ローマ書1章22~25節「造り主のみをほめたたえる」
ある方が、どうしてプロテスタントの教会では、「イエス様の肖像画や像に向かってお祈りをしないのか」と疑問に持っておられました。イエス様の絵に向かってお祈りすると心が落ち着くのだと。もちろん、私も礼拝堂の十字架を前にしてひざまずいて祈ることもありますし、絵を見て祈ってはいけないということはないでしょう。
ただ、私がその方にお伝えしたことは、「私がどうしたいか」ではなく、「神様がどう願っておられるか」を大事にすることが、神様を愛することであるということです。
私たちは誰か大切な人のために何かをして差し上げることがあります。その時、相手の意向を無視して、相手を喜ばせることができるでしょうか。例えば、自分がやってあげたいからと言って、相手が嫌がることをするのは、愛でしょうか。相手の望むこと、相手が喜ぶことを考えてするということも、大切ですよね。
ギリシャでは、ゼウス、ヘルメス、アルテミスなど、神を「人間」の姿にしていますよね。さらに、エジプトなどでは、ハヤブサ(ホルス)、犬(アヌビス)、猫(バステト)など動物の姿に替えた例が多くあります。「這うもの」とありますが、蛇を神々とする偶像礼拝も非常に多くあります。人はこの世界の動物の中で最も賢い存在でありながら、動物たち以上に愚かなことをしてしまう存在であるという皮肉です。
それは「自分本位」の考え方であり、自分の欲に引き寄せていくものであります。また、多くの偶像礼拝は、人間の「欲」と深い関係にあります。欲望を神とする時に起こることでもあるのです。では、神様はそのような人の愚かな行為についてどのようになさるのでしょうか。このようにして、神であるお方を、朽ちて行くむなしいものにすり替えてしまう時、何が起こるのでしょうか。24節です。
24節 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
神様は、彼らを「引き渡された」とあります。「引き渡された」という表現は、あまり良い表現ではありません。旧約聖書でも、イスラエルが罪を犯し、特に偶像礼拝などが原因で神とみことばから離れた時、敵対する民族に手に「渡された」ということがあります。脚注を見ていただくと「汚れるに任せられました」ともあります。神様はこれらの罪に対してうやむやにせず、そこにはさばきが確かにあるようにされているのです。
神様は、強制的に無理やり人の意志を変えない方であり、本人たちの自由意志を尊重しておられます。ただし、神様は、この自由な意志を罪を犯すための機会とすることなど願っておられません。むしろ、良いものを選び取り、良いものを生み出すために「自由な意志」を与え、尊重しておられるのです。自由な選択なしには、どんな良きものも生まれないし、愛も生まれないからです。お金で愛してくれと頼んだり、恐怖で脅して愛せよとしたりしたところで、それは決して愛にはなり得ません。
神様は人を愛するゆえに、この人格、選択できる自由を尊んでくださっています。それなのに人は、自由意志を乱用し、悪いことのための道具としてしまいました。その自由によって、神から離れる道を選んでしまったのです。当然、そこには結果もついてまわります。「真理」を「偽り」へと自分たちの意志で替えてしまったのですから、その結果も替わってしまうのは当然のことです。まことの神を選べば、まことの救いがついてくるし、偽りの神を選べば、偽りの救い、すなわち滅びがついて回るのです。
パウロはこうして、厳しいけれど確かな事実を提示します。そうして、なんとかして幾人かでも救いたいのです。「何をしていても、悔い改めなくてもあなたは大丈夫だよ。」ということばは、一見優しそうに見えて、最も残酷です。安心させたまま、平然と滅びに至らせるのですから。しかし、パウロは救いを願います。ですから、「造り主なる神様こそ、とこしえにほめたたえられる方です!アーメン」と、パウロははっきり、明確に語っています。
25節 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
神様はパウロを通して、このように造られた物を偶像にしてしまう危険を教えています。朽ちて行く造られた物ではなく、朽ちることのない造り主なる神様をこそ、ほまたたえつつ、歩んでいきたいのです。
私たちは強制力や義務を使いません。脅迫や恐怖心をあおる方法で決断させません。あくまでも、本人が自分の意志で選ぶことを尊重します。しかし、忘れてはならないことがあります。明確に真理を伝え続けることです。選択肢がなければ、選びようがありません。
ローマ10:14にこうあります。しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょう。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょう。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
我が家の信仰継承はこの方法です。礼拝を強制したことはありません。聖書を読むのを強要したこともありません。それをしないと、お小遣いをなしにしたり、遊べなくするよと脅したりしません。
しかし、絶えず、出来る限りのすべてをもって、主のすばらしさを伝えました。礼拝の喜び、教会の豊かさ。その感謝と幸いを伝え続けました。パウロがしているように。神様がそうされているように。
羊を水飲み場に連れて行くことまではできても、水を無理やり飲ませることはできないと言われます。でも、水がどこにあるのかを教え、そこを示すことは羊を飼う者の責任でしょう。
私たちも無理やり信じさせたり、強制的に来させることはできないし、すべきでありません。しかし、その救いの道、そのすばらしさ、その価値、その喜びを伝えているのかは問われます。この神様以外に幸いはないと伝える責任があります。
皆さんの周囲に、あなた以外にその人に福音を届けることができない方がいらっしゃるのではないでしょうか。そこにあなたは遣わされています。そして、私たち自身が神様を大事にしない姿勢が、神様以外にもっと大事なものがあるという暗黙のメッセージを生んではいないでしょうか。優先順位がずれてしまっていることありますよね。