはないと聖書の中に書いてあります」と、子ども賛美がありますよね。主がくださる「一握りの静けさ」を十分に味わい生きる心を持ちたいのです。箴言にも同じような内容のみことばがあります。箴言15:16 わずかな物を持って主を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。17:1 乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
この世界では何でも多い方が良いと考えがちです。他の人より早い方が良いと考えがちです。しかし、本当にそうでしょうか。主があえて数を少なくし、主があえて遅らせる出来事が、聖書の中には沢山出て来るではありませんか。ギデオンは兵の数を極限まで減らして勝利しました。ラザロが病の時、主イエス様はあえて到着を遅らせました。
いずれも、人々が主のみわざを見るためでした。
あなたの心に静けさはあるでしょうか。何をそんなに恐れ、慌てているのでしょうか。両手にあまりにも多くの物を抱えてはいないでしょうか。それらは本当に必要ですか。
片手で握れるほどの静けさでさえ、主がくださるものであれば、それで私たちは十分です。
あまりにも多くを求めていませんか。周囲の嵐に飲まれていませんか。