東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ2章18-23節「イエスはキリストである」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/07/24

第一ヨハネ2章18-23節「イエスはキリストである」

*** 7/23(日)主日礼拝 説教概略 *** 

第一ヨハネ2章18-23節「イエスはキリストである」

 子どもの頃の話になりますが、イエス・キリストとは、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っていたことがありました。しかし、実は、聖書の時代のユダヤ人たちは、基本的に苗字というものがないのですよね。ですから「だれだれの子」と親の名前で区別したり、「マグダラのマリア」のように地名を入れたり、あるいは「大工のヨセフ」のように職業で区別したりしていました。実はイエスという名も一般的な名前なので、ナザレに住んでいたことから「ナザレのイエス」と呼ばれました。

 ただし、ナザレの町にイエスという人がいたと信じるだけなら、キリスト信仰ではありませんよね。キリストとは「救い主」という意味です。罪とその結果であるさばきからの救いをくださった救い主と信じるのが、キリスト信仰なのです。ちょうど、今朝の子どもキャンプのディボーションが、マタイ16章。ペテロがイエス様のことを「あなたは生ける神の子キリストです」と告白した場面でしたね。

 なお、これは、日本の様々な辞典等で「キリスト教」を調べてみても、イエスをキリスト(救い主)であると信じる信仰だと書かれています。クリスチャン人口が少ない日本の一般の辞典でさえ、それを明確に定義しているのです。その定義によれば、イエス様をキリストであると信じないなら、キリスト教ではないことが分かります。イエス様をただの良い教師、ただの人間の預言者としてしまうなら、それは日本の辞典の定義においてさえ、キリスト信仰ではないのです。

 私たちの信仰は、「イエス様こそ、私の主なる神。私の救い主。この方以外には救いも本当の幸せもない!」と信じ続けるものです。しかし、それに反対する存在もあって、私たちを惑わし、神様から引き離そうとすることも聖書は語っています。そうした惑わしに騙されずに、このキリストにとどまる者とならせていただきましょう。

 

 この手紙の著者ヨハネは、高齢のヨハネでした。彼はかわいい愛する弟子たち。自分の子のようにかわいい若い信仰者たちを思い、キリストとの交わりにとどまるようにと伝えているのです。それこそが、父なる神様との交わりの中に生きること、御霊の助けのうちに生きるできることでした。

しかし、この交わりを破壊するもの、惑わすものがありました。18節です。

18  幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。

 ヨハネがイエス様のすぐ傍で仕えていた時代から60年も経過しました。キリスト信仰の影響力は増大し、世界各地に広がってもいました。一方で、それに反対する存在も多く現れていたのです。旧約聖書において「終わりの日」と言われてきた時代が、この新約の時代に到来していることを指します。ただし、それは「終わりの時代の初め」でした。私たちもこの時代に生きています。世界は終わりが近づくにつれ、さらに混乱し、より多くの偽キリスト、反キリストが目立つようになります。キリストの勝利が近づくゆえに、敵対する者もまた必死に抵抗しようとするのです。では、実際に「反キリスト」とはいったいどういう人々だったのでしょうか。

第一にイエス様はキリストではない!と言う者たちでした。聖書が全然わからず信じられないでいる人ではありません。信じたいと求めているけれど、まだ信じられないでいる人でもありません。御子を否定し、その結果御子イエス様を遣わした父なる神様も否定することになっている人たちです。22節にこうありますね。 22  偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。 

特に、御子イエス様が、キリスト(つまり、救い主)であることを否定する者。キリストを否定し、批判し、キリスト信仰を無きものにしようとする人です。少し先になりますが、同じ手紙の43節でもこうあります。「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」あるいは、自分こそキリストであると嘘をついて、本物のキリストから引き離す者もいました。

第二に、キリストにとどまらず、教会から出ていく者たちでした。19節にこうあります。

19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。

 「私たちの中から出て行った」とのことばに改めて注目しましょう。これはどういうことでしょう。少なくとも同じ教会の仲間に見えていた人々が、ある時になって自分の意志で出て行ったということでしょう。これって、まじめに信じている人たちからすれば、すごく傷つきませんか。同じ釜の飯を食べ、楽しいことも苦しいことも共有してきたように見えるあの人たちが、ある時、キリストに反旗を翻して出て行ったのです。

 しかも彼らはキリストからクリスチャンを引き離そうとしていく。それを知ったら、これまで一緒に歩んできた者たちは、本当に深く傷つきますよね。だからこそ、ヨハネは真実を教えることで、兄姉たちを励まそうとしているのです。彼は言います。さっさとキリストを捨てて出て行けるような人たちは、ここにあるように「もともと私たちの仲間ではなかったのです」と。そして「仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう」とも。それを知っておきなさいと言うのです。キリストを否定しどの教会からも完全に出た。もうその行動を平然と取ることが、仲間ではなかった証明なのだと。

 

ただ、それでも、それは神様が許されたことでした。19節の最後にあります。「出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだった」とあります。「明らかにされる」という受身形ですので、誰か(何か)に「~される」ということです。その誰かとは、神様でしょう。

それは神様のみわざとして「明らかにされた」と言えるでしょう。ですから、それは、クリスチャンたちの愛が足りなかったからではない。祈りが足りなかったという話でもない。接し方の問題でもないのです。

そもそも反キリストとしてそこにいた者たちが時が来て出て行くのです。彼ら自らが本当の姿を現し、それを主がお許しになり、明らかにされるということです。元は仲間だったけれど、何か傷ついてつまずいて、反キリストになったということではないのだとわかります。仲間ではなく、仲間のふりをして潜り込んでいた反キリストが、その本当の姿を現したということです。

悲しいことですが、現実にそういうことは起こっています。信者のふりをしてもぐりこみ、2-3年かけて関係を築いて信頼を得ます。そこから人々を他の集会に連れていき、違う教えを教え込んでいくのです。そうやって分裂した教会、傷ついた教会が実際にあるのです。

 

その背後にいる悪魔の目的は、私たちを弱らせること。傷つけることです。そうしたことで私たちがイエス様から離れることこそ、悪魔の狙いなのです。

ですから、18節で「あなたがたが聞いていたとおり」と語られているように、前もって警告されているのです。

もちろん、そのような反キリストでさえ、神様は愛しておられ、悔い改めて立ち返ることをいつでも願っておられます。あの裏切り者のユダにさえ、イエス様は最後まで愛を示しておられましたね。実は、22節に出て来た「否定する」ということばは、ペテロが自分を守るためにイエス様との関係を否定した場面でも使われています。ペテロは自分も殺されるのではないかと恐れるあまり、誓いを立ててまで、イエス様との関係を完全に否定したのです。

それでもペテロがユダと決定的に違ったことは、彼がイエス様のもとにとどまったということです。大変な過ちを犯しても悔い改めてキリストにとどまろうとするなら、主は何度でも赦してくださいます。むしろ、決して見捨てないでいてくださいます。

ですから、真のキリスト者とは、時がたっても、何度しくじろうとも、キリストのもとに「とどまる者」なのです。また次週、お話しすることではありますが、この「とどまる」ということがこの手紙の大切なキーワードなのです。強い信仰でなくていい。ボロボロでもいい。失敗だらけでもいい。それこそイエス様の着物の端っこにつかまるのでもいい。それでも、とにかくイエス・キリストに留まること。これだけで十分です。

 

昨日、今日と子どもたちの教会でのキャンプで、みんなでご飯を食べ、一緒に遊び、お泊りをしました。仲良くなったからこそ、お互いに離れたらそれだけでも悲しいでしょう。そこに一緒にいる、とどまるということが、どれほど大切で尊いことでしょうか。うまく馴染めるとか、人を楽しませられるとか、何かが上手だとか。そんなの関係ないのです。

ただ、あなたがこの交わりいてくれること。ここにとどまっていることが励ましです。嬉しいのです。まだことばも話せない小さな子であろうと、体のあちこちがボロボロであろうと、あなたがイエス様のところに、教会にとどまっていること。それだけで十分(もちろん、何もしないことを推奨するものではありません)。

それを神様は何よりも喜んでおられます。それが何よりも兄姉の励ましになる。それが教会の祝福なのです。皆さんの心には、このことばが届くと信じています。

ヨハネもきっと、そういう思いで書いているのです。21節のことばの背後には、そのような思いがあるのでしょう。キリストを信じて御霊の注ぎを受けたあなたがただから、この真理がきっと伝わると信じている。心と魂で受けとめてくれると。

 

 神様は今日も、あなたに問いかけ、語っておられます。「イエスを誰だと言いますか」と。私たちは、「イエス様こそ、生けるまことの神キリストです!」と告白し続けましょう。その人はすべての罪を赦され、神の子とされています。天国への切符を手にしています。ですから、ここにとどまりましょう。あなたがとどまりたい願うのなら、主が私たちを見捨てることなど決してありません。




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