東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 箴言11章14節「健全な信仰を保つ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/11/25

箴言11章14節「健全な信仰を保つ」

 *** 11/12(水)祈祷会 説教概略 ***

 サバティカルの恵みについてのお話は、とりあえず今日でいったん最後とさせていただきます。今日のテーマは「健全な信仰を保つ」ということです。

 戦国時代になされた宣教によってもたらされた信仰でしたが、その信仰が健全に保たれることも大切ですよね。私たちの信仰は、救われて終わりではなく、むしろそこからが大切です。天の故郷目指して、より豊かにされていく継続的なものです。
天草の崎津教会


 昨今は特にSDGsSustainable Development Goals)=持続可能な開発目標」ということばが重要視されています。継続性というものにより意識が向けられるようになったことは良いことだと感じています。私たちの信仰においても、非常に重要なことではないでしょうか。

 「何人救われたのか」ということが、しばしば大事にされがちですが、その人たちが「何人残っているのか」ということも問わる必要があります。もっと言うならば、集っている人々が「どれだけ霊的に豊かにされているのか」ということも本当に大切です。

 今回の旅で、迫害のもとで隠れて信仰を保った人々のことも学ぶ機会が多くありました。むしろ、そちらの記録の方が多いぐらいです。特に、宣教師や神父などの霊的な指導者を失っていながらも、それでも信仰を保とうとしてきた歴史が、世界的に評価されています。それゆえの、世界遺産登録であると言えます。それ自体はすごいことですし、苦しい中でよく頑張ったのだなと敬意を表します。

ただ、一方で、そこで保たれ継承された信仰は、必ずしも健全なキリスト信仰ではなかったとも言えます。例えば、彼らは信仰を保つために、貝殻の模様などを母マリアが幼子イエス様を抱いている絵に見立てて、それを祈祷の際に用いていたと言われています。あるいは、バレないようにするためにマリア観音像などを作って、それを礼拝に用いていたなど。信仰を隠して保つために、仏教やその他の地元の宗教の中にキリスト教を隠していたわけです。外から見ると、日本の土着の宗教をしているように見えるので、迫害を避けられるということでしょう。

ただし、このことによって、徐々に信仰自体がズレていき、もはやキリスト教ではないのでは?と思われるケースも増えていったのです。これは日本だけでなく、フィリピンなどでも歴史的に起こっているでした。

 この点は、現代の私たちの信仰においても気をつける必要がありますよね。教会に行かなくても自分一人で信仰を保てるという考えは、やはり危険だと思います。私たちは自分が思うほど強くない。交わりから離れ、公同の礼拝から離れ、牧師や教師の指導から離れて歩む時、いつの間にか主のみこころから離れた姿になっている危険があります。

箴言1114節 指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。

 このみことばにあるように、指導がないと民は倒れるのです。一見元気で繁栄しているように見えたとしても、少しずつずれていき、気が付いたら大きく離れているということが起こり得ます。はさみで物を切る時に、切り取り線をしっかりと見ながら丁寧に切れば、それほどずれません。けれども「だいたいこんなものだろう!」と線を見ることを疎かにすると、最初は線の上にあっても、切るほどに遠く外れているなんてことがあります。

 250年もの期間、隠れて信仰を保ったとされていますが、それだけ長くなった分、ずれや誤解も大きくなってしまっていることも感じました。場合によっては、キリスト教とは言えないものになってしまっているとも感じました。ですから、このみことばにあるように、指導を求め続けることが大切だと教えられます。我流の信仰は主の望まれるものではないのです。

 多くの助言者によって救いを得るとあるように、兄姉との交わり、学びを地道に続けることも大切なのです。自分はもうわかった・・・その考えが、気が付いたら大きなずれへと引っ張り、本当の喜びを失わせてしまいます。助言に耳を貸さなくなると、独りよがりの信仰に陥りやすいですよね。

 もちろん、当時の日本の場合は、迫害が非常に強くなり、宣教師たちもみんな殺されたり、追い出されてたりしてしまったので、ある意味かわいそうだったと言えます。望んで、教えや指導から離れたわけではなかったからです。

 その点からすると、旧約聖書のイスラエルの民は、すぐ近くに主の教えがあったのに、預言者が多く遣わされたのに、その教えに耳を傾けず、自ら偶像礼拝に走っていたと言う意味で、罪が大きいと言えます

 それは現代の日本でも当てはまる可能性がありますよね。現代の日本は、ある程度信仰の自由が法的に保証されています。教会に行ったからといって殺されるようなこともないでしょう。そのような安全な状態にありながら、自分から離れていくとしたら、それは弁解の余地がないとも言えますよね。むしろ、自分の欲や自分の考えが優先されて、主の教えに謙虚に聞かないということの問題です。

カナンの地に入る時に主は、新しい民の指導者となったヨシュアに語られました。

ヨシュア記17-8節 
ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。

このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。

 これから異教徒が多くいる土地に入っていく、そのタイミングで語られたものでした。7節にあるように、あえて「右にも左にもそれてはならない」と念を押されています。イスラエルの人々も、カナンの地の土着の宗教から多くの誘惑を受け、多くの影響を受け、流されていくことを主はご存知だったからです。そこには罪の誘惑があふれていました。

 これは、決して、律法主義的な意味で、みじんもそれてはいけないと求められているわけではありません。神様のみこころとは、細い一本のロープの綱渡りではないのです。私たちの人格を尊ばれる主は、私たち各自の自由な応答をも尊重しておられます。

 たとえば、神様に何をささげるか?という際に、ささげる物については、ある程度の自由があるでしょう。賜物の違いもあります。献金を多くささげる人もいれば、伝道のわざを主へのささげものとすることもあれば、会堂掃除を丁寧にすることや、祈りによって主に献身する人もいるでしょう。そこに自由があります。

 ただ、それてはならないのは、それが神様に向かって、御霊の助けのうちになされる必要があるという点です。どんなに立派なことをしたり、ささげたりしても、心が神様から離れていては、結局ただの自己満足の行為に成り下がることもあるでしょう。 

このように、主の教えにいつでも堅く立ち、その本質から離れずに歩むことが大切です。それはひとりぼっちでは難しいのではないでしょうか。

そのために献身し、学んでいる者たちから教えられ、あるいは信徒同士でも互いに教え合い、学び合う。こうして励まし合いながら祈りのうちに歩んで行くのです。交わりの中で、自らの間違いやずれに気づかされ、より良い道に戻ることができます。あるいは、もっと豊かに主に仕えるアイディアも交わりの中で与えられます。ヘブル10章24-25節にこうあります。

24  また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

25  ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

 私たちはコロナにおいて、分断、孤立の問題を考える機会ともなりました。しかし、集まることをやめることは、私たちの信仰のいのちに関わる重大な問題であると、むしろ教えられてきたのではないでしょうか。

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