東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書2章12~16節「神の前に正しく生きる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2023/09/08

ローマ書2章12~16節「神の前に正しく生きる」

*** 9/6(水)祈祷会 説教概略 ***

「ナルニア国物語」の原作者、CS・ルイスは、人の心に与えられている「良心」こそ、私たちが神様に造られた大きな証拠だと言いました。聖書を学んでいなくても善悪を判断する心が人にはありますまた、悪いことをすれば心が痛むので、それが悪いことなのだと分かりますよね。法律や道徳を勉強したから身についたのではなく、生まれながらに人には「良心」というものがあるのではないでしょうか。これこそ人が神に造られた証拠でしょう。

 そして、この「良心」が与えられている以上、福音を聞いたことがない人々も、「自分の罪の問題について知らなかった」で済ますことはできません。なぜなら、律法を知っていても知らなくても、神の前に正しく生きるべきことは、すべての人に共通して求められている。そのために人には良心がある。

そのことは、今日のみことばの15節で語られている通りです。 

15  彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

 「彼ら」とは、律法を持たない異邦人です。そうであるならば、文字で律法を持っているか、心に律法を持っているかの違いであ、ユダヤ人と異邦人の区別はあまり意味をなさないとわかります。

 ローマの教会は、ユダヤ人と異邦人の両者が混在していました。パウロは、異邦人にも語りながら、同時に17節以降ではユダヤ人に向けて特に語っていきます。パウロはこうして、すべての人々がキリストによって真の平和と一致を持つことを願って、これを著しているのでしょう。

 私たちはこのところから、神の前に正しく生きるということについて教えられて参ります。

ちょうど日曜日の礼拝において、聖書が言う罪とは人間のルールではなく、神の法に対する違反であると学びました。特に心を見ておられるので、うわべの行為だけでなく、愛に生きることの大切さを学びました。 私たちはまさに、単に表面的な文字を守る生き方ではなく、心に示されている愛の律法に生きていく必要があります。


さて、11節で「神にはえこひいきがない」と語られていました。しかし、読者であるローマに住むクリスチャンたちは反論するかも知れません。いやいや、そうは言ってもユダヤ人は神に選ばれて、律法を持っている民。一方で異邦人は元々律法を知らない。律法を知る者と知らない者では同じではない!公正であるはずがない!と。パウロはそうした反論に対して答えを用意していたのではないでしょうか。12節にこのようにあります。

12  律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。 

 結論としては、律法があろうがなかろうが、罪があればその結果は皆共通で「滅び」なのだと言うことです。それは言い換えるならば、神のさばきの前に、ユダヤ人も異邦人も関係ないということです。

なぜ、そう言えるのでしょうか。

13  なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。 

律法を知っているから「義とされる」のではないのです。善悪に関するすさまじいほどの知識を持っているとしても、正しいことを行わないなら何の意味もありません。私たちクリスチャンも、聖書を知的に知っていることで、何かを得たように考えるべきではないですよね。知っている、持っていること=義、ではないのです。大事なのは、みことばに生き抜くことです。

福音をことばだけで伝えても、人の心には届きません。私たち自身が、まっすぐに主のみことばを行う必要があるのです。主の望まれることを行う者でありたいのです。また一方で、律法を知らなかった!という理由で無罪になるわけでもありません。律法に反していれば、それは罪なのです

そのことは「法治国家である現代社会」を見てもわかるのではないでしょうか。例えば、ある人が盗みをしました。その時に、「私は法律を学んでいなかったので、盗みが法律違反だとは知らなかったのです!!だから私は無罪です!」という理屈は通るでしょうか。「知らなかった」と言えば、無罪になるなら、みんなそう言うでしょう。

さらに、異邦人には「律法がない」と言い切れるのかと言うと、そうではないとも語られています。14-15  

14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。15 彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。 

どういうことでしょう。確かに異邦人は、旧約聖書の律法を持ってはいません。しかし、「神のかたち」に造られた人間です。ゆえに、その心には「良心」や「道徳心」が備わっているのです。ですから、聖書を学んでいなくても、良い行いはできますよね。

例えば、自分の親を敬い、困っている人を助けること。ルールを守ることは正しいと知っているはずです。不正をしてはいけないこと、だましてはいけないこと。聖書を信じない人々の社会でも、ある程度こうした倫理を誰もが知っています。律法を知的に学んでいなくても、彼らの心には律法と同じような内容が与えられている。そのことは、彼らの「良心」が証ししていると言うのです。

私たちは悪いことをすると、胸が痛みます。自分の心が責められます。そして、ここにあるように自分に言い訳をし、弁明をして正当化しよう、誤魔化そうともするでしょう。それでも、自分の心が晴れることはありません。罪悪感はずっと残りますね。人の心には神から授かった「良心」があるからです。

それこそ、人が神様によって造られた証拠であり、立ち返るキッカケにもなります。

聖書を知る前から、良いことと悪いこととを区別して生きているのが人間です。私たちも、律法を知らなくても、律法に書いてある良いわざを行うことができるし、また実際してきたはずです。神のさばきの前には、どちらの者たちも、立場は違っても、同じ罪人とされるのであり、どちらの側の者でも、神の救いが必要なのです。悔い改めが必要なのです。 16  私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。 

イエス様が再びこの地上に来られる時、それは神のさばきがなされていく時です。その時、人々の心の奥にある、誰にも見つからなかった様々な悪意や罪についても、主が確かにジャッジをなさいます。だからこそ、言い訳ばかりを考えず、神の前に正しく生きようとすることが大切です。罪を犯した時には、罪人であることを率直に認め、主キリストの十字架にすがることが大切です

「不公平だ!」と自分の論理で嘆いてばかりいないで、罪ある者であることは確かなことなので、悔い改めて神に立ち返ることを大切にしたいのです。

私たちもしばしば、知識があるかないかにとらわれ、主が喜ばれることをしようという純粋でまっすぐな姿勢を失ってはいないでしょうか。静かに心に胸を当て、主のみ思いに心を向けませんか。細かな教えの解釈の違いや、杓子定規に律法にうわべ従うのではない。もっと深いところで、主に喜ばれようとする思いがあふれ出て、歩みたいのです。

アロンの二人の息子が祭壇で異なった火をささげ、滅んでしまった時、アロンは祭司が食べるべき肉を食べませんでした。それは文言上では、律法違反でした。ですからモーセはアロンを詰問します。レビ10:18 見よ、その血は聖所の中に携え入れられなかった。あなたがたは、私が命じたように、それを聖所で食べるべきだったのだ。」 

しかし、アロンは、今日息子たちが死んだばかりです。心が伴いません。機械的に文字通り食べることを、主が喜ばれるだろうかと真剣に悩んだのです。律法の文字に従うのではなく、それをくださった主を見上げたのです。

10:19 アロンはモーセに言った。「見なさい。今日、彼らは自分たちの罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を主の前に献げたが、このようなことが私の身に降りかかったのだ。今日、私が罪のきよめのささげ物を食べていたら、そのことは主の目に良しとされただろうか。」 

 主の前に何が良いのか。何を喜ばれるのか。悩み考えることは大変です。苦しみを伴い、時間を要します。答えがはっきりした方が楽なのです。しかし、主のために深く悩み、時間をかけて考えること自体が主に喜ばれる姿勢ではないでしょうか。モーセはこのアロンの答えを聞いて納得し、それでよいとしたと20節にあります。主の前に正しいこと。それは完全な知識を持つことではなく、主が喜ばれるように生きることです。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *