ローマ書2章6~11節「神の公正なさばき」
そして、今日のみことばでは、それが交差的になされているので、「交差並行法」と言われます。読む者の記憶に残るよう、印象的に伝える修辞法です。
A 6節 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
B 7節 忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、
C 8節 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
C’ 9節 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
B’ 10節 善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
A’ 11節 神にはえこひいきがないからです。
・AとA’は、神の「正しいさばき」
・BとB’は、善を行う者への神の「良い報い」
・CとC’は、悪を行う者への神の「悪い報い」
・さらに、7-8節では個人に着目し、9-10節ではではすべての者に着目していることに気づきます(「BC:C’B’」という対比もある?)。個人であれ、民族全体であれ、こうして神の前に正しくさばかれるということが示されています。
パウロは、こうした交差並行法を用いることで、神のさばきについて鮮明に、かつ重厚に伝えていると考えられます。特に、最初と最後にあたる6節、11節が神のさばきが全知性と公平性の中で行われることが強調され、これ以上ないほど正しいさばきであることが明確にされています。このような構造となっていることを、参考資料としながら、みことばに聞いて参りましょう。
先々週は2章1-5節のところから教えられました。そこでは「さばくのではなく・・・」というテーマでした。なぜ私たちがさばくべきではないのか。それは正しいさばきをくださるお方がいらっしゃるからです。6節にこうありますね。
6節 神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
神様が、一人ひとりをきちんとご覧になって、それぞれの行いに応じて報いを与えられるのです。この方はすべてをご存知の方、全知のお方なので、唯一完全に正しい判決をくだすことのできる「真の裁判官」です。ですから、私たちが焦って偏ったさばきをくだして、神様のみこころから外れることがないようにしたいのです。
同じローマ書12章19節を開きましょう。復讐は人のすることではなく、神のなさること。ゆえに、人が自分の手で復讐してはならないとあります。神は公正な方なので、正しく報いることができるからです。また、すべてをご存知であるとともに、公平性を常に持っておられる方なので、御手に安心しておゆだねすることができるのです。11節にこうありますね。
11節 神にはえこひいきがないからです。
ただし、私たちはそれをなさる神様がおられることを信じて歩むことができます。この方のなさることに期待して歩むことができます。8-9節に語られていますよね。
8節 利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
9節 悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
「利己的な思いから真理を行わず、不義に従い、悪を行う人々」。彼らに対する神のさばきは何でしょうか。神様は彼らに対して「怒り」と「憤り」をもって応じ、結果として「苦難」と「苦悩」をお与えになると語られています。
この地上の歩みにおいても、既にある程度それがなされていることを私たちは見ています。罪を犯せば逮捕され、刑罰を受けて苦しみます。刑を受けずとも、悪いことに対して様々な報い、社会的制裁を受けることもあります。それらはやがてなされる、完全に公正な神のさばきの前味のようなものでしょう。
また、反対に、なされた良いわざ、正しい行い、愛の行動についてもまた、主は一つももらすことなく見ていてくださるのです。知っていてくださるのです。7と10節において、そのことが語られていますよね。とても明確にされています。