東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書3章1-15節「神の時」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/07/18

伝道者の書3章1-15節「神の時」

 *** 7/9(日)主日礼拝 説教概略 ***

伝道者の書31-15節「神の時」

 ある村におじいさんがいました。彼は上等な馬を一頭持っていました。ある日、商人が来て、その馬を高額で買いたいと言いましたが、おじいさんは売りませんでした。ところが翌日、なんとその馬が小屋から逃げてしまったのです。村人は言いました。「とんだ災難だね。馬を売れば良かったのに!」しかし、おじいさんは言いました「良いとか、悪いとか言わないでくれ。それは神のみぞ知る」。

 1週間後、おじいさんの馬が戻ってきました。しかも4頭の馬を連れて。村人は言いました。「おじいさん、良かったね。ついてるね。」と。しかし、おじいさんは言いました「良いとか、悪いとか言わないでくれ。それは神のみ知る」そのうち、この馬を売りに出せるよう息子が調教し始めました。しかし、ある日息子は落馬して骨折してしまいました。村人は言いました。「なんて災難で、不幸なことだ!」と。

 おじいさんは言いました。「良いとか、悪いとか言わないでくれ、それは神のみ知る」やがて国で戦争が起きました。すべての村から若者が駆り出されました。ところが、おじいさんの息子は骨折のため、召集されませんでした。村人は言いました。「いや~運が良かったね。戦争にいかなくて済むなんて。」おじいさんは言いました。「良いとか、悪いとか言わないでくれ。それは神のみぞ知る」。

 良いか悪いか。物事の一部しか見えない人間には見極めきれないことです。
 まさに、神のみぞ知ること。ただ、私たちは生けるまことの神様が、全知全能で、良いお方であると知っています。この神様が、すべての出来事において、ふさわしい時を定め、導いておられるのです。すべてのことに、神の時があることを教えられましょう。

 

1節でこう語られています。
1 すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。 

ここは1-8節の総括、まとめの部分です。これは、何事にも良い時があるから、その機会を逃さすなという教えではありません。それだと、人が時を見極められることが前提となってしまいます。

しかし、むしろ人には時を「見極められない」のです。11節の途中にこうあります。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。と。

人には永遠への憧れや渇望が与えられています。しかし、その全体像を見極めることは、決してできないというのです。神と人との圧倒的な違いがそこにあります。またこれらは、運命論でもありません。

では、ここはどう理解すべきなのでしょう。

必要なことは、「神の」ということばを行間に読み取って理解することです。例えば1節では、「すべてのことには定まった神の時期があり、天の下のすべての営みに神の時がある」ということです。恵みの神様がすべての出来事において、主権を持っておられるということ。時を定めておられるということです。 

2-8節では、様々な事柄の中に「神の時」があることが、具体的に語られています。生&死、植える&抜く、崩す&建てる、捨てる&集める、愛&憎しみ、戦争&平和など。人生の様々な場面が思い浮かびます。そこには神の時があると言うのです。

しかも、それぞれが対極の内容を指していて、「対」になっていますよね。これらは修辞表現(メリスムス)の一つで、代表的なのは創世記1:1でしょう。「初めに神が天と地を造られた」とあります。それは天と地だけを造られたのではなく天から地まで、そこにあるすべてを造られたという意味ですよね。

ここでも同様で、このようにしてペアで語ることで、人の目に良いと思えることも、悪いと思えることも、どれも例外なく神の時において起こっているのだと語られているのです。


しかし、どうでしょう。私たち人間は神の定めた時があるということ、意外に受け入れにくいのではないでしょうか。神の時が最善だとは信じ切れない。そういうことがありますよね。どこかで、神様より自分の考えが正しいと思っているのかも知れません。

しかし、神の時に不満を抱く私たちは、果たして「神の時はおかしい」と言える根拠や知識を持っているのでしょうか。もし、私たちが他の人々の生死を決める権限を持っていたとしたらどうでしょう。これを想像すると、とても恐ろしいことだと思います。

「こんなに苦しい病なのに、なぜそんなに長く生かすのか」と恨まれるかも知れません。逆に、「あと1か月生かしてくれたら、孫の顔を見ることができたのに」とか。「あと1日早く死なせてくれれば、あんなむごい事件に巻き込まれなかったのに」などと言われるでしょう。

そう考えると、全知全能ではない私たちに、良い時、悪い時の判断などできないのではないでしょうか。実際には世界中の様々な要素が、一つのことと絡み合い関係しています。一人の人は死は、それだけでは終わらず、様々な人々や出来事と絡み合っています。

以前、ある宣教師さんからこんな話を伺いました。「本当は、良い時、悪い時などというものはない。あるのはただ『神の時』だけなのだ」と。良い時、悪い時とは、小さな私たちの目に、そう見えているだけなのですよね。私たちには、時を正しく見極められないのです。


それならば、私たちはどう生きれば良いのでしょうか。運命だと思ってあきらめて生きるのでしょうか。そうではありません。2つのことを大事にしましょう。

 

1.神の時を受け入れる  

 ここで語られているように、すべてのことには神の時があることを、受け入れていくことです。私たちは無知ですが、神様は全知全能です。愛の神、真実な神様です。ですから、神様の時を感謝のうちに受け入れる信仰を持ちたいのです。

 12-13節では、日々の労苦の中で、神様から与えられているものを喜び楽しむことが、再び語られています。創造主である神様から離れて、自分の欲を神として快楽に生きる時、それはとてもむなしいものです。しかし、13節にありますように「神の賜物」として享受するならば、それは本来の輝き、豊かさをもって私たちを楽しませてくれるのです。第一テモテ44にこうあります。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません」  

私たちはいつも、何かが足りない気がし、不満を持って歩むことが多いでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。時においても、物においても、私たちがその豊かさに気づいていないだけではないでしょうか。実は十分に良きを物を受けているのではないでしょうか。神を覚えて感謝して受ける時、捨てるべきものはないとみことばは言うのです。ないものに目を向けがちですが、すでに受けているものをしっかり喜び受け入れましょう

主は最善の時に、最善のものをあなたにくださっているのです。14節にもこうあります。

14 私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。 

私たちはその反対で、移ろいやすい存在です。揺れ動き、衰え、状態も変化します。人間には不変ということがないので、不安定なのです。しかし、神様は違います。永遠不変です。だから、おっしゃることも、なさることも、常に同じ真実です。常にベストコンディションで、失敗もゼロなので、いつでも最善の時に、最高のことができるのです。

ですから、神様のなさることに、付け加える必要も、取り去る必要もないのです。感謝して神のふさわしい時に受け取りましょう。

 

2.神の美しいみわざの協力者になる 

 もう一歩積極的な点として神様は、その時にかなって美しい神のみわざの協力者となるよう、私たちを招いておられます。この招きに応じることが大切なので、この書の結論は、「神を求めよ」、「あなたの創造者を覚えよ」なのです。

 人には時を支配する力はない。いや、時を見極める永遠性さえも持っていないのです。だから、その御力を持つお方の招きに応じたいのです。この方の声に聴き、この方とともに生きることです。

 神様は、私たちの祈りや私たちの歩みのすべても、「神の時間軸」の中に調和させ、美しいみわざの一部として完成させてくださるお方です。ですから、キリストを受け入れ、神の子とされた者は、もうただの傍観者ではないのですよね。

 確かに、私たちはしばしば「神様、なぜですか。どうしてですか」と問いかけ、葛藤するでしょう。しかし、少しずつですが、神様によって目が開かれていきます。第一コリ39節には「神の同労者、神の協力者」という訳せる箇所もあります。神の美しいみわざの参画者・協力者とされるのです。

 ここに立つならば、11節のみことばを、実感をもってわかる者へと変えられていきます。

 11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。 

 このことばを、自分自身の心からの告白とできるなら、なんと幸せなことかと思います。そこに平安がありますよね。ここは、もう少し直訳的に訳すならば、「神はすべてのことを、その時の中で美しく造られる(なしてくださる)」というニュアンスです。

 実は、ここには、創世記において神が人を「さあ、われわれのかたちに造ろう」と言われた時と同じ「造る」ということばが使われています。

 ですから、まさに運命ではなく、神様がご意志をもって全世界の出来事をそれぞれの時にふさわしく美しい姿に造り上げておられるということです。もちろん、私たちには多くのわからない出来事があります。9節にあるように、こんなに苦しい思いをして働いて、何の益になるのだろうか。そうした「むなしさ」を感じることもあるでしょう。

 罪の世ゆえに、不条理なことも多いのです。しかし、その時にはわからなくても、神の声に聴き、教えられて行く中で、やがて「ああ、この時のためだったのですね」と気づかされる時が来る。これは希望ですよね。

これが神のみわざなのです。このお方とともに歩む時、点が線となり、線がやがて面となっていきます。美しい主のみわざに気づかされ、私たちに平安な義の実を結ばせます。 神はこのような神の美しいみわざの中に、私たちを招いておられます。協力者となることを求め語りかけておられます。その声に応じ、永遠という時の中に神とともに歩ませていただきましょう。

 

 ご一緒にみことばに聴いて参りました。神様は、今日、私たちに語っておられます。

すべてのことには、人の知恵をはるかに超えた「神の時」があることを知りなさいと。そして、そこにはすぐには分からないけれど、神の良きご計画がある。それを信じて感謝のうちに受け入れていきたいのです。

しかし、神様はそれ以上の豊かな恵みに私たちを招いておられます。神の時にかなって美しいみわざの協力者として、あなたを招いておられるのです。私たちの祈り、私たちの愛のわざ、私たちの奉仕のすべても、その中で豊かにされます。ぜひ、ご一緒に、美しい神のみわざをたたえる者とならせていただきましょう。



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