東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ヨハネ3章4~10節「変えられた私たち」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2023/09/04

第一ヨハネ3章4~10節「変えられた私たち」

*** 9/3(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ヨハネ3410節「変えられた私たち」


「私はイエス様を信じているのに、以前と少しも変わっていない」

 そう思っているクリスチャンも少なくないことと思います。変わらない自分を見て、半分あきらめてしまっているということもあるでしょう。「変われない」という信仰を持ってしまっているかも知れません。罪深い自分の姿に失望している方もいるでしょう相変わらず同じ弱さや欠点が改善されていない自分に、ガッカリしてしまうこともあります。

 特に、今日のみことばのような箇所を開くと余計にそう思うかも知れませんね。しかし、私たちは、どんな人であろうとも、神の御子キリストを信じ、受け入れたのなら、確かに神の子とされると学んできました。真実です。そして、私たちが自分で思うような成長や変化がわからないとしても、確かに変えられているのです

 罪から離れる大切さを教えられると同時に、みことばを通して私たちは確かに変えられていることも感謝して受け止めていきたいのです。特にキリスト者として、主が教えられたように兄弟姉妹を愛することをいつも大事にしていくことです。変えられた私たちの最大の特徴は、愛に生きていくことです。神様を愛し、隣人を愛する姿こそ、「キリストの弟子である」と誰もが認めることのできる証しだからです。変えられた喜びをしっかりと覚え、ますます主の愛に歩みましょう。

 

1.罪にとどまるという問題

 まず、ここでヨハネは罪について再度整理をします。

4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。 

 聖書が教える罪は、「神の律法」に違反していることだと言います。それは、人間の決めた基準ではなく、神様の基準において合法か、違法かという問題なのです。この神の基準に完全に合致している状態を「義」と呼びます。

 そして、人はうわべを見ますが、神は心を見ます。そうであれば、たとえ行いが良いものに見えても、そこに愛がないとすれば、それは神様の前に「義」とは呼べませんよね。パウロも言いました、たとえ天使の異言で話せても、完全な信仰があっても、愛がなければ無に等しい愛を抜きにして、神の法に合致することはないのです。そして、愛に満ちたイエス・キリストこそ、まことの義なる方です。5節の最後にて、「この方のうちに罪はありません」とある通りです。

 続く6節でこうあります。 

6  キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。 

 鋭い表現です。ここでの表現は、少し原語の説明が必要です。実は4節から9節にかけて、何度も「罪を犯す」という表現が繰り返されていきます。しかし、いずれも「現在時制」で語られています。ギリシャ語の現在時制には「継続」や「習慣」の意味があります。ですから、「罪を継続的に犯す」という意味がそこにはあると言えます。言い換えれば、罪の中にとどまるということです。

 そういう人を8節では、「悪魔から出た者」と表現しています。居場所が罪の中だからです。当時、知的探求ばかりに熱心で、偽りの教えに執着する偽キリスト者がいました。彼らは、聖書の知識を探求しながらも、まさに愛に生きていない、つまり罪にとどまっていたゆえに、悪魔から出た者であったのです。キリストにとどまる人は、同時に罪の中にとどまることはできないのです。

 ですから、この6節で語られていることも、キリストにとどまる者は「一度も罪を犯さない」と極論を言っているのではありません。罪の中にとどまろうとはしない!と教えているのです。また、罪を一度でも犯したら、キリストを見てもおらず、知ってもいないと言うのでもありません。罪の中にとどまる者は、キリストを知っている者ではない(キリストと親密な知り合いではない)と言うことでしょう。

さらに、この文脈で語られている「罪」の問題は、知らずに犯してしまう罪だとか、誘惑に流され魔がさしたという罪の話ではないのでしょう。4節では「律法に違反する」とありますが、これは神のルールを意図的に無視することです。また、10節では「義を行わない」とか「兄弟を愛さない」という罪についての言及です。これも意図的な拒絶ですよね。義を行わないでいても平気でいる。兄弟を愛さないままでいることに甘んじていると言うことです。 

特に、この後の11節以降ずっと教えられているが「愛」についてです。ですから、ここで特にこの文脈で意識されているのは、10節の最後にある「兄弟を愛さない罪」なのですよね。それは「義を行わない」とも重なる部分が多くあります。例えば、この後にある17節ではこうありますね。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。 

 私はクリスチャンです!聖書を学んでいます!と言いながら、困っている人に関心を持たない。苦しむ人の声に耳を傾けない。そういう人に、神の愛はあるのでしょうか。神の前に義を行ってもいないと言えます。

 私たちもこれはいつも問われることですよね。愛すべき人を愛そうとしない罪です。スーツを着ているから牧師なのではない。礼拝に出席しているから良いクリスチャンなのではない。神の愛に生きる者こそ、真のキリスト者、真の牧師でしょう。

 ヨハネがここで問いかけ、知って欲しいと願っていることは、知識や形ばかりの信仰者ではなく、イエス様が愛したように隣人を愛し、神を愛するという、本物のキリスト者であって欲しいということです。皆さんはなすべき正しいこと、義をなしていますか。愛すべき人を愛していますか。そうしないことに慣れてしまってはいませんか。そこに神の愛はあるのでしょうか。思うように変わっていない自分を発見するかも知れません。

 

2.罪を取り除く神の子羊!!

 ただ、私たちには大きな希望があります!! 5節をご覧ください。

5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。

 ここでは、イエス様が地上に来られた目的が語られています。それは、罪を赦すだけでなく、「罪を取り除くために」来られたということです!ヨハネの福音書1章でバプテスマのヨハネがイエス様を見つけた時に叫んだことばが、まさにそれでした。

ヨハネ129 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。

 キリストは罪を赦すだけでなく、罪を取り除いてくださる神の子羊なのです。主は私たちを造り変え、罪から離れさせ、罪に勝利する者としてくださるために来られたのです。愛さないことに慣れてしまう生き方から、愛さずにはいられない者へと変えてくださったのです。確かに私たちは、罪にとどまることに居心地の悪さを感じるようになりました。そこがまるで、自分の家ではないように!自分の家は、神の御腕の中となったからです。

 確かに誘惑に負けることもあります。依然として罪深い自分に気づいて涙することもあります。けれども、実際にキリスト者になって変えられている部分も、大いにあるのではないでしょうか。その点にもしっかりと目を向けたいのです。 キリストはあなたを罪から引き離し、罪に勝利させるために来られたのです。

ですから、あなたは確かに変えられているはずです。冷静に振り返ってみる時、信仰をもって自分を顧みる時、変わっていない部分だけのはずがありません。確かに変わった部分が明らかにあるのではないでしょうか。以前ならば平然とある罪を犯していたかも知れない。平気でうそをついたかも知れない。かつては、人の悪口を言っていたかも知れない。かつては、様々な偶像を神様の代わりにしていたかも知れない。かつては、ごめんなさいが言えなかったかも知れない。愛さないことで心が責められることもなかったかも知れない。

しかし、今は違う!

愛さないでいる。無関心でいるなら示されるはずです。主から導かれるはずです。主に喜ばれる道を歩みたいと願うのではないでしょうか。

そして、愛さないでいるのではなく、愛する決断をしたいはずです。愛さないままでいることは、キリストと一つにされたあなたには出来ないことです。むしろ、愛さないでいると、それが居心地悪くさえなっているはずです。9節にこうあるからです。 

9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

最初にある「生まれた」ということばは「完了形」です。それは、神から「生まれた」という事実が一瞬ではなく、今に至るまでずっと残っているという意味です。イエス様を信じたのなら、もうすでにあなたは神によって生まれ直したのです。神の血、神の遺伝子を受け継ぐようにして!!そして、途中から悪魔の子になったりはしないのです。

それは、9節の二文目にあるように「神の種がその人のうちにとどまっている」とある通りです。それゆに、「罪を犯すことができない者」として、新しく生まれたのです。神の子として生まれ変わったのですから。もちろん、厳密には罪がゼロにはなりません。人ですから不完全です。けれども、言うなれば、罪を犯しにくい体質へと変えられているのだということです。そこには「罪に対する敏感さ」、「罪を嫌悪する心」、「罪に抵抗しようとする意志」があります。

より積極的な面では「聖さと神のみこころを求める心」、「神と人とを愛そうという願い」があるはずです。これらは、私たちが既に変えられていることの証しです。変えられた私であることもまた、主にあってしっかり受け入れませんか。

イエス様は確かにあなたから、罪を取り除き、確かにあなたは以前とは違うのです。

 

改めて5節に目を留めましょう。「あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れた」のです。キリストにはその勝利の力があり、私たちはそれを受けているのです。

 以前、私はある人を愛することができず、「あの人を愛せるように助けてください」と祈っていました。しかし、「愛せるように」という祈りは、愛せないままの祈りです。どこかで「愛せないままで良い」という逃げ道を自分に与えていたのです。それを示され、変えられました。

「あの人を私は愛します。できない時もあるけど愛します。だから力を与えてください」と祈るようになりました。確かに主によって変えられたのです。あなたもキリストの十字架によって、変えられたはずです。この愛を知ったはずです。伝えずにはいられない者、愛さないではいられない者、義を行わないではいられない者とされています。なんという恵みでしょうか。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *