東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書2章6~11節「神の公正なさばき」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/08/24

ローマ書2章6~11節「神の公正なさばき」

*** 8/23(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書2611節「神の公正なさばき」


ここでは「交差並行法(キアスムス)という構造が用いられています。
「並行法」というのは、詩篇等でよく用いられており、同じ内容をおもに二行に分けて表現する方法です。例えば、アモス書1:2では「①主はシオンからほえ、②エルサレムから声をあげられる」と二行に分けて語られています。①一行目も②二行目も「同じ内容」ですが、「異なることば」で表現することで、意味の厚みや豊かさをもたらしています。」

そして、今日のみことばでは、それが交差的になされているので、「交差並行法」と言われます。読む者の記憶に残るよう、印象的に伝える修辞法です。

 

A  6節 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

B   7節 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、

C    8節 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

   9節 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、

  10節 善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。

 11節 神にはえこひいきがないからです。

 

・AとAは、神の「正しいさばき」

・BとBは、善を行う者への神の「良い報い」

・CとCは、悪を行う者への神の「悪い報い」

・さらに、7-8節では個人に着目し、9-10節ではではすべての者に着目していることに気づきます(「BC:C」という対比もある?)。個人であれ、民族全体であれ、こうして神の前に正しくさばかれるということが示されています。

  パウロは、こうした交差並行法を用いることで、神のさばきについて鮮明に、かつ重厚に伝えていると考えられます。特に、最初と最後にあたる6節、11節が神のさばきが全知性公平性の中で行われることが強調され、これ以上ないほど正しいさばきであることが明確にされています。このような構造となっていることを、参考資料としながら、みことばに聞いて参りましょう。

 

 先々週は21-5節のところから教えられました。そこでは「さばくのではなく・・・」というテーマでした。なぜ私たちがさばくべきではないのか。それは正しいさばきをくださるお方がいらっしゃるからです。6節にこうありますね。

6節 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

 神様が、一人ひとりをきちんとご覧になって、それぞれの行いに応じて報いを与えられるのです。この方はすべてをご存知の方、全知のお方なので、唯一完全に正しい判決をくだすことのできる「真の裁判官」です。ですから、私たちが焦って偏ったさばきをくだして、神様のみこころから外れることがないようにしたいのです。

 同じローマ書1219節を開きましょう。復讐は人のすることではなく、神のなさること。ゆえに、人が自分の手で復讐してはならないとあります。神は公正な方なので、正しく報いることができるからです。また、すべてをご存知であるとともに、公平性を常に持っておられる方なので、御手に安心しておゆだねすることができるのです。11節にこうありますね。

11節 神にはえこひいきがないからです。

 私たち人間は、この真逆で、どんなに公正にさばこうと思ってさえ、えこひいきが入ってしまいます。その人の心の隅々までを見抜くことができないし、その人の過去も背景も、事情も十分には知りえないからです。

 さらには、脅迫されたり、買収されたり、騙されたりさえします。スポーツの審判団も、しばしば買収されたり、脅迫を受けたり、あるいは騙されたりして、正しいジャッジができていないことが話題になります。国の威信がかかった戦いになると、スポーツとはいえ、そうした力が陰で働き、審判団もまた様々な危険にさらされ、正しいジャッジができなくなることがあるわけです。ですから、あらゆる意味において、人には公正なさばき、正しく報いるということが難しいのです。

ただし、私たちはそれをなさる神様がおられることを信じて歩むことができます。この方のなさることに期待して歩むことができます。8-9節に語られていますよね。

8節 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

9節 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、

「利己的な思いから真理を行わず、不義に従い、悪を行う人々」。彼らに対する神のさばきは何でしょうか。神様は彼らに対して「怒り」と「憤り」をもって応じ、結果として「苦難」と「苦悩」をお与えになると語られています。

 この地上の歩みにおいても、既にある程度それがなされていることを私たちは見ています。罪を犯せば逮捕され、刑罰を受けて苦しみます。刑を受けずとも、悪いことに対して様々な報い、社会的制裁を受けることもあります。それらはやがてなされる、完全に公正な神のさばきの前味のようなものでしょう。

 また、反対に、なされた良いわざ、正しい行い、愛の行動についてもまた、主は一つももらすことなく見ていてくださるのです。知っていてくださるのです。710節において、そのことが語られていますよね。とても明確にされています。

 さらに、ヘブル610にはこうあります。「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません」 

 たとえ人に理解されなくても、忍耐深く善を行い続ける者に、主は永遠のいのちという神とのとこしえの交わりをくださいます。私たちは、救われるために「良い行い」を必要としません。行いによっては救われないからです。しかし、救われた者、神の子とされた者だからこそ、神の望む良い行いに生きていけるようになり、それを期待されてもいるのです。それは決してノルマのようなものではなく、むしろより豊かにされる道、より祝福を受ける道です。神のご褒美を報いとしてさらに受けさせていただける恵みです。

 主は既に恵みをくださった。神の子とし、キリストと一つにしてくださった。だからこそ、この愛と恵みに応えて、私たちも良きわざに励んで参りたいのです。そして、嬉しいことに、そこにはさらなる報いを主が備えておられるということです。

 この世界では差別もあります。ひいきもあります。罪のゆがみがあるからです。しかし、主の完全に公平で、すべてを理解して下さった上での報いがあるというのは、私たちにとって救いです。心強い励ましです。時に、人にはあまり理解されないこともあります。見えないところでの努力、見えないところにある葛藤。自分が力を注いだのではないところを評価され、一番苦労した点を誰にも分かってもらえないこともあります。それは自分で説明するようなものでもないでしょう。

 しかし、「誰にも」ではないのだと気づくのです。

 主はご存じでいらっしゃるのです。

 主が理解し、人から受けなかった分、主からの報いを与えてくださるのです。主がご存じだから、それで良いと思える人はなんと幸いでしょうか。私たちの強みだなと思うのです。私たちには、この神の完全なさばきと報いが大いなる希望です。悪を悪のまま放置など決してあり得ない。主はすべてをご存知で、ふさわしい時に報いられる。だからこそ、私たちは悔い改めつつ、主とともに歩んで行くのです。もはや無罪とされている安心感はどれほど大きいことでしょうか。そして、愛のわざについては、天に貯金できる恵みをいただいているのです。良いわざ、愛のわざに歩み続け、主の報いを楽しみにさせていただきましょう。




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