ローマ書1章18~21節「世界から神を知ることができる」
パウロは、そのための解決の道(福音)を伝えたいのです。最初に少し触れましたように、「啓示」というものは、人間のために神様がくださっているメッセージです。他の誰のためでもありません。愛する人間に、ご自分のこと、救いのことを伝えておられる。特に、ここでは「神の怒り」も人のためにあえて伝えてくださっているということです。
この世界が創造された時から、目には見えない神様の性質については、目に見える被造物を通して知ることができるのだと言うのです。この世界を見れば、この世界の姿から神の存在について知り得ると言うのです。しかも、漠然とではなく、「はっきりと認められる」とさえ語られています。
それゆえに、「私は神を知る機会などなかった!だから無罪だ!」と言うような「弁解」の余地は「ない」ということです。
昔、創造に関する本で、ニュートンと無神論者の友人のエピソードについて読んだことがあります。
万有引力の法則で有名なニュートンのもとに、創造主なる神様を信じない友人が訪れたときのことです。ニュートンの部屋には太陽系の模型がありました。それはハンドルを回すと、それぞれの速度で太陽系の星ぼしが回るものでした。友人はそれを試して言いました。「これは実に見事だ。一体、誰が作ったんだい?」 ニュートンは答えました。「誰が作ったわけでもない。色々なものが集まってたまたま、偶然こうなったんだよ」。そこで、友人は、「ニュートン君、からかうんじゃない。こんな見事なもの、誰かが作ったに決まっているじゃないか。これを作った人はなかなかの天才だよ。」と言いました。けれども、ニュートンはこう答えました。「これは、はるかに壮大な宇宙の体系の粗末な模型にしか過ぎない。この単なるおもちゃが、誰の手にもよらず勝手に出来たと言っても、君は信じないじゃないか?なのに、この仕掛けのもとになった偉大な太陽系は、どんな設計者もなく、勝手に偶然できたと言う。それは不統一すぎる考えではないか?」そのように言ったそうです。私たち人間は、この世界にある様々なものを模倣して、美しい芸術を作り上げます。絵を描き、模型を造り、この世界の原理を使って、様々な発明をします。いずれも、この世界にあるものを模倣したり、用いたりして作っているのです。作られたものには必ず作者います。けれど、その元にあるものは、たまたま偶然できたと言い張るのは、やはり矛盾するように思うのです。
聖書は、語っています。この世界のあらゆる造られたモノを見れば、その偉大な設計者、創造者がいることが分かる。だから、「神がわからない」とばかり言っていないで、むしろ祈り求めなさいと。様々なものを通して神様を知ることができるのです。
岩渕まことさんの曲に「贈り物」という曲があります。「まどべにゆれる 光の中で 透き通る花びらや 木立を過ぎる 風の姿に 神の愛が聴こえる。大空高く そびえる山に わき上がる白い雲 季節を渡る鳥の群れに 神の愛が聴こえる。」そして「瞳に映るひとつひとつは、神からの贈り物、世界に満ちるすべてのものは 神から贈り物」と結ばれていきます。あらゆることを通して神様を知るチャンスがあるのです。(ぜひ、岩渕さんのこの曲、CD等でお聴きになってください。とても綺麗な良い曲です)
それなのに、このお方をあがめない歩みによって、自ら暗闇に向かって歩んで行ってしまう人間の罪の問題が語られていますね。 21節 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。 「神としてあがめない」は、直訳的には「神としての栄光を与えない」と訳せます。神様が本来持っておられる栄光を、人が認めようとしない姿勢。いや、むしろ、人が自分に栄光を帰したいので、神を見ないふりをしているのかも知れません。
神様は、イエス様の十字架を十分に知らない人にさえも、神を求める心を起こさせ、完全ではないにしても、ご自身のことをわかるよう示しておられます。私たち自身、みことばからはもちろんですが、この世界のあるあらゆることから、神を知るということを、もっと大事にして参りたいと思うのです。おそらく、私たちの心はこの世の生活の中で、驚くほど神様のメッセージに鈍くなっています。それはそうです。他のことに心が忙しいなら、神様への心は失われています。鈍い心はやがて暗くなります。