東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書1章18~21節「世界から神を知ることができる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/07/13

ローマ書1章18~21節「世界から神を知ることができる」

 *** 7/12(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書11821節「世界から神を知ることができる」

 信仰は知ることから始まると言われます。知らないものはが信じようがないからです。
 そして、キリスト教は「啓示の宗教」と呼ばれます。それは人間の努力や探求で神様を見出すのではないということです。神様の方から人にわかる方法で啓示してくださって、ご自分のことを示してくださる宗教です

 そして、今日のみことばによれば、聖書が与えられるよりもずっと前、この世界が造られた時から、神様はこの世界を通してご自分を示されているのだと分かります。神様は聖書だけでなく、常に、あらゆることを通して私たちに語っておられるのですよね。私たちは、この世界のあらゆることを通して、もっと主の声に聴いていきたいのです。

 

18  というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 

 直前でパウロは福音をすべての人に伝えるべきであると語っていました(14-17)。その理由の一つは、ここにあるように、今や神の怒りが啓示されているからです。福音の真理を受け入れない人々、不敬虔と不義のある人々への神の怒りがある。救い主として神の御子まで送られている今。それでもなお、信じない者に、罪の赦しはなく、罪への神のさばきがあることが明らかにされています。

パウロは、そのための解決の道(福音)を伝えたいのです。最初に少し触れましたように、「啓示」というものは、人間のために神様がくださっているメッセージです。他の誰のためでもありません。愛する人間に、ご自分のこと、救いのことを伝えておられる。特に、ここでは「神の怒り」も人のためにあえて伝えてくださっているということです。

それは、人が問題に気づいて、福音の真理を受け入れられるようにするためです。一般に、私たちは「怒り」というものを否定的に考えることが多いと思います。確かに人は、罪深い怒りの用い方をしてしまうことが少なくないからです。けれども、悪に対する正義の怒り等は必要なものです。理性をもってコントロールして表現する時、それは豊かに用いられるものです。事実、正しい良いお方である神様は、「怒り」というものを様々な場面で意図的に表現されていますよね

エペソ4:26にも「怒っても、罪を犯してはなりません」とあります。つまり、怒ること=罪ではないことがわかります。それどころか原文のニュアンスは「怒りなさい」(命令形)です。「怒るがよい、ただし罪を犯してはならない」といった意味でしょう。

私も時々、あえて怒りを表現します。感情的に怒っている場合もありますが、怒りを伝えることによって、本気で考えて欲しいためです。

説教の中でも声を少し大きくするのは怒ってはいないですし、必ずしも感極まったのではなく、「真剣さ」を伝えなければならないので意図的にすることが多々あります。

また、神の怒りの啓示は、旧約聖書の記述の中に多く現れています。神に反逆する者たちが滅んできた歴史が語られています。それもまた啓示の一つです。そしてもちろん、怒りの啓示以上に、神様ご自身の存在、このお方の愛、このお方の偉大さが啓示されているのです。19-20節でパウロは次のように言います。

19  神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。20節 神の目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。 

ここでは「神について知りうることは、彼らの間で明らかです」と語られています。この世界にいる人間ならば、誰もが知っているはずなのだという理解です。そして、一体いつから、神様のことは明らかにされているのでしょうか。聖書が生まれてからでしょうか。イエス様が来られてからでしょうか。そうではないのだと言います。20節にありました。「世界が創造されたときから」だと。

 この世界が創造された時から、目には見えない神様の性質については、目に見える被造物を通して知ることができるのだと言うのです。この世界を見れば、この世界の姿から神の存在について知り得ると言うのです。しかも、漠然とではなく、「はっきりと認められる」とさえ語られています。

それゆえに、「私は神を知る機会などなかった!だから無罪だ!」と言うような「弁解」の余地は「ない」ということです。

昔、創造に関する本で、ニュートンと無神論者の友人のエピソードについて読んだことがあります。

万有引力の法則で有名なニュートンのもとに、創造主なる神様を信じない友人が訪れたときのことです。ニュートンの部屋には太陽系の模型がありました。それはハンドルを回すと、それぞれの速度で太陽系の星ぼしが回るものでした。友人はそれを試して言いました。「これは実に見事だ。一体、誰が作ったんだい?」 ニュートンは答えました。「誰が作ったわけでもない。色々なものが集まってたまたま、偶然こうなったんだよ」。そこで、友人は、「ニュートン君、からかうんじゃない。こんな見事なもの、誰かが作ったに決まっているじゃないか。これを作った人はなかなかの天才だよ。」と言いました。けれども、ニュートンはこう答えました。「これは、はるかに壮大な宇宙の体系の粗末な模型にしか過ぎない。この単なるおもちゃが、誰の手にもよらず勝手に出来たと言っても、君は信じないじゃないか?なのに、この仕掛けのもとになった偉大な太陽系は、どんな設計者もなく、勝手に偶然できたと言う。それは不統一すぎる考えではないか?」そのように言ったそうです。私たち人間は、この世界にある様々なものを模倣して、美しい芸術を作り上げます。絵を描き、模型を造り、この世界の原理を使って、様々な発明をします。いずれも、この世界にあるものを模倣したり、用いたりして作っているのです。作られたものには必ず作者います。けれど、その元にあるものは、たまたま偶然できたと言い張るのは、やはり矛盾するように思うのです。

聖書は、語っています。この世界のあらゆる造られたモノを見れば、その偉大な設計者、創造者がいることが分かる。だから、「神がわからない」とばかり言っていないで、むしろ祈り求めなさいと。様々なものを通して神様を知ることができるのです。

 岩渕まことさんの曲に「贈り物」という曲があります。「まどべにゆれる 光の中で 透き通る花びらや 木立を過ぎる 風の姿に 神の愛が聴こえる。大空高く そびえる山に わき上がる白い雲 季節を渡る鳥の群れに 神の愛が聴こえる。」そして「瞳に映るひとつひとつは、神からの贈り物、世界に満ちるすべてのものは 神から贈り物」と結ばれていきます。あらゆることを通して神様を知るチャンスがあるのです。(ぜひ、岩渕さんのこの曲、CD等でお聴きになってください。とても綺麗な良い曲です)

それなのに、このお方をあがめない歩みによって、自ら暗闇に向かって歩んで行ってしまう人間の罪の問題が語られていますね。 21  彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。 「神としてあがめない」は、直訳的には「神としての栄光を与えない」と訳せます。神様が本来持っておられる栄光を、人が認めようとしない姿勢。いや、むしろ、人が自分に栄光を帰したいので、神を見ないふりをしているのかも知れません。

 神様は、イエス様の十字架を十分に知らない人にさえも、神を求める心を起こさせ、完全ではないにしても、ご自身のことをわかるよう示しておられます。私たち自身、みことばからはもちろんですが、この世界のあるあらゆることから、神を知るということを、もっと大事にして参りたいと思うのです。おそらく、私たちの心はこの世の生活の中で、驚くほど神様のメッセージに鈍くなっています。それはそうです。他のことに心が忙しいなら、神様への心は失われています。鈍い心はやがて暗くなります。

 昔教えてもらった子ども賛美にもこのような歌詞がありました。クリエーションという曲です。「耳を澄ましてごらん ほら聴こえてくるでしょ 大自然が歌う クリーエーション ハーモニー」 主が日々の出来事やこの世界との触れ合いの中に、メッセージを備えておられるのに、聴こえない、聴こうとしないからです。神様とともに散歩をし、神様とともに電車に乗り、神様とともに学び、仕事をし、家事をしていきたいのです。心の耳を澄ましていきたいのです。



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