*** 11/12(水)祈祷会 説教概略 ***
サバティカルの恵みについてのお話は、とりあえず今日でいったん最後とさせていただきます。今日のテーマは「健全な信仰を保つ」ということです。
戦国時代になされた宣教によってもたらされた信仰でしたが、その信仰が健全に保たれることも大切ですよね。私たちの信仰は、救われて終わりではなく、むしろそこからが大切です。天の故郷目指して、より豊かにされていく継続的なものです。
昨今は特に「SDGs(Sustainable Development Goals)=持続可能な開発目標」ということばが重要視されています。継続性というものにより意識が向けられるようになったことは良いことだと感じています。私たちの信仰においても、非常に重要なことではないでしょうか。
「何人救われたのか」ということが、しばしば大事にされがちですが、その人たちが「何人残っているのか」ということも問わる必要があります。もっと言うならば、集っている人々が「どれだけ霊的に豊かにされているのか」ということも本当に大切です。
ただし、このことによって、徐々に信仰自体がズレていき、もはやキリスト教ではないのでは?と思われるケースも増えていったのです。これは日本だけでなく、フィリピンなどでも歴史的に起こっているでした。
もちろん、当時の日本の場合は、迫害が非常に強くなり、宣教師たちもみんな殺されたり、追い出されてたりしてしまったので、ある意味かわいそうだったと言えます。望んで、教えや指導から離れたわけではなかったからです。
その点からすると、旧約聖書のイスラエルの民は、すぐ近くに主の教えがあったのに、預言者が多く遣わされたのに、その教えに耳を傾けず、自ら偶像礼拝に走っていたと言う意味で、罪が大きいと言えます。
ヨシュア記1章7-8節
7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
私たちはコロナにおいて、分断、孤立の問題を考える機会ともなりました。しかし、集まることをやめることは、私たちの信仰のいのちに関わる重大な問題であると、むしろ教えられてきたのではないでしょうか。